フレール・ロジェ (ロジェ・シュッツ)
Frère Roger, Roger Louis Schütz-Marsauche, 1915 - 2005





(上) フレール・ロジェ(ロジェ・シュッツ) 晩年の写真


 ロジェ・シュッツ(Roger Louis Schütz-Marsauche, 1915 - 2005)は、ラ・コミュノテ・ド・テゼ(仏 La Communauté de Taizé テゼ共同体 以下、テゼ)を創設したプロテスタント出身の修道士です。テゼではフレール・ロジェ(仏 Frère Roger 兄弟ロジェ、ロジェ修道士)と呼ばれており、本名よりもこの名前の方がよく知られています。


【フレール・ロジェの生涯】

 ロジェ・シュッツは 1915年5月12日、スイス西部ヴォー州プロヴァンス(Provence 註1)のプロテスタント家庭に、九人きょうだいの末っ子として生まれました。プロヴァンスの牧師である父はチューリヒ州の出身で、当地で使用されるフランス語とともにドイツ語を話しました。母はフランス東部のブルゴーニュ出身でした。プロヴァンスで育ったロジェはストラスブール大学とローザンヌ大学でプロテスタント神学を学び、修道生活をテーマに修士論文(L'Idéal monacal jusqu'à saint Benoît et sa conformité avec l'Évangile)を書きました。


・テゼの設立と初期の発展

 第二次世界大戦は 1939年9月初頭に開戦しましたが、およそ八か月のあいだ実質的な戦闘は行われず、奇妙な休戦状態が続きました。しかしながら 1940年5月10日、ドイツ軍がフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへの侵攻を一斉に開始すると、この休戦状態は終わりを告げ、激しい戦闘が始まりました。ドイツ軍は破竹の進撃を続け、5月15日にはオランダが、5月28日にはベルギーが早々とドイツに降伏しました。6月14日にはドイツ軍がパリに無血入場し、同16日にはペタン元帥が首相に就任して、同22日に独仏休戦協定が結ばれました。この休戦協定に基づいてフランスは南北に二分割され、北部はドイツの占領下に置かれました。南部のエタ・フランセ(仏 État français フランス国)はペタンを首班とするヴィシー政権の下で名目上の独立を保ちましたが、実質的にはドイツの傀儡国家に過ぎませんでした。

 ローザンヌ大学を卒業しようとしていた二十五歳のロジェ・シュッツは、近隣諸国を巻き込む悲惨な状況に衝撃を受けました。祈りと難民の匿い、及び将来の修道共同体設立に適した土地を探すため、ロジェは自転車でジュネーヴを出発し、母の故郷でもあるブルゴーニュに入りました。クリュニーの北およそ十キロメートルにある寒村テゼを通ったロジェは、老婦人に引き留められたことをきっかけに当地に居を定める決意をし、空き家を購入しました。1941年の夏から秋にかけて、ロジェは将来設立されるべき共同体の修道会則案を書き留めています。

 ロジェは姉とともにユダヤ人をはじめとする難民を匿い、スイスに逃がしていましたが、やがてその活動をドイツに知られ、1942年、誰もいない留守宅を捜索されました。難民に同伴してスイスを訪れていたロジェは危険を察知して、ヴィシー政権が崩壊する 1944年までジュネーヴに留まりました。ロジェはジュネーヴでマックス・チュリアン(Max Thurian, 1921 - 1996)、ピエール・スヴェラン(Pierre Souvairan)、ダニエル・ド・モンモラン(Daniel de Montmollin)とともにアパートを借りて共住の信仰生活を始めました。また 1944年、ロジェはヌーシャテルで按手を受けて牧師となりました。

 フレール・ロジェは 1944年秋にテゼに戻り、上記の三名も翌 45年までにロジェに合流して、祈りと農耕、手仕事の共住生活を始めました。テゼの男性たちは、独身制を守り、財産を共有し、長上に従う修道生活を送りました。その人数は 1949年の復活祭には七人となっており、その後も少しずつ増えてゆきました。


・若者たちの受け入れ

 1960年代は学生運動が盛んな時代でした。フランスでは 1968年5月に学生主導による大規模なデモとストライキ、大学や工場の占拠が起こりました。こんにち五月危機または五月革命(仏 Mai 68)と呼ばれるこの出来事において学生運動と労働運動は一体となり、政治と社会の変革につながりました。

 五月危機はプロレタリアの立場に立ったものでしたし、実際のところ学生たちの中には毛沢東主義に心酔する者も多くいました。キリスト教が社会の隅々まで浸透したヨーロッパにおいて、エスタブリッシュメントとしての教会は社会の保守層と結びつきがちですし、その傾向性は個々の聖職者にも及びます。それにもかかわらずフレール・ロジェは若者が神に近づくことを願い、彼らの声に耳を傾けて理解することを、テゼの修道士たちに求めました。1962年から 1989年にかけてロジェは東ヨーロッパ各地を訪れ、若者たちと対話しています。

 フレール・ロジェはカルカッタやチェンナイ(マドラス)、マニラ、サハラ地域、ナイロビのスラム、ヨハネスブルクの黒人居住区、チリ。アメリカ合衆国、カナダなど、ヨーロッパ以外の国々も精力的に訪問しました。ロジェはそれらの訪問地においてしばしば最も貧しい階層の若者たちと起居を共にしました。貧しい若者たちが各自に与えられた場で霊的に成長し、自信と和解の精神を身に着け、よりよい生活のために団結することを、フレール・ロジェは願いました。


・カトリック教会及びプロテスタント教会との関係

 テゼを創設した当初からロジェの同志であったマックス・チュリアン、修道名フレール・マックス(frère Max)は改革派(カルヴァン派)の牧師でしたが、フレール・ロジェと同様にカトリックに接近し、1987年5月3日、ナポリにおいて、秘密裡に叙階の秘跡を受けました。一週間後、フレール・マックスからの手紙でこのことを知ったフレール・ロジェは、フレール・マックスの叙階がカトリック教会とプロテスタント教会の和解に及ぼし得る悪影響を憂慮しました。実際フレール・マックスの叙階はおよそ一年後に外部に知られ、フランス改革派教会に問題視されて、テゼとプロテスタント教会の間には深刻な亀裂が生じました。

 フレール・ロジェ自身もまたプロテスタントの出身ですが、プロテスタントの教会論とは距離を置き、聖職者の独身制と教皇権の普遍性に理解を示して、カトリックに近い立場を取りました。カトリック修道士が初めてテゼに加わったのは 1972年ですが、この年以来、フレール・ロジェはカトリックの聖体拝領のみを受けていました。フレール・ロジェがカトリックの聖体を拝領していることは公表されていませんでしたが、2005年4月に教皇ヨハネ=パウロ二世が亡くなった際、大勢が参加する葬儀の席で、フレール・ロジェはラツィンガー枢機卿(Mgr. Joseph Aloisius Ratzinger, 1927 -  ベネディクトゥス十六世)から聖体を拝領しました。


・殺害とその後

 2005年8月16日の夜、テゼを訪れていた二千五百人の若者たちが見ている前で、フレール・ロジェは精神の平衡を欠いた女性に刺殺されました(註2)。

 8月23日にテゼの和解の教会(仏 l'église de la Réconciliation)で行われた葬儀には、テゼの修道士たち、プロテスタント教会の代表者たち、モスクワ大主教の代理に加え、当時ドイツ連邦大統領であったホルスト・ケーラー氏(Horst Köhler, 1943 -)やフランス共和国の内相であったニコラス・サルコジ氏(Nicolas Sarkozy, 1955 -)など聖俗の要人を含む一万二千人以上の人々が参列しました。

 葬儀ではキリスト教一致推進評議会(羅 Pontificium Consilium ad Unitatem Christianorum Fovendam)の議長であるヴァルター・カスパー枢機卿(Mgr. Walter Kasper, 1933 -)と四人のテゼ修道士によってミサが挙げられ、ベネディクトゥス十六世による使徒的祝福(羅 Benedictio Apostolica)が読み上げられました。フレール・ロジェの亡骸は、テゼの墓地に埋葬されました。


 2005年に九十歳を迎えたフレール・ロジェは、ドイツ出身のカトリック修道士アロイス・レーザー(Aloïs Löser, 1954 -)、修道名フレール・アロイス(Frère Aloïs アロイス修道士)に自身の職務を引き継がせることを予め決めていました。フレール・ロジェの没後、フレール・アロイスはロジェの遺志を継いでテゼの修道院長となり、今日に至っています。




註1 プロヴァンスはジュラ=ノール・ヴォードワ県の北東端にある小さな村。内陸に位置するが、南東に二キロメートルほど行くとヌーシャテル湖岸に出る。

註2 フレール・ロジェを刺殺したルミニツァ・ソルカン(Luminița Solcan)は当時三十六歳のルーマニア人女性で、しばしば幻視を体験する狂信者であった。テゼで修道女になろうとするも、テゼは男子修道会であったために受け入れられず、徐々に恨みを募らせて、フレール・ロジェを反カトリックのフリー・メイソンと妄想するようになった。
 犯行当日、ルミニツァは礼拝が行われているテゼの教会で内陣に侵入し、多数の若者の眼前でロジェを刺殺した。凶器は犯行の前日あるいは当日に、クリュニーで購入したソムリエナイフであった。



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