聖心会(la Société du Sacré-Cœur de Jésus, Societas Sacratissimi Cordis Jesu)を主題にしたたいへん珍しいメダイ。同会の創立者マドレーヌ=ソフィー・バラ修道女の列服を記念して制作されたもので、一方の面にソフィー・バラ修道女の肖像を、もう一方の面に同会のトリニタ・デイ・モンティ修道院廻廊の壁画マーテル・アドミーラービリスを、いずれも優れた浮き彫りで表現しています。
一方の面には聖心会の創立者であり最初の総長を務めたフランスの修道女、マドレーヌ=ソフィー・バラ(マグダレナ=ソフィア・バラ Madeleine-Sophie Barat, 1779 - 1865)が刻まれています。バラ修道女は十代の少女の頃から八十六歳で亡くなる時まで、常に圧倒的な神の愛を感じ、いわば神の愛にうちひしがれつつ生きました。バラ修道女は謙遜を旨とし、同会の修道女たちにも常に謙遜を求めましたが、その謙遜とは卑下のことではなく、圧倒的な神の愛のに包まれて自らの小ささを痛感しつつ、神のために身を捧げて働くことを意味していました。バラ修道女は当時は不要と考えられていた高度な女子教育の推進者であり、革命の時代であった十九世紀のフランスにおいて時代の流れに翻弄されつつも、フランス国内のみならず、ヨーロッパの他の国々、アメリカ、アフリカ、アジアの国々にも女子教育を広めました。
本品の浮き彫りにおいて、バラ修道女は胸の前に手を合わせ、まなざしを天に向けて神と対話しています。バラ修道女を取り囲むように、執り成しを求める祈りの言葉がラテン語で刻まれています。
BEATA MAGDALENA SOPHIA BARAT, ORA PRO NOBIS. 福者マドレーヌ=ソフィー・バラよ。我らのために祈りたまえ。
マドレーヌ=ソフィー・バラ修道女は 1908年5月24日にピウス十世により列福、1925年5月24日にピウス十一世により列聖されました。本品は
1908年の列福に際して制作された記念メダイユです。
メダイの下端にペナンとポンセの名前が刻印されています。リュドヴィク・ペナン(Ludovic Penin, 1830 - 1868)は優れた才能を持つリヨンのメダユール(仏
un médailleur メダイユ彫刻家)で、1864年、弱冠三十四歳のときに、教皇ピウス九世によってグラヴール・ポンティフィカル(仏 graveur
pontifical 教皇の御用達彫刻家)に指名されましたが、惜しくもその四年後に亡くなってしまいました。
早逝の芸術家リュドヴィク・ペナンの作品は、三歳年上の同郷の芸術家ジャン=バティスト・ポンセ(Jean-Baptiste Poncet, 1827
- 1901)の手によって復刻され、1870年代以降においても愛され続けました。ペナンの没後にポンセが復刻した作品には "PENIN
PONCET", "P P LYON" 等、ふたりの名前が併記されています。本品もそのような作品の一つです。
リュドヴィク・ペナンがカトリック教会の公式メダイユ彫刻家とも呼ぶべきグラヴール・ポンティフィカルに指名されたのは 1864年で、これはバラ修道女が亡くなる前年に当たります。本品はおそらく最晩年のバラ修道女を写したと思われますが、リュドヴィク・ペナンによって浮き彫りのマトリス(母型)が制作されたのは、バラ修道女が亡くなってからペナン自身が死去するまで、すなわち
1865年から 1868年の間でしょう。いずれにせよメダイユ彫刻家として最も脂の乗った時代の作品であり、修道女が胸中に抱く不可視の信仰を可視化した円熟の浮き彫りとなっています。
もう一方の面には椅子に腰かけて右足を台に乗せ、糸を紡ぐ聖母の姿が浮き彫りにされています。聖母の右側(向かって左側)には、背の高い花瓶に百合が活けられています。聖母はふと作業の手を留め、眼を閉じて祈っています。聖母の浮き彫りを囲んで、執り成しを求めるラテン語の祈りが刻まれています。
MATER ADMIRABILIS, ORA PRO NOBIS. 感ずべき御母よ、我らのために祈り給え。
メダイ最下部の二文字(P.P.)は、ペナン、ポンセの略記です。
この聖母像は、ローマにある聖心会の現本部修道院トリニタ・デイ・モンティの壁画を基にしています。トリニタ・デイ・モンティ(伊 Trinità de' Monti)は「丘の三位一体」という意味で、ローマのスペイン広場から階段を上がったところにある聖心会修道院(Convento di Trinità de' Monti)、及び修道院付属聖堂(La chiesa della Santissima Trinità dei Monti)の名前です。
イタリアの古い絵はがきより
ローマ市内にはフランス人巡礼者の世話をするために作られた教会(les Pieux Établissements de la France à
Rome)が二箇所あり、そのひとつがトリニタ・デイ・モンティ修道院です。もうひとつはトレヴィにあるサンティ・クラウディオ・エ・アンドレア・デイ・ボルゴニョーニ教会(La
chiesa dei Santi Claudio e Andrea dei Borgognoni)です。
1844年から翌 45年にかけて、ソフィー・バラ修道女はトリニタ・ディ・モンティ修道院に滞在しましたが、そこでは動物たちがバラ修道女によく懐きました。他の誰のそばにも寄ってこない野の小鳥たちも、バラ修道女のそばには集まってきました。バラ修道女の滞在中、画才のある修練女ポーリーヌ・ぺルドゥローが修道院の回廊に聖母の壁画を描きました。ピウス九世が前に立って発した言葉、マーテル・アドミーラービリスに因み、聖母像はこの名前で呼ばれています。
マーテル・アドミーラービリス(羅 MATER ADMIRABILIS 感ずべき御母)とは、ロレトの連祷にある聖母マリアの称号のひとつです。
近世以前、糸紡ぎは女性の大切な仕事でした。わが国でも同様ですが、商品経済が発達する以前の時代、糸や布は買う物ではなく、主婦が家庭内で作るものでした。聖母が糸を紡ぐ話は正典福音書には出てきませんが、ヤコブ現福音書に基づいてしばしば図像化されます。また近世以前の時代、糸紡ぎは女性の仕事を代表する位置にあったゆえ、聖母マリアを始めとする聖女たちは、糸を紡ぐ姿でしばしば表されます。
本品が聖心会のメダイであることを思えば、聖母の糸紡ぎは、修道女の手仕事と同様に、祈りと渾然一体になった信仰の業であることが分かります。祈る聖母はやがて糸紡ぎを再開することでしょう。しかしながら糸紡ぎは祈りからシームレスに連続し、聖母は糸とともに祈りを紡ぎ続け給うことでしょう。
古来、糸は生命や運命の象徴でもあります。古代ギリシア人は人間の生を、モイライ(希 Μοῖραι 運命)が紡ぎ、割り当て、切断する糸として表象しました。本品の浮き彫りにおいても、聖母が紡いでいるのは単なる物品としての糸ではありません。
バラ修道女は社会における女性の重要性をよく理解し、当時は不要と思われていた女子教育のために生涯を捧げました。トリニタ・デイ・モンティの聖母が紡ぐ糸は聖心会が取り組む女子教育の象りであるとともに、教育ある女性が社会を紡ぎ織りなしてゆくさまを象徴的に可視化したものと考えることができます。社会の運命(モイライ)は男性の教育に勝るとも劣らず、女子教育に懸かっているのです。
聖心会はわが国においても聖心女子大学や各地の聖心女子学院をはじめ、多数の学校を運営しています。本品には聖心会のキリスト教女子教育を神が祝福し給うようにとの祈りが籠められています。この面の浮き彫りにおいて、聖母は聖心会を加護し給う聖母に他ならず、瞑目する聖母が取り次ぎ給う祈りは、聖心会の祈りに他なりません。聖母が紡ぐ糸は聖心会の途切れない活動を意味するとともに、聖母と一体になって働く聖心会が、その教育活動によって涵養するミッション・スクール生たちの精神の糸をも象徴しています。
上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。
本品は百十年以上前の品物であるにも関わらず、保存状態は極めて良好です。いずれの面の突出部分にも特筆すべき摩滅はありません。
聖心会は伝統あるミッション・スクールの経営を通してわが国でもよく知られていますが、同会に関係する信心具はきわめて少なく、当店でもこれまでに扱ったことがありません。本品は再入手が困難な稀少品であるうえに、両面の浮き彫りの出来栄えも素晴らしく、小さなサイズながら立派な芸術品と呼べる水準に達しています。