透かし細工のクルシフィクスとクール(センター・メダル)、藤色の透明ガラス製ビーズを使用したシャプレ・ド・ラ・ヴィエルジュ(聖母のロザリオ)。19世紀末のフランスで製作された美しい品物です。
クルシフィクスは銀色の金属製で、植物意匠の透かし細工による十字架に、別作のコルプス(キリスト像)を溶接しています。十字架交差部には後光の代わりに花があしらわれ、飛び梁状のブリッジで補強されています。柱と腕木は交差部から外側に向けて幅広となり、末端はアカンサス(唐草)によるフルール・ド・リス様(よう)の形状を為します。
フランス語でクール(cœur 「心臓」)と呼ばれるセンター・メダルは、マリアの "M" を模(かたど)ります。文字の末端はアカンサス文に変化しています。クルシフィクスを下にして本品を吊り下げると、クールが倒立しますが、これは19世紀のフランスで制作されたロザリオに見られる特徴です。クルシフィクスと同様に、クールにもアカンサスをモティーフとした透かし彫りが施されています。
本品の透かし彫り及び彫金細工においては、植物文と併せて、連続する小さな菱形や円形による装飾パターンが使用されています。これは19世紀半ば以前のヨーロッパの装飾美術には見られない組み合わせであり、日本美術の強い影響をうかがわせます。
本品のビーズは透明ガラスでできており、きらきらと美しく輝いています。ひとつひとつのビーズはたいへん大きく、主の祈りと栄唱のビーズは直径およそ
10ミリメートル、天使祝詞のビーズは直径およそ 9ミリメートルのサイズがあります。主の祈りと栄唱のビーズは銀色の金属製キャップで保護されています。このキャップにも植物文の透かし細工が施されています。
ビーズを偏光器で検査しても複屈折性は見られないので、クォーツ(アメシスト)ではなくガラスであることが分かりますが、それぞれのビーズに対し、丁寧な手作業によって多面のファセット・カットが施されていることから、おそらく鉛ガラス(クリスタル・ガラス)であろうと思われます。ロザリオ全体は
85.5グラムの重量があり、手に持つとずしりとした重みを感じます。
本品のビーズは藤色ですが、藤はわが国の伝統的装飾美術に多用される花のひとつであり、アール・ヌーヴォー作品においても好んで用いられる題材となっています。またキリスト教の象徴体系において赤は愛、青は知恵を表すゆえに、その中間色である紫は「愛ある知恵」、「知恵ある愛」を表します。また赤は地上、青は天上を表すゆえに、紫は天地を繋ぐ恩寵の器、聖母マリアを象徴します。
紫はアメシストの色でもありますが、アメシスト (amethyst) の語源であるギリシア語の形容詞「アメテュストス」(ἀμέθυστος) は「酔わない」という意味です。これは酒に酔わないという意味のみならず、誤った思い込みに直結しがちな精神的陶酔に陥らないという意味でもあります。ガブリエルに受胎を告知された際、歳若いマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と動じることなく答え、七つの悲しみを経験しても神への信仰を失いませんでした。このことはマリアが一時的に高まった熱狂的信仰によってではなく、心の深奥にしっかりと根を張った不動不変の信仰によって、受胎告知を受け容れたことを示します。それゆえアメシスト色は「マリアの信仰の色」でもあります。
本品にはアカンサス文(唐草文)が多用されています。アカンサスとはハアザミのことで、葉の縁、及び花の下にある苞(ほう)が棘状に尖っています。アカンサス(ἂκανθος アカントス)という名称はギリシア語で「棘のある花」という意味で、「アカンタ」(ἂκανθα 「棘」)と「アントス」(ἂνθοϛ 「花」)に由来します。
コリント式柱頭を見てもわかるように、アカンサスの意匠は古代ギリシア以来使われ続けていますが、キリスト教文化の象徴体系において、棘のある植物アカンサスは「苦しみ」や「死」を表します。「創世記」3章において原罪を犯したアダムに神が言われた創世記3章の言葉を、七十人訳と新共同訳によって引用いたします。新共同訳が「茨」と訳している語は、ギリシア語(七十人訳)では「アカントス」(引用文中では複数対格形アカンタス ἀκάνθας)となっています。
17 |
τῷ δὲ Αδαμ εἶπεν Ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες
ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν ἀπ αὐτοῦ, ἐπικατάρατος
ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φάγῃ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·
|
神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 | |
18 | ἀκάνθας καὶ τριβόλους ἀνατελεῖ σοι, καὶ φάγῃ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ. | お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 | |
19 | ἐν ἱδρῶτι τοῦ προσώπου σου φάγῃ τὸν ἄρτον σου ἕως τοῦ ἀποστρέψαι σε εἰς τὴν γῆν, ἐξ ἧς ἐλήμφθης· ὅτι γῆ εἶ καὶ εἰς γῆν ἀπελεύσῃ. (Saptuaginta) | お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 (新共同訳) |
上の引用箇所からわかるように、本品の金属部分にあしらわれたアカンサス文は、アダムとエヴァの原罪ゆえにイエズス・キリストが受け給うた苦しみと死を表すとともに、ひとり子イエズスを喪った聖母の悲しみ、あるいはマーテル・ドローローサとしての聖母をも象徴しています。
本品は一見したところ類品と同様のロザリオのように見えますが、クロスとクールの日本風装飾によって、アール・ヌーヴォー期ならではの作品に仕上がっています。制作年代の雰囲気を色濃く残し、時代の結晶ともいうべきこのような品に出会うことは、アンティーク品と付き合う専門家としての最大の楽しみです。
本品は19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーヴォー期に制作された真正のアンティーク品ですが、古い年代にもかかわらず、たいへん良好な保存状態です。特筆すべき問題は何もありません。