クロード・メラン Claude Mellan, 1598 - 1688



(上) 「クロード・メラン、フランス人 画家にして版画家」(自画像の部分 1635年) クロード・メラン自身によるグラヴュール


 クロード・メラン(Claude Mellan, 1598 - 1688)はアンシアン・レジーム期のフランスの芸術家で、特に非常に優れたグラヴール(仏 graveur エングレイヴァー)として知られています。


【クロード・メランの生涯】

 クロード・メランは北フランスのアブヴィル(Abbeville オー=ド=フランス地域圏ソンム県)で金物加工業者の家に生まれ、少なくとも 1619年にはパリに住んでいました。最初は細密肖像版画を得意とするレオナール・ゴルチエ(Léonard Gaultier, c. 1561 - 1641)の弟子であったようですが、やがてより大胆な作風に移行しました。

 クロード・メランは富裕な天文学者ニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク(Nicolas-Claude Fabri de Peiresc, 1580 - 1637)の支援を受けて、1624年にローマに渡りました。ローマではアッシジ出身の版画家フランチェスコ・ヴィッラメーナ(Francesco Villamena, 1566 - 1625)の下で版画を研究しましたが、間もなく師が亡くなったので、同年シモン・ヴーエ(Simon Vouet, 1590 - 1649)の弟子となりました。ヴーエはパリ生まれのフランス人画家ですが、1624年から 1627年までローマに滞在していました。ヴーエの下でデッサンに励んだことは、生涯の宝となりました。1626年には師ヴーエの夫人ヴィルジニア・ヴェッツィ(Virginia Vezzi, 1601 - 1638)の肖像を描いています。

 1630年頃には版画集「ラ・ガッレリア・ジュスティニアーナ」(註1)のために数点の版を制作しています。ローマでは師ヴーエのほか、ピエトロ・ダ・コルトーナ(Pietro da Cortona, 1596 - 1669)やジャンロレンツォ・ベルニーニ(Gianlorenzo Bernini, 1598 - 1680)等の複製版画を主に手掛けましたが、「聖フランソワ・ド・ポール(註2)」「マグダラのマリアの悔悛」を含むオリジナルの作品も少数ながら制作しています。上に示した自画像はおそらくローマで制作された作品で、陰翳の表現にクロスハッチを用いる伝統的技法によります。




(上) 「上弦の半月」 "La lune dans son premier trimestre", Cl Mellan Gallicus pinxit et sculpsit, 1635


 クロード・メランは 1635年頃にフランスに帰国し、エクサンプロヴァンス(Aix-en-Provence プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県)のニコラ=クロード・ファブリ・ド・ペーレスク邸に身を寄せます。エクサンプロヴァンスではド・ペーレスクとピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592 - 1655) の指導を受けて、月の盈虧(えいき 満ち欠け)を版画にしています。ド・ペーレスクは学術の後援者であるとともに自らも天文学者でしたし、ガッサンディは天文学、数学、哲学、神学の各分野に秀でた天才です。






(上) 「ヴェロニカの布(きぬ)」 全体及び部分 "SUDARIUM" ou "Le Linge de Sainte Véronique", 1649, 43.3 x 31.7 cm platemark


 翌 1637年にパリに戻ったクロード・メランは、輪郭線とクロスハッチを一切使わずに、平行線の太さの変化のみで三次元性を表現する独自の技法を使うようになりました。最も有名な作品は 1649年に制作した「ヴェロニカの布(きぬ)」で、メランは右手にビュランを持って力を正確にコントロールしつつ、左手で銅板を反時計回りに回転させ、キリストの鼻の頭を起点とする一本の渦巻き線でヴェロニカの布全体を描いています。「ヴェロニカの布」の原版は、ブリュッセルのベルギー王立文書館に収蔵されています。

 なお作品の下部にあるラテン語の銘("Formatur Unicus Una, Non Alter")は、歴史家で美術品収集家でもあった修道院長ミシェル・ド・マロール師(Abbé Michel de Marolles, 1600 - 1681)によるものです。銘は簡潔過ぎて意味が分かり辛いですが、筆者(広川)が解釈するに、おそらく「ただ一人のキリストが、唯一の技法で描かれている。このようなキリストは他にいない」(羅 UNICUS CHRISTUS i. e. unica imago Christi UNĀ TECHNĀ FORMATUR. NON EST ALTER CHRISTUS QUI SICUT ISTE EST.)ということでしょう。


 パリ時代のメランは肖像画家及び肖像版画家として絶大な人気を博するとともに、宗教的主題の大型版画にも取り組みました。前者に関しては王室御用達の肖像版画家となってブルボン家の人々を版画で描いたほか、ジロラモ・フレスコバルディ(Girolamo Alessandro Frescobaldi. 1583 - 1643)の肖像をはじめ、数々の優れた作品を生み出しました。ポーランドの王妃マリー=ルイーズ・ド・ゴンザーグ=ヌヴェール(Marie-Louise de Gonzague-Nevers, 1611 - 1667)の肖像、及びサヴォワ=ヌムール公アンリ二世(Henri II de Savoie-Nemours, 1625 - 1659)の肖像は、デッサンとグラヴュールの両方が制作されています。

 クロード・メランは 1642年にルーヴルに移り住み(註3)、1688年に没するまでパリにとどまりました。美術史家アナトール・ド・モンテリョン(Anatole de Montaiglon, 1824 - 1895)が作成した目録によると、1856年の時点で、クロード・メランの作品数はグラヴュールがおよそ四百点、デッサンがおよそ百点でした。このうちグラヴュールはおよそ百点が現代まで伝わっています。クロード・メランのデッサンはストックホルム国立美術館とエルミタージュ美術館に多く収蔵されています。油彩作品「サムソンとデリラ」「荒れ野の洗礼者ヨハネ」「マグダラのマリア」は原作が失われ、メラン自身の複製グラヴュールによって知られています。



註1 「ラ・ガッレリア・ジュスティニアーナ」("la Galleria Giustiniana")は古代彫刻の版画集で、1630年代から 1640年にかけてローマで出版された。「ラ・ガッレリア・ジュスティニアーナ」を監修したアヒム・フォン・ザントラルト(Joachim von Sandrart, 1606 - 1688)は自身も版画家であるが、他の版画家にも作品制作を割り振った。

註2 聖フランソワ・ド・ポール(パオラの聖フランチェスコ St. François de Paule, Francesco da Paola, 1416 - 1507)は「意と小さき者の修道会」(羅 ORDO MINIMORUM, OM)を創設した隠修士。イタリア南端に近いパオラ(Paola カラブリア州コゼンツァ県)に生まれ、フランスのトゥール近郊プレシ=レ=トゥール(Plessis-lèz-Tours サントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏アンドル=エ=ロワール県)の修道院で没した。

註3 当時ルーヴル宮にはさまざまな階層の人たちが大勢住み着いていた。



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