オディロン・ラヌロング教授
professeur Odilon Lannelongue, 1840 - 1911





 パリ大学医学部のオディロン・ラヌロング教授 (professeur Odilon Lannelongue, 1840 - 1911) は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した高名な外科医です。アカデミー・デ・シアンス(Académie des science フランス科学アカデミー)会員であり、アカデミー・ナシオナル・ド・シリュルジ(Académie nationale de chirurgie フランス外科学会)会長、アカデミー・ナシオナル・ド・メドサン(Académie nationale de médecine フランス医学会)会長、ジェール県(Gers ミディ=ピレネー地域圏)選出の下院議員、上院議員を歴任しました。優れた学識と人格を備えた立派な医師として、社会事業家である妻マリ・ラヌロングとともに、フランス人の記憶に長くとどめられています。


【ラヌロング教授の経歴】

 オディロン・ラヌロングはフランス南東部、カステラ=ヴェルデュザン(Castera-Verduzan ミディ=ピレネー地域圏ジェール県)の役人の家庭に生まれました。トゥールーズのリセに学んでバカロレアに合格した後、パリ大学に入学しました。経済的な苦境のなか最初はアルバイトの雑用、次に看護士として、次に外科のインターンとして働きながら学び、1869年には外科の教授資格試験に首席で合格しています。

 1870 - 1871年の普仏戦争で、オディロンは負傷兵の手当てに活躍し、終戦時には正式に軍医に任命されました。軍医となったことでパリの上流階級との接点ができ、1876年、36歳のときに、妻となるマリ・シビエル (Marie Cibiel, 1836 - 1906) に出会います。マリは裕福な繊維業者の娘で、当時40歳でしたが、15年前に夫ピエール・ド・レミュザ子爵 (Pierre de Rémusat, 1829 - 1862) と死別していました。普仏戦争では看護師として熱心に働いています。オディロンとマリは互いに惹かれ合い、その年のうちに結婚しました。


(下) 看護師を描いた1870年の版画。同年発行の「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」より。




 外科医としての実力に加えて、上流階級の一員となったことにより、オディロンがフランス医学界で占める地位は高まり、大統領フェリクス・フォール (Félix Faure, 1841 - 1895 - 1899) と親交を結びました。

 学会においては、1884年にパリ大学医学部の外科学教授、1892年にはフランス医師会 (Association generale des médecins de France) 会長、及び出身地カステラ=ヴェルデュザンの町長に就任しました。1893年にはジェール県選出の下院議員、その数年後には上院議員に選ばれています。


(下) 1899年2月16日、フォール大統領はエリゼ宮で執務中に倒れました。ラヌロング医師が駆けつけましたが、大統領は数時間後に亡くなりました。




 子供に恵まれなかったラヌロング夫妻は、ふたりの姪マリとロールを殊のほか可愛がりました。妻マリが1906年に急逝すると、オディロン・ラヌロングは悲しみを癒すために世界旅行を試みますが、船の利便が悪かったために中断を余儀なくされました。1908年10月にふたたび旅に出たオディロンは、世界を一周して翌年7月に帰国し、「ある世界旅行」("Un tour du monde" , 1912, Larousse) という著書を残しています。この旅には姪マリが最後まで同行し、日本にも立ち寄っています。教授のプレノム(姓名の「名」)は「オディロン」ですが、著書「ある世界旅行」の著者名は姪マリの名前の頭文字 "M" を入れて "O. M. Lannelongue" となっており、親身に世話を焼く姪マリに対する教授の愛情と感謝が表われています。


 オディロン・ラヌロングは1911年12月22日に亡くなりました。家屋敷や数々の家具、美術品をはじめとする莫大な遺産は、ふたりの姪マリとロールに残されました。



【ラヌロング教授の名を冠した賞、施設、地名など】

 オディロン・ラヌロングは、妻マリを記念して、自身が亡くなる直前に「外科国際功労賞」(Médaille internationale de chirurgie) を創設しました。この賞はフランス外科学会 (Académie nationale de chirurgie) により5年ごとに受賞者が選ばれます。

 パリ近郊ル・プレシ=ロバンソン (Le Plessis-Robinson) にある近代的な大病院「マリ・ラヌロング記念外科センター」(le Centre chirurgical Marie-Lannelongue) は、1908年にパリ、トルビアク通に創設された「マリ・ラヌロング記念病院」(Hopital Marie-Lannelongue) が前身となっています。

 パリ近郊ヴァンヴ (Vanves) にある高齢者のための施設「オディロン・ラヌロング協会」(l' Institut Odilon Lannelongue) は、ラヌロング教授の遺志により創設された研究教育施設が元になっています。

 大西洋に面した保養地サン=トロジャン=レ=バン(Saint-Trojan-les-Bains ポワトゥー=シャラント地域圏シャラント=マリティーム県)には、障害者のための施設「ラヌロング医療養護ホーム」(le Foyer d'accueil médicalisé Lannelongue) があります。


 パリ14区には「ラヌロング博士通」(l'avenue du Docteur Lannelongue) があります。この通をはじめ、ラヌロング教授、あるいはラヌロング夫妻の名前を冠した道路や広場は、フランス各地に数多く存在しています。



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