コプト教会は古代以来の歴史を誇るエジプトのキリスト教会で、福音記者マルコによって当地に設立されたと伝えられています。ローマ時代のキリスト教徒迫害は北アフリカにおいてとりわけ苛烈を極め、コプト教会は最も多くの殉教者を出しました。アレクサンドリアの聖アポローニア(SANCTA APOLLONIA DE ALEXANDRA, + 249)は、その一人です。
迫害時代のコプト教徒は、古代エジプトのアンク(ankh)を十字架の代わりに用いました。現在のようなコプト十字が用いられるようになったのは、ローマ帝国がキリスト教を公認して以降のことです。コプト十字の四つの枝、すなわち縦木の上半と下半、及び横木の右半と左半は、四人の福音記者を象徴します。各末端にある三つの突起は、三位一体を表します。各末端の突起を合わせると、十字架全体の突起の数は十二となりますが、この数は十二使徒を表しています。
本品はエジプトで制作された完全な手作り品であり、一点ものです。おそらく銀製ですが、産業的な大量生産品ではないのでホールマーク(検質印)はありません。上の写真は本品の二面を撮影して並べた合成写真です。商品の在庫点数は、一点です。
本品は三・五ミリメートルの厚みがあり、たいへん重厚です。十六・五グラムの重量は百円硬貨二枚に五百円硬貨一枚を加えたのと同じ重さで、手に取ると心地よい重みを感じます。本品の二面はいずれも同じ丁寧さで制作されています。ペンダントとして使う場合は革紐が似合います。金属のチェーンを使っても構いません。環の開口部は七ミリメートル強の内径があり、大きめの留め金でも通すことができます。
写真でご覧いただける通り、上部の環が少し傾いて付いています。素朴な手作り品ですのでこの程度の傾きは気になりませんが、環の内部に当て物をすれば、紐あるいはチェーンを通した場合の傾きを解消できます。お申し付けいただけば、無料で加工いたします。
フランスの美術史家ルネ・ユイグ(René Huyghe, 1906 - 1997)は、1955年の著書「見えるものとの対話」("Dialogue avec le visible", Flammarion, 1955)において、手仕事による実用品が生得的・本性的な美を有することに注目し、美の起源と本質を論じています。同書において、ユイグはブルターニュのスプーンを例に取り、次のように論じています。
原始的な社会において、物を作る行為と芸術は不可分の関係にある。そのような状況においては、日常の器の形態に調和がとれた美しさが宿り、日常の布の装飾も素晴らしいものとなる。それらの美は物の機能と離れがたく結びついていて、物品を作る職人自身、美と機能を分離して考えてはいない。そのような物品の美は、機能の表面に後から付加されたものではない。それらの物品が有する美と機能は本質において不可分であり、作業工程の上でも概念の上でも分離することができない。 | ||
手作業で作られた物品には、生きた芸術を求める職人の感受性が、必ず刻印を残す。このような物品の美は、生きた手の動きから自然に生まれてくる。 | ||
しかるに手仕事による製作が廃れ、機械による自動生産が始まると、美は機能の上に意図的に付加される「めっき」のような付属物になった。美は本来、出来上がった物品の中に自然に「見いだされるもの」であったが、物品が機械で大量生産される時代になると、美は「意図的に探し求められるもの」、物品に対して「意図的に付加されるもの」となった。 | ||
このようにして、「職人」と「芸術家」の分離が起こった。 | ||
かつて職人と芸術家の間に区別は存在しなかった。芸術家は一介の職人あるいは職人の親方として、注文された絵画や彫刻を制作していた。絵画職人、彫刻職人は芸術家であり、生命を持って呼吸する美を自身の生から生み出しつつ、仕事をした。 | ||
しかし機械が発明されたルネサンス期頃を境にして、それまで同一人物の中で一体であった「職人」と「芸術家」が分裂した。一方は単なる労働者となり、もう一方は実用から乖離した純粋美学の探求に没頭するようになった。後者は社会との接点を失っていった。 |
ブルターニュのスプーン
本品はルネ・ユイグが論ずる正統の美、すなわち芸術家と未分化の職人が自身の生から生み出した「生命を持って呼吸する美」を有します。ルネ・ユイグは「美は《何かのための》美ではない。美の目的は美そのものである。」と言います。本品の美は、コプト十字の基本形に従いつつも細部を自由に造形した職人芸術家自身から、自発的に湧き出た「呼吸する美」です。本品が生き物のような活力を感じさせるのは、職人芸術家の生を分有しているために他なりません。
本品は数十年前に制作された古い品物ですが、特筆すべき問題は何もありません。
伝統的な技法によって丁寧に手作りされた本品は、大量生産品には望むべくもない味わいを持っています。しかしながらそれは、本品が単に一点ものであるから貴重であるという意味ではありません。本品の美は、銀細工師の生から子供のように産まれた《呼吸する美》であり、手仕事が作り出す器物が同時に美術品でもあった時代の美そのものなのです。