アンリエット・ブラウン作 「アルザス」 フランシス・ホルによるスティール・エングレーヴィング 感情をも描き出したインタリオの名品 1878年

Alsace


原画の作者 アンリエット・ブラウン (Henriette Browne, 1829 - 1901)

版の作者 フランシス・ホル (Francis Holl, 1815 - 84)


画面サイズ 247 x 176 mm



 普仏戦争で戦死したり、負傷したり、不具になったりした兵士とその家族のために、義捐金を集める修道女を描いた作品。原画の作者アンリエット・ブラウンは、肖像画、人々の生活を描いた風俗画、子供や家族の情景などを得意とした女流画家です。彼女の描く絵には女性の眼差しと優しさが溢れています。


《普仏戦争について》

 十九世紀ヨーロッパは国民主義の時代でした。各国・各地域は国家統一、失地回復、勢力拡大にむかって突進します。その結果必然的に起こるのが戦争です。

 1861年、プロイセン(プロシア)王となったヴィルヘルム一世は、ビスマルクを首相に任命します。鉄血宰相とも呼ばれるビスマルクは、武力によるドイツ統一を目指し、最初はデンマーク、次にオーストリアと戦って、プロイセンの勢力を拡大します。さらにドイツの強大化を恐れるフランス皇帝ナポレオン三世をわざと挑発し、ナポレオン三世はドイツ(プロイセン)に宣戦を布告。1870年7月、ついに普仏戦争が始まりました。

 戦争は初めからドイツに有利でした。戦術面でも武器の性能面でも、両国には格段の差があったのです。ドイツ連合軍はたちまちフランスに侵入し、早くも9月1日にはセダンの戦いで八万三千人のフランス軍とともにナポレオン三世自身を捕虜にして、同月19日にはパリを包囲、フランスは翌年一月末にドイツに降伏しました。この結果、フランスはアルザス、ロレーヌ両州をドイツに割譲し、五十億フランの賠償金を課せられました。


 ヨーロッパ各国が悲惨な戦争に明け暮れた十九世紀は、赤十字が生まれた時代でもありました。イタリア統一戦争の激戦地で兵士達の悲惨な状況を目にしたスイス人、アンリ・デュナンの訴えが各国に大きな反響を呼んで、1864年ジュネーヴ条約(赤十字条約)が調印され、国際赤十字組織が誕生しました。


《この作品の原画について》




 この絵には誕生後間もない赤十字のスール(仏 sœur 修道女、シスター)が描かれています。彼女はアルザスの教会の入り口に立ち、普仏戦争で戦死した兵士の未亡人たち、孤児たちのために、義捐金を集めています。アルザスはドイツとの国境地帯であり、普仏戦争の激戦地です。誰もが身近な人を戦争で亡くしていました。このスール自身も、家族や友人を亡くしていたのではないでしょうか。彼女の柔和な顔には深い悲しみが刻まれています。

 この作品「アルザス」は、普仏戦争の翌年に制作されました。スールの悲しみ、彼女に義捐金を託するアルザスの人たちの悲しみが、絵を観る者の胸に迫ります。


《原画の作者について》



(上) La Lecture de la Bible, 1857 カンヴァスに油彩 89.8 x 116.5 cm ニュー・ジーランド、クライストチャーチ・アート・ギャラリー蔵


 本品はフランスの女流画家・版画家、アンリエット・ブラウン(Henriette Browne, 1829 - 1901)の原画に基づきます。アンリエット・ブラウンの本名はソフィ・ド・ブテイェ(Sophie de Bouteiller)ですが、外交官ジュール・アンリ・ド・ソー(Jules Henry de Saux)の妻であったので、「マダム・ド・ソー」(Mme de Saux ド・ソー夫人)とも呼ばれます。アンリエット・ブラウンという英語風の名前は、フランスにならんでイギリスでも作品を多く展示したことによります。




(上) The Greek Captive, 1863 カンヴァスに油彩 92.1 x 73 cm テート・ブリテン蔵


 アンリエット・ブラウンはシャルル・シャプランとエミール・ペランに師事しました。

 シャルル・シャプラン(Charles Chaplin, 1825 - 1891)はロココ風の女性像を得意とした画家で、ウジェニー皇妃に重用されて、エリゼ宮半円形サロン、ガルニエ宮(オペラ座)、チュルリー宮の装飾に携わっています。エミール・ペラン(Émile Perrin, 1814 - 1885)は批評家、劇場装飾家でもあった画家で、オペラ=コミック座とガルニエ宮(オペラ座)の館長を歴任し、コメディ=フランセーズの総監督にもなっています。




(上) A Nun, c. 1859 カンヴァスに油彩 Liverpool National Museums


 アンリエット・ブラウンは心温まる風俗画によってよく知られますが、宗教をテーマにした作品や、オリエンタリズム絵画も得意としました。オリエンタリズム絵画を描いた女性画家はたいへん少なく、アンリエット・ブラウンは珍しい例です。ル・サロンには 1853年から 1878年に作品を出展し、1855年には絵画部門で、1863年には版画部門で、いずれも三等のメダルを獲得しています。

 アンリエット・ブラウンは 1860年に外交官である夫に同伴してイスタンブールを訪れ、1865年にはモロッコを、1868年から 69年にはエジプトからシリアを訪れています。これらの旅行はオリエンタリズムの作品として結実しました。1861年のサロンに出展した二作品、「訪問 ― コンスタンティノープル、ハーレムの内部」("lUne Visite - 'Intérieur de harem ; Constantinople", 1860)と「笛を吹く女 ― コンスタンティノープル、ハーレムの内部」("Une joueuse de flûte - l'Intérieur de harem ; Constantinople", 1860)は、テオフィル・ゴーチエをはじめとする大勢の批評家から称賛を受けました。




(上) A Girl Writing カンヴァスに油彩 74 x 92 cm ヴィクトリア・アルバート美術館


 テオフィル・ゴーチエが率いる「パリ美術協会」(la Société Nationale des Beaux-Arts de Paris)は 1862年に創立されましたが、創立メンバーには三人の女性が含まれており、アンリエット・ブラウンはそのひとりでした。五十歳を迎えた 1879年以降は作品を展示せず、1901年にパリで亡くなりました。


《版の作者について》

 フランシス・ホル


 本品は人物像を専門とするイギリスのエングレーヴァー、フランシス・ホルによる作品です。

 フランシス・ホル(Francis Holl, 1815 - 84)は版画家ウィリアム・ホル(William Holl, the elder, c. 1771 - 1838)の四男としてロンドンに生まれました。やはり高名なエングレーヴァーである兄ウィリアム(William Holl, 1807 - 71)とも多くの版画を共作しており、それらの作品には「W. 及びF. ホル」(W. and F. Holl)と署名しています。

 フランシス・ホルは市販されるヴィクトリア女王の肖像を二十五年にわたって彫り続けた人気版画家であり、女王をはじめとする王族から個人的な注文を受ける版画家でもありました。フランシス・ホルが王族から注文された版画のうちの二点、すなわち女王の夫アルバート公の肖像と、アリス女王の肖像は、市販を許可されています。

 1856年から 1879年、フランシス・ホルは十七枚のエングレーヴィングを王立アカデミーに展示しており、没するおよそ一年前にあたる 1883年1月16日には、アカデミー准会員(an associate engraver)に選ばれています。

 1862年から1882年の間、フランシス・ホルは「ジ・アート・ジャーナル」("The Art Journal" ロンドンのヴァーチュー社による豪華な美術誌)に七点の作品を発表しています。七点はいずれも優れた出来栄えですが、とりわけジョシュア・ハーグレイヴ・サムズ・マンの原画に基づく「ザ・カントリー・ブロッサム」(Joshua Hargrave Sams Mann, "The Country Blossom")と、チャールズ・エドワード・ペルジーニの原画に基づく「ア・シエスタ」(Charles Edward Perugini, "A Siesta")は、いずれも柔らかな画面が魅力的な名作です。それぞれの原画が描かれた年は未詳ですが、版画が制作された前年あたりであろうと思われます。フランシス・ホルの版画「ザ・カントリー・ブロッサム」は 1879年に、同じく「ア・シエスタ」は 1882年に、それぞれ制作されています。


《この版画について》




 本品はアンリエット・ブラウンの原画をもとに制作されたスティール・エングレーヴィングです。

 エッチング(英 etching)は酸の力で金属板を腐食させて溝を作ります。これに対してエングレーヴィング(英 engraving)は、インタリオの一種である点でエッチングと共通しますが、酸の力を借りるのではなく、彫刻刀を用い、人力で金属板に溝を彫ってゆきます。

 エングレーヴィングは溝の縁が鋭く切り立っているため、エッチングよりもはるかに精緻な版を作成することが可能ですが、エッチングに比べると、版の制作に数十倍以上の労力が必要です。それゆえほとんどのインタリオ作品はエッチングとエングレーヴィングを併用しますが、フランシス・ホルは本品「アルザス」を、背景を含めてすべてエングレーヴィングで制作しています。





 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。アンリエット・ブラウンの原画の柔らかさを表現するため、フランシス・ホルはスール(修道女)の顔に輪郭線を描かず、ただスティプルの間隔を調節することのみによって、背景となる暗部との境界を表現しています。スールの目、鼻、口、耳はすべてスティプルの深さと密度を調節することで表され、若々しい肌の艶やかな質感も、同様の方法で再現されています。眉の流れは自然であり、眼もとには睫毛(まつげ)も表されています。瞳孔、光彩、角膜の反射、涙腺の細部も、すべて正確に描かれています。

 版を制作中のエングレーヴァーには、金属板表面の穴しか見えていないのに、出来上がった版にインクを乗せるとどのような版画になるかを完全に把握し、彫刻刀に込める力を思いのままにコントロールしています。そのことを思うと、フランシス・ホルの卓越した能力がよくわかります。





 上の写真は首元の拡大です。布の襞と細部の明暗は、インタリオの溝の幅と深さ、並びに溝と溝との間に打たれる微小な点で再現されています。点はでたらめに打たれるのではなく、一辺 0.1ミリメートルほどの方形の内部に、細心の注意を以て配置されています。





 スールの手も、顔と同様に、輪郭線を有しません。実際この作品において、フランシス・ホルは、スールの顔と手だけでなく、布の境目、スールの体と手前の机の境目、スールの体と背景の石壁の境目等、すべての境界線をぼかし、美しいスフマートとしています。





 スールの右手は極端な遠近法が必要ですが、この部分もスティプルのみによって全く自然に再現されています。前腕部にできたマントの影も、腕の内側と外側では濃さが違います。スティプルを拡大しても違いがよく分かりませんが、刷り上がった作品を見ると写真のようです。





 コインの縁と、コインを入れた金属皿の縁は、本品においてただ一か所、明瞭な輪郭線を有する部分です。皿の縁の内側は、エングレーヴィングの線を敢えて途切れさせることにより、鏡のような皿の表面に、コインの形が映るさまを巧みに再現しています。机に敷いたゴブランのパターンは、丁寧なスティプルによって描かれています。


 エッチングに比べると、エングレーヴィングで制作した版には、いわば金属の表面のように硬質の滑らかさが備わります。それゆえ金属や磁気、鉱物など硬くて滑らかな物の質感を表現するのに向いていますが、人の肌や柔らかな布、動物の毛や鳥の羽毛など、柔らかな物をエングレーヴィングで描くと、いくぶん硬直したような表現になりがちです。しかしながらフランシス・ホルは天性の才能と熟練を併せ持つ芸術家であるゆえに、彫刻刀を自在に操って鋼板を刻み、あたかも生身の女性を眼前にするかのようなエングレーヴィングに仕上げています。


《額装について》

 版画は未額装のシートとしてお買い上げいただくことも可能ですが、当店では無酸のマットと無酸の挿間紙を使用し、美術館水準の保存額装を提供しています。下の写真は額装例で、四つサイズの木製額に、青色のヴェルヴェットを張った無酸マットを使用し、マットの内側の縁には銀色の縁を取り付けています。この額装の価格は 31,000円です。



 額の色やデザインを変更したり、マットを替えたりすることも可能です。無酸マットに張るヴェルヴェットは赤や青、ベージュ等に変更できますし、ヴェルヴェットを張らずに白や各色の無酸カラー・マットを使うこともできます。


 アンティーク・エングレーヴィングの細密さは、原寸大の写真によって再現することができません。コンピューターのモニターで表示するために、版画の全体像を把握しやすいサイズまで画素数を落とすと、細部はすべて失われます。細部がどのように彫られているかを示すためには、版画の数か所を選んで接写し、顕微鏡写真のような拡大写真で示すしかありませんが、拡大写真は現物のサイズとかけ離れています。これに加えて、現物のアンティーク・エングレーヴィングは、拡大写真でも判別が困難な細密さを有しており、それらの細部は版画作品の全体を肉眼で見たときの驚くべき写実性に貢献しています。

 私がここに書いていることを理解するには、現物をご覧いただくしかありません。アンティーク・エングレーヴィングの現物は写真で見るよりもはるかに美しく、購入された方には必ずご満足いただけます。


 版画を初めて購入される方のために、版画が有する価値を解説いたしました。このリンクをクリックしてお読みください。





本体価格 45,800円 ※額装をご希望の場合、別料金にて承ります。

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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