オルレアン司教座聖堂サント=クロワ
La Cathédrale Sainte-Croix d'Orléans




(上) 南東側から見たオルレアン司教座聖堂サント=クロワ


 オルレアン司教座聖堂サント=クロワ (La cathédrale Sainte-Croix d'Orléans) は二重側廊を有するフランス屈指の規模の聖堂で、全長 140メートル、全幅 65メートル、ファサードの幅 53メートル、西側の塔の高さ 88メートル、交差部の尖塔の高さ 114メートルを誇ります。穹窿の高さは 32メートルあります。


【オルレアン司教座聖堂サント=クロワの歴史】

・聖ユヴェルトのサント=クロワ聖堂

 紀元4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母后ヘレナ (Ste Helene, c. 247/250 - c. 329/330),が「聖十字架」すなわちイエズス・キリストの磔刑に使われた十字架を聖地で発見するという事件がありました。330年頃、聖ユヴェルトはアウレリアーヌム(オルレアン)において聖堂建設に着手し、この聖堂を聖十字架に捧げました。聖ユヴェルトが建て始めたサント=クロワ聖堂は、聖エニャン (St. Aignan, 358 - 453) がオルレアン司教であった450年頃に完成しました。

 聖堂は 865年にノルマン人の略奪に遭いましたが、焼失は免れ、西フランク王国のカールマン (Karlmann/Carloman, 867 - 879 - 884) によって 883年に再建されました。しかし 999年、オルレアンに大火が起こり、聖堂は焼失してしまいました。


・ロマネスク様式のオルレアン司教座聖堂サント=クロワ

 もともとオルレアンの司教座は、現在とは別の聖堂サン=テティエンヌに置かれていましたが、11世紀にはこの聖堂が手狭になったため、999年の火災後に再建されたサント=クロワが、サン=テティエンヌに代わって司教座聖堂に格上げされました。

 こうしてサント=クロワの改築工事が始まり、突貫工事でロマネスクの聖堂が完成しました。この聖堂は二重側廊と周歩廊を有し、フランス最大の規模を誇りましたが、1227年、身廊の大部分及び内陣が崩落してしまいました。


・ゴシック様式のオルレアン司教座聖堂サント=クロワ

 国王ルイ6世の曾孫、ロベール・ド・クルトネ (Robert de Courtenay, 1224 - 1258 - 1279) が、1258年にオルレアン司教となりました。ロベールは亡くなる前年の 1278年に、司教座聖堂の損壊した部分を復元するのではなく、ゴシック様式で造り直すことに決め、そのための資金を拠出し、また所領の森と石切り場から木材、石材を提供しました。こうしてオルレアン司教座聖堂サント=クロワは、1227年の事故で崩落しなかった西側ファサードと二基の塔、及び翼廊をそのまま使用し、残りの部分は全面的に改築されることとなりました。

 改築工事が実際に始まったのは 1288年9月11日で、オルレアン司教はロベールからジル・パテ (Gilles Pastai/Pathay, 在位 1282 - 1288) に代替わりしていましたが、ジルはこの年に亡くなってしまいました。工事を引き継いで完成させたのは、次のオルレアン司教ピエール・ド・モルネ (Pierre de Mornay, 在位 1288 - 1296) でした。

 百年戦争の際、オルレアンはイギリス軍に攻囲されましたが、司教座聖堂に被害はありませんでした。オルレアンを解放したジャンヌ・ダルクは、戦闘が完全に終わる6日前、1429年5月2日に、この聖堂で夕べのミサに与かりました。

 1567年に始まった第二次ユグノー戦争の際、オルレアンはユグノーに占領されました。プロテスタントを率いるコンデ公ルイ (Louis Ier de Bourbon, prince de Conde, duc d'Enghien, 1530 - 1569) はカトリック教会に対する行き過ぎた破壊行為を予防するために、司教座聖堂の入り口を壁でふさぎましたが、カトリックと交渉しようとするコンデ公の姿勢に失望したユグノーの熱狂的分子は 1568年2月23日の深夜に司教座聖堂に侵入し、身廊交差部の柱に火を放ちました。このため聖堂は炎上して屋根が崩落し、内陣を取り巻く放射状祭室と、身廊の第一及び第二柱間を残して、すべて破壊されてしまいました。


・オルレアン司教座聖堂サント=クロワの再建

 ユグノー戦争は1598年4月13日のナントの勅令によって終結しました。1598年7月2日、ナントからの帰途にオルレアンに立ち寄った国王アンリ4世 (Henri IV, 1553 - 1589 - 1610) は司教座聖堂サント=クロワを国費で再建することを約束し、1601年4月18日、国王夫妻によって新聖堂の定礎が行われました。

 まず 1623年に内陣が完成しました。1627年から 1636年にかけて翼廊の基礎工事が行われ、北側翼廊は 1643年、南側翼廊は 1690年に完成しました。西側正面の建設が始まったのは 1739年のことで、この時まで破壊を免れて残っていたロマネスクのファサードは取り壊されました。新しいファサードは塔を除いて 1773年に完成し、続く10年の間に二基の塔の基部が建てられました。途中フランス革命による中断をはさんで、1817年に塔の建設が再開し、完成したのは 1829年のことでした。

 その後、鐘楼が傾いたために 1854年に取り壊されて 1858年に再建されました。内陣のステンドグラスはトゥールの作家ロバン (Léon Lobin) の作品で、1859年に設置されました。




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