三世紀の殉教者、聖カエキリア(聖セシリア、聖セシル)の稀少なメダイ。
一方の面には、天に目を向け両腕を広げて祈る聖セシリアが浮き彫りにされ、ラテン語で「聖カエキリア」(SANCTA CAECILIA) と記されています。聖女は真珠または宝石で飾られているらしい美しい衣と、冠のように美しい被り物を身に着けています。
5世紀中頃に起源を遡る聖セシリア殉教伝によると、聖女は元老院議員であった異教徒の父親によって結婚を強制されましたが、聖女は夫ワレリアヌスに「私は天使と婚約していて天使が体を守っているから、私の純潔を汚してはなりません」と言い、純潔を守って、夫を改宗させました。
Francesco Botticini (1446 - 1498), Santa Cecilia entre San Valeriano y San
Tiburcio con una donante, Museo Thyssen-Bornemisza
このメダイにおける聖女の装いは、このときの花嫁姿、あるいはキリストの花嫁としての姿のように見えます。
ラヴェンナ(イタリア)、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊北壁下段のモザイク画には、他の大勢の聖女たちに混じって聖セシリアが描かれています。聖セシリアをはじめとするこの聖女たちの服装は、当時の宮廷の服装であり、聖女たちが天上にあることを表しています。
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイク画
このメダイにおける聖女の装いは、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂のモザイク画に影響を受けているようにも思えます。もしそうであるとすれば、聖女の美しい服装は、天に上げられたキリストの花嫁、殉教聖女の勝利を表していることになります。
聖女の左右には薔薇と百合が見えますが、これらは永遠の処女である聖母マリアの象徴であり、聖セシリアの純潔を強調しています。
薔薇と百合の近くには、リュドヴィク・ペナン (Ludovic Penin, 1830 - 1868) とジャン=バティスト・ポンセ (Jean-Baptiste
Poncet, 1827 - 1901) のサインがあります。このふたりはいずれも優れたメダイ彫刻家で、数多くのメダイを共作しています。
メダイの外周に書かれているラテン語は、もう一方の面の外周に記されている言葉と一続きになっており、その内容は次の通りです。
CANTANTIBUS ORGANIS CAECILIA DOMINO DECANTABAT, FIAT COR MEUM IMMACULAUM
UT NON CONFUNDAR.
オルガンが鳴り響く中、カエキリアは主に向かって祈った。私の魂を汚れ無きものとしてください。私が恥を見ることが無いように。
これは聖セシリアの祝日である11月22日の聖務日課(修道院で行われる定時の祈り)のうち、朝課(午前三時の祈り)の際に唱えられる次の一節に由来します。
CANTANTIBUS ORGANIS CAECILIA VIRGO IN CORDE SUO SOLI DOMINO DECANTABAT
DICENS, FIAT, DOMINE, COR MEUM ET CORPUS MEUM IMMACULATUM, UT NON CONFUNDAR.
オルガンが鳴り響く中、おとめカエキリアは心の中で主にのみ向かって祈り、次のように言った。主よ。私の魂と体を汚れ無きものとしてください。私が恥を見ることが無いように。
この言葉はもともと詩篇119篇80節を敷衍(ふえん)したものです。
FIAT COR MEUM IMMACULATUM IN JUSTIFICATIONIBUS TUIS, UT NON CONFUNDAR.
わたしの心があなたの掟に照らして無垢でありますように。そうすればわたしは恥じることがないでしょう。(新共同訳)
聖務日課を単旋律の聖歌にしたのがグレゴリオ聖歌ですから、音楽が好きな方はこの祈りに聞き覚えがあるかもしれません。ちなみに十四世紀になると、聖セシリアはオルガンと共に描かれるようになりますが、これは上記の聖務日課の一節が誤解されて、聖セシリア自身がオルガニストであったと考えられたためではないかと推測されています。"CANTANTIBUS
ORGANIS" はラテン語文法で絶対的奪格と呼ばれるもので、近代語の分詞構文にあたり、たとえば英訳すると "organs
singing" あるいは "with the organs singing" の意味です。オルガンを演奏しているのが聖セシリアとは限らないのですが、視覚に訴える美術が文字よりも格段に有力であった中世において、誤解に基づく作品がいったん製作されると、聖セシリアが音楽の守護聖人になるのは、半ば必然の成り行きでした。
(上) Carlo Dolci, St Cecilia at the Organ, 1671, oil on canvas, 96,5 x 81 cm, Gemäldegalerie, Dresden
バロックの画家カルロ・ドルチ (Carlo Dolci, 1616 - 1686) による上の絵は非常に有名ですので、この絵に基づいたメダイが比較的多く作られていますが、それらのメダイの図像もまた"CANTANTIBUS
ORGANIS" の一節を誤解したものということになります。しかるにアドルフ・ペナンとジャン=バティスト・ポンセによる本品の浮き彫りは、オルガンが鳴り響く中、神に向かって祈るセシリアの姿を、聖務日課の祈祷文に書かれているとおりに忠実に表しています。
メダイの裏面には十字架があしらわれ、中央の円のなかにギリシア文字キー (Χ) とロー (Ρ) を組み合わせたキリスト(クリストス Χριστός)のモノグラム、及びその左右にギリシア語アルファベットの最初と最後の文字であるアルファ、オメガが記されています。アルファとオメガの組み合わせは「全て」という意味であり、XPのモノグラムと合わせることによって、「キリストは全てである」「キリストは天地の支配者である」という意味を表します。この表現は「ヨハネの黙示録」二十二章十三節の聖句、「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。(新共同訳)」に由来します。
十字架とともに、薔薇らしき花が浮き彫りにされています。薔薇は本来五枚の花弁を持つゆえに、キリストが受難の際に受け給うた五つの傷を象徴します。
このメダイには突出部分に軽度の摩耗が見られますが、細部はよく残っています。およそ百年を経たアンティーク品としては、十分に良いコンディションです。