チャールズ・エドワード・ペルジーニ Charles Edward Perugini, 1839 - 1918



(上) サー・フレデリック・レイトンによるペルジーニの肖像 Sir Frederic Leighton, "Portrait of Charles Edward Perugini", 1855, Oil on canvas, 355 x 300 mm


 チャールズ・エドワード・ペルジーニ(Charles Edward Perugini, 1839 - 1918)は 1839年9月1日にナポリで生まれました。六歳のときに家族とともにイギリスに移りました。十一歳の頃、カルロ(チャールズ)少年はオラス・ヴェルネ(Émile Jean-Horace Vernet, 1789 - 1863)にデッサンを見せたのですが、ヴェルネはカルロの才能を評価し、ローマで本格的に美術を学ぶように勧めました。ヴェルネの助言に従って、カルロは十七歳でローマに渡り、当地の美術学校でジュゼッペ・ボノリス(Giuseppe Bonolis, 1800 - 1851)とジュゼッペ・マンチネッリ(Giuseppe Mancinelli, 1813 - 1875)に師事しました。またペルジーニはローマでフレデリック・レイトン卿(Sir Frederic Leighton, PRA, 1830 - 1896)の知己を得ました。

 ペルジーニはその後パリに移り、当時サロン・ド・パリで活躍していたアリ・シェーフェル(Ary Scheffer, 1795 - 1858)の下で学びました。シェーフェルのアトリエで修業をしていたとき、ペルジーニはフレデリック・レイトンに再会しています。このページの最上部に示したペルジーニの肖像は、この頃にレイトン卿が描いたものです。

 レイトン卿がペルジーニの肖像を描いたのとほぼ同じ頃である 1855年の後半に、チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812 - 1870)がアリ・シェーフェルのアトリエを訪れ、自身の肖像を描かせました。ディケンズは愛嬢ケイト(Catherine Dickens, 1839 - 1929 註1)を同伴していましたが、このときペルジーニはケイトと会わず、のちにロンドンのレイトン邸で知り合うことになります。

 ペルジーニの芸術的才能を高く評価するフレデリック・レイトン卿は、ロンドンに住むことをペルジーニに勧め、1863年、ペルジーニはロンドンに渡りました。レイトン卿はペルジーニの制作を励ますとともに、1870年代のあいだペルジーニを助手として雇い、年間百ないし二百ポンドの給与を出しています。また政治家ヘンリー・コール(Sir Henry Cole, 1808 - 1882 註2)にペルジーニを紹介し、サウス・ケンジントン美術館(後のヴィクトリア・アド・アルバート美術館)を装飾する仕事を与えています。




(上) Charles Edward Perugini, "A Girl Reading", 1878, Oil on canvas, 979 x 730 mm, Manchester Art Gallery


 1863年から 1914年までのあいだ、ペルジーニは王立アカデミーにおよそ五十点の作品を出展し、評価を高めました。王立アカデミー以外にも、ザ・ニュー・ギャラリー(The New Gallery)、ザ・グロヴナー・ギャラリー(The Grosvenor Gallery)、王立美術家協会(The Royal Society of British Artists, RBA)、王立肖像画家協会(The Royal Society of Portrait Painters, RP)をはじめとするロンドンの展示場、及びリヴァプールのザ・ウォーカー・アート・ギャラリー (The Walker Art Gallery)、その他にマンチェスター、バーミンガム、グラスゴウ等でも作品を展示しています。

 ペルジーニは女性像を多く描きましたが、いずれの作品においても女性の姿は清らかで、優雅に洗練されており、背景にも古典的な趣があります。ペルジーニの作品に見られるこれらの特質にはフレデリック・レイトン卿の影響を読み取ることができ、ペルジーニの作品を最も上質のアカデミー絵画としています。



註1 ケイトは 1860年にラファエル前派の画家チャールズ・オルストン・コリンズ(Charles Allston Collins, 1828 - 1873)と結婚しましたが、夫チャールズは 1873年4月9日に癌で亡くなりました。夫が亡くなって約五か月後の同年9月、ケイトはペルジーニと結婚しました。

註2 1851年5月1日から10月11日まで、ハイド・パークで水晶宮博覧会(The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)が開かれ、十八万六千ポンドという巨額の利益が生み出されました。イギリスの教育と文化にこの資金を役立てるべく、サウス・ケンジントンに広い土地が購入され、サウス・ケンジントン美術館(後のヴィクトリア・アド・アルバート美術館)が建てられました。ヘンリー・コールは 1857年から 1874年まで、同館の初代館長を務めました。

 ヘンリー・コールは 1843年に世界で初めてクリスマス・カードを導入したことでも知られています。このカードの図案を描いたのは、風俗・歴史画家ジョン・コルコット・ホーズリー(John Callcott Horsley RA, 1817 - 1903)です。



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