スティール・エングレーヴィング 「パリ市役所」
Hôtel de Ville, Paris
原画の作者 トーマス・アロム (Thomas Allom 1804 - 1872)
版の作者 ジョン・サドラー (John Saddler, 1813 - 1892)
画面サイズ 縦 126 mm 横 185 mm
イギリス 1860年代
ヨーロッパのそれぞれ都市には固有の紋章があります。皆さんはパリ市の紋章をご覧になったことがあるでしょうか。パリ市の紋章は円形の中心に1隻の帆船が描かれ、その周囲にラテン語で
"fluctuat nec mergitur"(たゆたえども沈まず)という銘が記されています。この紋章は中世の水運業組合の印章に由来しています。意外に思われるかもしれませんが、パリは港町であり、マルセイユ、ル・アーブルに次ぐフランス第3の商港です。セーヌをさかのぼればブルゴーニュ、下ればノルマンディーを抜けてル・アーブルに出ます。パリはその紋章が示すようにセーヌの水運業とともに発展し、セーヌによって生きてきた都市なのです。
13世紀には水運業者がパリ地域の国王代官を務める場合がよくありました。聖王ルイ(在位 1226~70年)がパリの自治のために選んだ町人代表も水運業者であることがしばしばでしたし、水運業者のギルドの会合がいつしか議会の機能を果たすようにもなってゆきました。1357年にエチエンヌ・マルセルが現市役所の位置にあった建物を買い取ってギルドハウスを移したときも、その敷地はセーヌのほとり、小麦と木材の船着場に面していて、この建物がパリ市役所の前身になってゆくのです。市役所前のグレーヴ広場(Place
de Greve)は「砂浜広場」という意味で、ここは船荷を積み下ろす場でもあり、アンシアン・レジーム期には中央に絞首台が常置された処刑広場でもありました。アンリ4世時代にジャン・シャテルやラヴァイヤックが四つ裂きにされたのも、後にブランヴィリエ侯爵夫人が打ち首のあとで焼かれたのも、市役所前での公開処刑においてでした。
パリ市役所の本格的な建物はフランソワ1世が建設を命じ(1533年)、 ルイ13世の治世に完成しました(1628年)。1835年にはこの建物に両翼が付け加えられました。旧市役所はルネサンス様式の美しい建物でしたが、パリ・コミューン(1871年)の混乱のなかで火を放たれて、テュイルリー宮、会計検査院とともに焼け落ちました。市役所は8日間燃え続けたそうです。
現在の市役所は第三共和政期にもとの市役所の外見そのままに再建されたものです。 J.-P. ローラン(Jean-Paul Laurens, 1838-1921)や
ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes, 1824-98)、 G. ベルトラン(Georges Bertrand)の絵で飾られたネオ・ルネサンス様式のこの建物は、第三共和政下のフランスの国威を大いに発揚しました。
コミューンで焼け落ちたパリ市役所 1871年
同上
パリ市の紋章