一方の面に子供を見守る守護天使を、もう一方の面にはサタンと戦う大天使を、それぞれ浮き彫りにしたフランスのメダイ。本品は二点の名画に基づいて制作されており、守護天使の面に彫られた子供たちはサー・トーマス・ローレンスの「カルマディの子供たち」("The Calmady Children", 1823)に、大天使の面はラファエロの「サタンに止めを刺す大天使ミカエル」("San Michele sconfigge Satana", 1518)に、それぞれ拠っています。
守護天使の面の画面下半分には、二人の子供の姿が見えます。背景に立木があることから、子供は野外にいることがわかります。大きいほうの子が輪を、小さいほうの子が棒切れを持っています。ふたりは棒で輪を転がす「車輪回し」の遊びをしていたのでしょう。浮き彫りは非常に小さなサイズであるゆえに少し分かりにくいですが、子供たちの後ろには井戸があります。走り回って遊んだせいでのどが渇いて、水を飲みに来たようですが、危険なことに小さいほうの子は井戸の縁に腰掛け、お姉ちゃんとふざけ合っています。子供たちのすぐ後ろには守護天使がいて、小さい子が井戸に落ちないように守っています。
(上) サー・トーマス・ローレンスの「カルマディの子供たち」に基づくアンティーク細密画 75 x 66 ミリメートル 当店の販売済み商品。
メダイに彫られた二人の子供は、サー・トーマス・ローレンス(Sir Thomas Lawrence, 1769 - 1830)の名画「カルマディの子どもたち」("The Calmady Children", 1823)に基づいています。「カルマディの子どもたち」の原画はメトロポリタン美術館に収蔵されています。
サー・トーマス・ローレンスの原画において、二人の幼女は手に何も持っていません。メダイに彫られた二人の子供が棒と輪を持っているのは、本品を作ったメダイユ彫刻家による独自の工夫です。「車輪回し」で転がる輪の、いつなんどき倒れるか分からない不安定さは、この作品において子供の命の不確かさを表すとともに、子供が無事に育つことを願う大人たちの心からの祈りを映しています。
二十一世紀の日本に住む我々は、ほんの数十年前まで、子供の死亡率が如何に高かったかを忘れています。わが国を例に取ると、このメダイが作られた 1920年代の乳児死亡率は十五パーセント前後でした。一歳の誕生日を迎えるまでに、十五パーセントの子供が亡くなったのです。一歳になったからといって急に体が強くなるわけでもなく、七歳になるころまでにおよそ半数の子供が亡くなりました。カルマディの子供たちのように幼い者の命が如何に不確かであったかを思うとき、本品に彫られた車輪回しの輪は、それを持つ子の無邪気さゆえにいっそう胸を打ちます。
(上) Giorgio De Chirico, "Mystère et mélancolie d'une rue", 1914, Huile sur toile, 90.9 x 59.1 cm, die Hamburger Kunsthalle
筆者(広川)が「車輪回し」で連想したのは、ハンブルク美術館に収蔵されているキリコ (Giorgio De Chirico, 1888 - 1978) の油彩「ある街路の神秘と憂鬱」("Mystère et mélancolie d'une rue", 1914) です。「ある街路の神秘と憂鬱」はキリコが 1914年にパリで制作した作品で、寂しい通りで一人遊ぶ少女を描いています。少女が駆けて行く先には得体の知れない人物の大きな影があり、何度見ても不安な気持ちになります。本品を制作したメダイユ彫刻家がキリコの作品を意識していたかどうかわかりませんが、一抹の翳りも無く明るい「カルマディの子どもたち」に不安感を導入する小道具として、キリコの絵から棒と輪を移入したのであれば、その意図は見事に実現しています。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。天使と二人の子供の顔は直径一ミリメートル強しかありませんが、子供の全身には何の警戒心も無く遊ぶ無邪気さが、天使の顔と仕草には庇護する者の愛が、それぞれよく表現されています。子供と天使の衣、天使の羽根等の細部も見事な仕上がりで、大型の浮き彫り作品に比べても劣るところがまったく無く、小さなサイズを超えた世界が広がっています。
もう一方の面にはルーヴル美術館に収蔵されているラファエロの名作、「サタンを倒す大天使聖ミカエル」("San Michele sconfigge Satana", 1518)が巧みな浮き彫りで立体化されています。こちらの面の浮き彫りも守護天使の面と同様に細密です。突出部分がわずかに摩滅して丸みを帯びていますが、守護天使の顔には目鼻口が正確に彫られていますし、大天使の衣や羽根等の細部に至るまで、メダイユ彫刻家は全く手を抜かず、見事なミニアチュール作品を彫り上げています。古典的な綴りのラテン語による「大天使聖ミカエル」(SANCTVS
MICHAEL ARCHANGELVS)の文字が、大天使を囲むように刻まれています。
(上) Raffaelo Sanzio, "Saint Michel terrassant le dragon", 1518, Huile sur bois transférée sur toile, 268 x 160 cm, Musée du Louvre, Paris
浮き彫り彫刻で細部と並んで難しいのは、暈(ぼか)した表現です。ラファエロの作品は油彩画ですから、あらゆる色相と明度、彩度の顔料を自由に使って、空気の層が持つ暈しの効果を再現できます。上に示した原画において、ラファエロは空気遠近法を活用し、画面に三次元の広がりを与えています。
しかるに本品の浮き彫りは無彩色の彫刻ですから、金属の凹凸のみで背景の輪郭を暈し、空気遠近法を実現しなければなりません。これは実現不可能な事に思えますが、本品の実物を見るとラファエロの原画通りの遠近が感じられます。手前の地面は手前にあるようにしか見えず、サタンは地面に押し付けられています。その一方で遠い背景は遠くにあるようにしか見えず、ラファエロの原画を超えた無限の奥行さえ感じさせます。
この面の右下、メダイの縁に近いところに、本品を制作した才能豊かなメダユール(仏 médailleur メダイユ彫刻家)のサインが刻まれています。このサインは十分の一ミリメートルほどの文字で刻まれており、小さすぎて読むことができません。フランスのメダユールの仕事は常人の想像を超えています。
上の写真に写っている定規のひと目盛は、一ミリメートルです。この面の各部は守護天使の面に比べてもさらに細密で、人間業とも思えない技巧は見飽きることがありません。
上の写真では本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品をご覧になると、もうひと回り大きなサイズに感じられます。
本品は百年近く前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、保存状態は極めて良好です。突出部分の磨滅はごく軽度であり、細部に至るまで制作当時の状態をよく留めています。経年によるわずかな丸みは、アンティーク品ならではの優しい表情を本品に与えています。