教皇の祝福を受けた蝋(ろう)の小円盤を絹のポシェットに封入した古い信心具「アグヌス・デイ」。「アグヌス・デイ」(AGNUS DEI) はラテン語で「神の子羊」という意味です。信心具「アグヌス・デイ」の本体は、ローマ、サンタ・クローチェ聖堂のシトー会修道院で製作された蝋製の円盤で、一方の面に神の子羊が造形されています。本品はこの蝋製小円盤をフランスで絹布製ポシェットに封入し、持ち運びできるようにしたものです。
ポシェットは心臓、すなわちイエズスの聖心を象(かたど)り、交叉したリボンの環が上部に縫い付けられています。保存状態は良好で、破損やひどい汚れ等の問題はいっさいありません。ポシェットの表(おもて)面には聖心を示すイエズス・キリストの絵、裏面には「アグヌス・デイ」に関する丁寧な説明書が貼り付けられています。
ポシェットを縁取るガラス・ビーズは、ウレクサイトのように繊維を束ねた作りです。この種のガラス・ビーズは、本品と同時代、すなわち19世紀後半から20世紀初頭のロザリオにもよく使われています。ひとつひとつ手作りされたビーズですので、形と大きさが不揃いです。ビーズに欠落、破損等の問題はいっさい無く、丁寧な手作業により、ポシェットの縁にひとつひとつ縫い付けられています。
ポシェット表(おもて)面のキリスト像は、絵を写真に撮ったものです。写真の種類はアルブミン・プリントで、烏賊墨(セピア)色に変色していますが、表面のクラックは進行せず、たいへん良好な保存状態です。
アルブミン・プリントは1830年代末に発明され、1895年頃までは最も優勢なプリント技術でしたが、その後はゼラチン・シルバー・プリントに押され、1920年代には完全に消滅します。したがって本品の製作年代は19世紀後半から20世紀初頭頃までであることがわかります。
この写真は、ガラス・ビーズで留めたオールド・プラスティックのパイエット(スパンコール)に縁取られています。パイエットは金属箔にセルロイドを重ねたものらしく、ルーペで見ると箔に無数の亀裂が生じています。セルロイドの線膨張係数はガラスよりも少し大きい程度ですが、およそ百年もの年月の間が経つうちに、経年変化が進行したものと思われます。
本品のポシェットは心臓を象(かたど)っており、イエズスの聖心、すなわち想像を絶するまでに強い神の愛がテーマになっています。パイエットが並んだ外側にはピンクの野の花が手描きされていますが、布に描いた絵であるにもかかわらず、瑞々しい花の生命力が巧みに表現されており、絵心のある修道女が、人に生命を与える神の愛、イエズスの聖心に思いを向け、心をこめて描いた作品であることがよくわかります。
ポシェットの裏面には畳んだ紙が糊付けされ、アグヌス・デイに関する次のような説明がフランス語で書かれています。内容は次の通りです。
VERTUS ATTACHEES AUX AGNUS DEI ou PAINS SACRES | アグヌス・デイ、あるいはパン・サクレの効験 | |||
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De délivrer du péril des eaux. | 水難除け。 | |||
De repousser la foudre. | 雷除け。 | |||
D'aider a effacer les péchés. | 罪を消す助けになる。 | |||
D'éteindre les embrasements. | 火災除け。 | |||
De garder d'une mort subite et imprévue. | 突然の死、予期せぬ死から保護してくれる。 | |||
De préserver des embûches et des efforts du démon; de protéger les mères et leurs petits enfants dans les dangers spéciaux. | 悪魔の罠と働きから守り、母と幼き子供を特別な危険から護ってくれる。 | |||
De communiquer plusieurs autres faveurs à ceux qui s'en servent, les portent sur eux, ou les conservent décemment dans leurs maisons. | これを使い、あるいは身に着け、あるいは家に正しく安置する者に、上記以外にもさまざまな恩寵が与えられる。 |
「アグヌス・デイ」は、ローマ教皇の祝福を受けた蝋製円盤を封入した特別な信心具です。制作年代から判断すると、本品はピウス9世(在位 1846
- 1878年)、レオ13世(在位 1878 - 1903年)、ピウス10世(在位 1903 - 1914年)のいずれかから祝福を受けているはずです。
このアグヌス・デイは 19世紀末から20世紀初頭のベル・エポック期、フランスが繁栄を謳歌した古き良き時代の物であり、野の花を描いた左右非対称のデザインには、華やかな日本趣味、アール・ヌーヴォーの影響も感じられます。しかしながらこの時代は同時に帝国主義の時代でもあり、ヨーロッパの列強は各地で植民地の争奪と戦争を繰り返していました。1914年には未曾有の世界大戦が勃発し、国土が戦場と化したフランスでは、戦死者、戦災死者、戦争寡婦、戦争孤児が国中に溢れることになります。第一次世界大戦、第二次世界大戦に続いてゆくその後の歴史を知る我々には、本品「神の愛のアグヌス・デイ」のイエズスが、慈愛と悲しみに満ちた視線で我々を見つめておられるように感じられます。
「アグヌス・デイ」が制作された年代は、20世紀前半頃までです。サンタ・クローチェ聖堂のシトー会修道院は2011年に閉鎖されましたので、将来再び作られることはおそらく無く、たいへん貴重な品物となっています。