アール・ヌーヴォー様式によるフランスのペンダント。1950年代または 60年代頃に制作されたヴィンテージ品で、材質はおそらくマユショル(仏
maillechort 白銅)です。マユショルは摩耗に強く美しい光沢がある合金で、懐中時計のケースなどに使われます。
磁器商の息子としてハンブルクに生まれたサミュエル・ビングは、1884年、日本と中国の美術工芸品を扱う店ラール・ジャポネ(仏 L'Art japonais 日本美術)をパリのショーシャ通り19番地に出店しました。ショーシャ通り19番地はショーシャ通りとプロヴァンス通りが交差する角地に当たります。サミュエル・ビングはこの店を拡張改装して、1888年に出入口をプロヴァンス通り22番地に移しました。
しかしながら 1890年代に入ると、日本の美術品の売れ行きが落ち始めました。そこでサミュエル・ビングは日本から輸入した品物だけを扱うのではなく、日本美術の影響を受けてフランスで誕生した曲線多用の新様式を扱い、美術工芸家たちの交流の場ともなるように、1894年から店の再改装を始めました。新装なったビングの店は、1895年12月26日、ラ・メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー(仏
la Maison de l'Art nouveau アール・ヌーヴォー館、新芸術館)として華々しく再オープンしました。現在我々がこの時代の様式を指して用いるアール・ヌーヴォー(仏
l'Art Nouveau)の呼称は、ビングの店名に由来します。
アール・ヌーヴォーは植物や女性の体から想を得た美しい曲線が特徴ですが、好んで造形されるテーマは年代毎に異なります。たとえば同じ植物でも、1870年代から
1880年代にかけては花が愛好されました。しかしながら 1890年代から二十世紀初頭にかけてアール・ヌーヴォーの最盛期を迎えたフランスでは、花よりもむしろ茎や蕾が主役を務めました。さらにこの時期には海藻や水草、睡蓮、とんぼ、くらげ、蛸など、水辺や水中の動植物が盛んに造形されました。アール・ヌーヴォーの芸術家たちはこれまでの装飾美術では注目を浴びなかった葉や茎を愛好し、とりわけ水生植物の長い茎はアール・ヌーヴォー独自の曲線とよく調和して、様々な工芸品を飾りました。
アール・ヌーヴォーは象徴主義的な側面も有します。1890年代に重要な位置を占めた蕾は、未来や生命力の象(かたど)りです。アール・ヌーヴォーの盛期において花よりも蕾が愛された事実は、この様式に内在する象徴主義への傾斜を物語ります。
本品のペンダント部分は蓮の花を様式化しています。抽水性植物である蓮の長い茎が、組紐の飾り結びのように絡まる意匠。蓮の花弁の凹凸を排し、ペンダントの縁を滑らかに閉じた内包的シルエット。あらゆる植物種の中でもとりわけ豊かな象徴性を有する蓮の採用。本品にみられるこれらの特性はフランスにおけるアール・ヌーヴォー全盛期、すなわち
1890年代から二十世紀初頭の様式を正確に再現しており、一過性のデザインに基づくコスチューム・ジュエリーとは一線を画します。
フランス語でロテュス・サクレ(仏 lotus sacré 聖なるロータス)と呼ばれる蓮は、その名の通りに至高のスピリチュアル性を有します。世界各地の神話において、水は原初のカオス(希 Χάος 混沌)を表しますが、そこから咲き出る蓮は、カオスから生まれつつもカオスと対置されるコスモス(希
κόσμος 秩序ある世界)の象徴です。古代エジプトにおいて、蓮は不死鳥と同様に、新生及び再生の象徴でもありました。ヒンドゥー教と仏教において蓮は神性の象徴であり、神像、仏像は蓮華座に置かれます。暗い水中から伸びて水面を突き抜け、光ある世界で開花する蓮は、タントラとヨーガにおいて暗愚迷妄からの離脱、霊的覚醒を象徴します。ヨーガにおける最も標準的な理論では、身体の縦軸に沿って六つのチャクラがあるとされます。第七のチャクラは身体を超えた頭頂部にあり、蓮の花の形で表現されます。これは仏教においても同様で、蓮は悟りの象徴となっています。
キリスト教美術においても、蓮が重要な象徴性を担う例があります。テサロニキはエーゲ海に面するギリシアの都市ですが、ここのアケイロポイエートス修道院(希
Παναγία Ἀχειροποίητος)付属聖堂身廊アーチ内側に、五世紀のモザイク画があります。このモザイク画では生命の水が水盤に満たされ、そこから蓮として表された生命樹が生え出ています。生命樹と水盤に群がる孔雀や小鳥たちは、人の魂を象徴しています。生命の水を飲む鳥のモティーフは、キリスト教初期の聖堂モザイク画や、墓室床面・壁面の装飾に類例が見られます。墓室に見られる鳥の装飾は、被葬者がキリスト教徒であると異教徒であるとを問いません。生命樹を生命の水と同時に図像化するのであれば、これを蓮として描くのは最良の選択肢です。
美術史上のあらゆる様式に当てはまることですが、終焉を迎えた直後の様式は単なる流行遅れにしか見えず、不当に低く評価されがちです。現代人の目から見るとたいへん魅力的なアール・ヌーヴォーも、かつては皮相なお飾り的様式、美術史上の汚点とさえ見做され、侮蔑されていました。特にアール・ヌーヴォーの場合、すぐ後の
1930年代が装飾を排した時代であったことは、本質的に装飾美術の様式であったアール・ヌーヴォーにとって、評価に不利な条件でした。アール・ヌーヴォーが美術史に占める重要性が理解され、独自の価値を有する様式として見直されたのは、二十世紀半ば以降のことです。
本品はアール・ヌーヴォーが再評価された 1950年代または 60年代頃に、フランスで復刻されたヴィンテージ品です。これとまったく同じ作品がアール・ヌーヴォー期に作られたかどうかは不詳ですが、アール・ヌーヴォー期のジュエリーの特徴を余すところなく再現した出来栄えは見事で、実証的な美術史研究に裏打ちされた作品であることがわかります。アンティーク品の最大の楽しみは、品物が作られた時代の精神、思想、空気をもたらしてくれることです。二十世紀半ばになって、美術史家たちはそれまで見向きもしなかったアール・ヌーヴォーを再評価するようになりました。本品はその時代に制作されたものであり、当時の美術思想を色濃く反映しています。このような意味で、本品はアール・ヌーヴォー期のオリジナルでないにもかかわらず、アンティーク品として評価される資格と価値を十分に有しています。
本品の素材であるマユショルは貴金属ではありませんが、美しい光沢を有し、高級感があります。本品は薄く軽量に作られていますが、マユショルはピューター等とは違ってたいへん丈夫ですので、普通に着用していて歪むようなことは決してありません。チェーンの強度にも問題はありません。アール・ヌーヴォー様式に基づき、蓮をテーマに制作された本品ペンダントは、目で見て美しいだけでなく深い象徴性を有し、季節と場を問わず日々ご愛用いただけます。
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