サー・ジョシュア・レノルズ作 「恋は盲目」 帯をほどくクピードーと、草に潜む蛇 ヘンリー・ロビンスンによる美麗エングレーヴィング 1846年

the Snake in the Grass or Love Unloosing the Zone of Beauty


原画の作者 サー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿 Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792)

版の作者 ヘンリー・ロビンスン(Henry Robinson, fl. 1827 - 1875)


画面サイズ  160 x 205 mm



 サー・ジョシュア・レノルズの油彩画に基づいて、ヘンリー・ロビンスンが制作した細密スティール・インタリオ。




(上) Sir Joshua Reynolds, "The Snake in the Grass" or "Love Unloosing the Zone of Beauty", 1784, Oil on canvas, 1245 x 991 mm, Tate


 この作品は「スネイク・イン・ザ・グラス」(The Snake in the Grass 草の中の蛇)または「美神の帯を解くクピードー」(Love Unloosing the Zone of Beauty)、「ウェヌスの帯をほどくクピードー」("Cupid Untying the Zone of Venus")の題名で知られています。サー・ジョシュア・レノルズは古代人ではなく近世の人ですから、寓意を用いてあくまでも上品な表現をしています。しかしながらラテン語のウェヌス(Venus ヴィーナス)は性愛の女神の名であり、クピードー(Cupido キューピッド)は性欲の意味です。それゆえ「ウェヌスの帯をほどくクピードー」を古代ローマ人と同じ発想で解釈すれば、この作品は性的放縦への戒めをテーマに描かれていることがわかります。

 サー・ジョシュア・レノルズ(ジョシュア・レノルズ卿 Sir Joshua Reynolds, 1723 - 1792)が「スネイク・イン・ザ・グラス」(ウェヌスの帯をほどくクピードー)を最初に展示したのは 1784年で、モデルは当時十八歳であった美貌の女性エマ・ハート(Emma Hart, 1765 - 1815)と考えられています。この絵が描かれた七年後、エマ・ハートはイギリスの駐ナポリ公使サー・ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(Sir William Douglas Hamilton, 1730 - 1803)と結婚しましたが、その後ネルソン提督(Horatio Nelson, 1758 - 1805)の愛人になり、提督の子供を二人生んでいます。夫のハミルトン卿が購入した家で、夫と提督とともに奇妙な同居生活を送り、夫と提督の死後には浪費の結果債務不履行で収監され、最後はフランスのカレーで困窮のうちに亡くなりました。エマ・ハートが送ることになる波乱の人生を思うと、この絵は予言じみて見えます。

 サー・ジョシュア・レノルズはこの作品を数点制作しており、1784年の作品はロンドンのテートに収蔵されています。ロンドンのサー・ジョン・ソウン美術館(Sir John Soane's Museum)、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にも同じ作品があります。





 この版画はふたりの人物の肌と髪、女性の衣、クピドーの背中の翼に加え、原画に赤で描かれた背景の布、背景の空を、エングレーヴィングで制作しています。それ以外の背景と蛇は、エッチングによります。

 十九世紀のインタリオは、画面の左下に原画の作者名、右下に版の作者名を刻みます。原画の作者名に続く "PINXT" はラテン語ピーンクシット(PINXIT)の略記で、「描いた」という意味です。版の作者名に続く "SCULPT" はラテン語スクルプシット(SCULPSIT)の略記で、「彫った」という意味です。本品はサー・ジョシュア・レノルズの原画に基づくヘンリー・ロビンスンの作品ですので、版画の左下にレノルズ卿の名前と "PINXT" の表記が、右下にロビンスンの名前と "SCULPT" の表記が、それぞれ刻まれています。

 本品の版を制作したヘンリー・ロビンスン(Henry Robinson, fl. 1827 - 1875)は、人物画を得意とするイギリスのエングレーヴァーです。ロビンスンは多作な版画家として知られており、G. N.ライト(George Newenham Wright, c. 1794 - 1877)の編集による「エングレーヴィング美術館」(The Rev. G. N. Wright, M.A., ed. "The Gallery of Engravings", published by Fisher, Son, & Co., 1844 - 1846)に、本品を含む十二点を発表しています。「エングレーヴィング美術館」は三年にわたって順次刊行されましたが、ヘンリー・ロビンスンの十二点がすべてこの三年間で製版されたのだとすれば、一点の制作に僅か三か月しかかかっていないことになります。これは驚くべき速さで、ロビンスンの人並み外れた才能と勤勉さがうかがえます。ロビンスンの「スネイク・イン・ザ・グラス」は大きな人気を集め、1872年の「ジ・アート・ジャーナル」(The Art Journal, Virtue, London)にも収められました。





 女性の左側(向かって右側)に、小さな蛇が描かれています。またクピードー(アモル、エロース)は一見したところ無邪気なプット(伊 putto 有翼の童子)の姿で表されていますが、女性の帯を引っ張って解(ほど)こうとしています。女性を特定できるアトリビュートは描かれていませんが、類(たぐい)まれな美しさゆえに、またクピードーとの組み合わせゆえに(後述)、ウェヌス(ヴィーナス)であることがわかります。

 ちなみに英語の画題(Love Unloosing the Zone of Beauty)の「ゾーン」(zone)は、現在では「地帯」の意味に使うことが多いですが、これはギリシア語「ゾーネー」(ζώνη)がラテン語「ゾーナ」(ZONA)を経由してフランス語と英語に入った語で、本来は「帯」のことです。地球の気候帯は大まかに言って五つのゾーン、すなわち北極圏と南極圏(いずれも寒帯)、及び北回帰線と南回帰線に分断される三つの地域(熱帯と南北半球の温帯)に分けることができます。地球儀を横から見るとこれらの地域は帯状なので、これを「ゾーン」(帯)と呼んだのです。日本語の「地帯」は「ゾーン」を訳した明治期の新語で、日本国語大辞典第二版によると、初出は石橋忍月「想実論」(1890年)です。




(上) Agnolo Bronzino, "L'Allegoria del trionfo di Venere", 1540 - 1545, Olio su tavola, 146 x 116 cm, the National Gallery, London


 通説ではクピードーはウェヌスの息子とされるゆえ、クピードーがウェヌスを誘惑する本品の画題は近親相姦的に思えます。しかしながらキリシア・ローマの神々が本来人格を持たない自然神であることを考えれば、これを近親相姦と看做す必要はありません。

 ウェヌスとクピードーの組み合わせは、後期ルネサンスからマニエリスム期の美術において、淫乱を象徴する恋人像として盛んに描かれました。本品「スネイク・イン・ザ・グラス」(美神の帯を解くクピードー)は、人間は言うに及ばず、神も女神もクピードーの矢に抗することはできないこと、性愛の女神自身でさえ、恋に落ちれば明らかな危険が見えなくなってしまうことを表現しています。

 上の写真はマニエリスムの画家ブロンジーノによる「ウェヌスの勝利の寓意」で、西洋近世美術史上もっともよく知られた作品の一つです。この作品においてクピードーはウェヌスに接吻しながら胸を触っています。ウェヌスは右手にクピードーの金の矢を持ち、左手には愛欲の象徴である林檎を握っています。クピードーの足元にいるハトはウェヌスの鳥であり、性愛を象徴します。向かって右のプットが手に持っている薔薇はウェヌスの花であり、やはり性愛の象徴です。




(上) 「インプディーキティア」 1740年代の寓意画 Allegorical and sacred subjects, and hermits. Drawings, ca. 1740. Credit: Wellcome Collection. CC BY


 上の写真は 1740年頃に描かれたインプディーキティア(羅 IMPUDICITIA 淫乱)の寓意画で、おそらくフランツ・アスプルック(Franz Aspruck, ca. 1570/1580 - ?)の原画に基づきます。画面手前の左寄りにウェヌスとクピードーが、ウェヌスの足元には淫乱の象徴である山羊が描かれています。寓意画の上方には次の言葉がラテン語で記されています。和訳は筆者(広川)によります。
         
      IMPUDICITIA - Quantum sola noces animis illapsa Voluptas,
Impius atque miser Sardanapalus erat.
    淫乱 ― 快楽よ。諸人の魂に一旦入り込めば、汝ひとりが害を為す。
サルダナパルはさらに不信仰でもあり、憐れむべき輩でもあった。
 
 上記の前半部「快楽よ。諸人の魂に一旦入り込めば、汝ひとりが害を為す」(羅 Quantum sola noces animis illapsa, Voluptas)は、シーリウス・イータリクス(Silius Italicus, 28 - 103)の長大な叙事詩「プーニカ」("Punica" カルタゴ記)第十五巻九十二節からの引用です。後半部では、アッシリア王サルダナパルが堕落した肉欲の権化として引き合いに出されています。
         
 寓意画の下方には次の言葉がドイツ語で記されています。和訳は筆者によります。
           
      Die Unkeuschheit - Sardanapalus Wollust übt und dadurch seinen Gott betrübt     淫乱 ― サルダナパルは情欲のままに振る舞い、それによって自分の神を悲しませる。


 美術史家チェーザレ・リーパ(Cesare Ripa, c. 1560 - c. 1622)の「イコノグラフィア」("Iconologia")は、エングレーヴィングによる二百葉の挿絵付「ヒストリアエ・エト・アレゴリアエ」("Historiæ et Allegoriæ")として、1758年ないし 1760年、ヨハン・ゲオルク・ヘルテル(Johann Georg Hertel, c. 1700 - 1775)の手で出版されました。同書には上の線描画をもとにしたエングレーヴィングが掲載されており、絵の上下に書かれた言葉も完全に一致しています。("Baroque and Rococo Pictorial Imagery, The 1758 - 60 Hertel Edition of Ripa's "Iconologia" with 200 Engraved Illustrations", Edward A. Maser (introd., trad. & com.), New York, Dover, 1971)





 本品のウェヌスは美しさに輝いています。片腕を上げて顔を半ば隠した性愛の女神は、少し恥ずかしげにこちらを見てコケティッシュに微笑んでいます。このような微笑みを投げかけられて、平気な男性はいないでしょう。本品の画題は教訓的ですが、実際の画面は辛気臭い道徳が不在で、現世肯定的な明るさにあふれています。誘いかけるような女神の眼差しと微笑み、愛らしい仕草は、この作品の気品に官能の香りを添え、生命の息吹を吹き込んでいます。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。肌の陰翳も、女性の瞳と髪に宿る光も、肉眼では写真のようにしか見えませんが、拡大して観察すると、すべて溝とスティプル(点描法の点)で表されていることがわかります。スティプルはでたらめに配置されているのではなく、実線状の溝の延長に規則正しく穿(うが)たれ、肌のほとんどの部分ではクロスハッチ(平行線が斜めに交差した状態)となっています。クロスハッチによってできる菱形の一辺は 0.5ミリメートル前後で、その中心にはひとつひとつ細心の注意を以て、非常に小さな点が打たれています。

 髪と眉は一本ずつ丁寧に彫られています。髪の先端は半径一ミリメートルほどの弧を描き、細くなって自然に消失しています。細部をはじめ、あらゆる部分をこのように完全な状態で保存できるのは、版画ならではの大きな強みです。テートに収蔵されている原画は経年で劣化し、髪の輝きは失われてしまっていますが、本品では当初の美しい状態がそのまま保たれています。





 上の写真は左(向かって右)の乳房を拡大しています。スティプルの配列はやはり規則的です。線と線との間隔、及びクロスハッチの菱形のサイズは、顔に比べてやや大きくなっています。


 アンティーク・エングレーヴィングの細密さは、原寸大の写真によって再現することができません。コンピューターのモニターで表示するために、版画の全体像を把握しやすいサイズまで画素数を落とすと、細部はすべて失われます。細部がどのように彫られているかを示すためには、版画の数か所を選んで接写し、顕微鏡写真のような拡大写真で示すしかありませんが、拡大写真は現物のサイズとかけ離れています。これに加えて、現物のアンティーク・エングレーヴィングは、拡大写真でも判別が困難な細密さを有しており、それらの細部は版画作品の全体を肉眼で見たときの驚くべき写実性に貢献しています。

 拡大写真で示した細部が実際の作品にどのような効果をもたらしているかを知るためには、現物をご覧いただくしかありません。アンティーク・エングレーヴィングの現物は写真で見るよりもはるかに美しく、購入された方には必ずご満足いただけます。





 版画は未額装のシートとしてお買い上げいただくことも可能ですが、当店では無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を提供しています。上の写真は額装例で、外寸 40 x 31センチメートルの木製額に、緑色または青色ヴェルヴェットを張った無酸マットを使用しています。この額装代金は、いずれも 24,800円です。

 額の色やデザインを変更したり、マットを替えたりすることも可能です。無酸マットに張るヴェルヴェットは赤やベージュ等に変更できますし、ヴェルヴェットを張らずに白や各色の無酸カラー・マットを使うこともできます。


 版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。





エングレーヴィングの本体価格 48,800円 (額装別)

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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