サヴォーナの憐みの聖母
Nostra Signora della Misericordia di Savona



(上) ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア・ディ・サヴォーナ(サヴォーナの憐みの聖母) イタリアの古い小聖画


 サヴォーナ(Savona リグリア州サヴォーナ県)はフランスに近いイタリア北西部の都市で、リグリア海に面しています。1536年と 1580年、ここに聖母マリアが出現しました。サヴォーナの聖母は正義ではなく憐みを求め給うたゆえに、ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア・ディ・サヴォーナ(Nostra Signora della Misericordia di Savona サヴォーナの憐みの聖母)として知られています。


【「サヴォーナの聖母出現の経緯】

・最初の出現

 サヴォーナから約六キロメートル離れた近郊の村、サン・ベルナルド・イン・ヴァッレ(San Bernardo in Valle)に、アントニオ・ボッタ(Antonio Botta)という農夫が住んでいました。1536年3月18日の早朝、アントニオは葡萄畑の剪定に行くためにロザリオを唱えながら歩いていました。アントニオはやがてレティンブロ川(il Letimbro)に差し掛かり、岸辺に跪いて手を洗いはじめました。

 そのとき天から眩い光が降(くだ)ってきました。アントニオは恐怖のあまり岸辺に倒れて、もう少しで小川に転落するところでした。光に包まれて現れたのは美しい女性で、アントニオに身を起こすように命じ、処女マリアを名乗りました。そして三回の土曜日に断食して、聖母子のために行列を行ったうえで告解をし、聖体を拝領すること、四回めの土曜日には小川沿いの場所に戻ってくることを命じました。そのとき付近を通る人の気配がしたのでアントニオは隠れようとしましたが、聖母は自身とアントニオの姿は他の者からは見えませんと言って、姿を消しました。聖母が姿を消すと、眩い光も消え去りました。我に返ったアントニオは急いでサン・ベルナルド・イン・ヴァッレに戻り、教区司祭に知らせました。

 サヴォーナ司教は 1528年7月から 1537年10月まで空位であったので、この間アゴスティーノ・スピノラ枢機卿(Msgr. Agostino Spinola, c. 1482 - 1537)が同司教区の使徒座任命管理者となり、司教総代理のバルトロメオ・キャブレラ師(Msgr. Bartolomeo Chiabrera)が補助を務めていました。サン・ベルナルド・イン・ヴァッレの教区司祭はアントニオが正直でまじめな人物だと知っていたので、アントニオの話をバルトロメオ・キャブレラ師に報告しました。そのときはちょうど四旬節だったこともあり、サヴォーナの教会では信徒に断食と告解を勧めました。


・二回目の出現

 最初の出現から四週間後の土曜日、アントニオは聖母に命じられたとおりに出現の場所を訪れました。川辺に跪いて祈ると、天が開いて眩い光が現れました。光は岩の上に降り立つと、徐々に聖母の姿となりました。白の衣に包まれて金の冠を戴く聖母は、両腕を伸ばし、罪びとを招いて抱きとめるように慈悲深い姿勢を執っておられました。

 聖母はアントニオに語り掛け、三度の土曜日に断食及びイエスのための行列を行うことを、再び求めました。これは罪を償うためであり、あらゆる人々、とりわけ全ての修道者と苦行信心会の会員たちに参加が求められました。聖母は神の御言葉を広める苦行信心会の働きを称え、アントニオをはじめとするサヴォーナの人々が宗教の教えに従うことを求めました。聖母は話し終えると、「わたしが求めるのは正義ではなく、憐れみです。」という言葉を残して姿を消しました。




(上) サントゥアリオ・ディ・ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア 1892年のジロタージュ "Savona: Santuario della Madonna della Misericordia (da fotografia)", di "Provincie di Genova e Porto Marizio" ("LA PATRIA - GEOGRAFIA DELL'ITALIA", opera completa dal Prof. Gustaveo Strafforello colla collaborazione di altri distinti scrittori, Unione Tipografico-Editorice, 33, Via Carlo Alberto, Torino, Anno 1892)


 二回に亙る聖母出現の噂はすぐに広まり、大勢の巡礼者が出現の場所に詰めかけました。こうして集まった多額の喜捨により、聖地にふさわしい聖堂を建てることができるようになりました。二回目の出現から数日後の 1536年4月21日、サヴォーナの司教総代理バルトロメオ・キャブレラ師は礼拝堂建設の計画を承認しましたが、救貧院を併設した大きな聖堂が必要であると考え直し、サヴォーナ市、及びサヴォーナ司教区の使徒座任命管理者であるアゴスティーノ・スピノラ枢機卿の裁可により、同年夏に新聖堂の建設が始まりました。救貧院を伴うこの新聖堂がサントゥアリオ・ディ・ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディア(il Santuario di Nostra Signora della Misericordia 憐みの聖母の聖所)で、1540年にはほぼ完成しています。またこれと同時期にサヴォーナ市は、聖母が一回目に出現し給うた3月18日を毎年の祝日とし、サヴォーナ中心部からサントゥアリオ・ディ・ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディアまで、奉献の行列を催すことになりました。


・三回目の出現

 1580年3月18日、一回目の出現からちょうど四十四年が過ぎた日のこと、サントゥアリオ・ディ・ノストラ・シニョーラ・デッラ・ミゼリコルディアの北東に位置する丘の上で、聖母がカプチン・フランシスコ会士アゴスティーノ・ダ・ジャノヴァ神父に出現し給いました。聖母が三度目に現れ給うたのは、毎年行われている奉献行列を祝福し、サヴォーナに対する守護を示すためであったと考えられています。

 聖母が三度目に現れ給うた場所は十字架が建てられ、クロチェッタ(Crocetta)と呼ばれるようになりました。クロチェッタとはイタリア語で「十字架が建てられた場所」という意味です。1680年には円蓋を架けた八角形の礼拝堂が建てられました。



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