聖ガブリエル・ラルマン
St. Gabriel Lalemant


 カナダの殉教者(北アメリカの殉教者)のひとりである聖ガブリエル・ラルマン (St. Gabriel Lalemant/Lallemant, 1610 - 1649) はパリの法律家の家庭に 6人きょうだいの 3番目として生まれました。ガブリエルの兄ブルーノはカルトジオ会の修道士、3人の姉妹は修道女、末っ子である弟は父と同様に法律家になっています。

 ちなみにガブリエルのおじふたりもヌーヴェル・フランス宣教に携わっています。シャルル・ラルマン神父 (Charles Lalement, 1587 - 1674) は 1625年、聖ジャン・ド・ブレブフ (St. Jean de Brebeuf, 1593 - 1649) とともにケベックに渡り、ヌーヴェル・フランスにおけるイエズス会の初代の上長者になった人です。またシャルルの弟ジェローム・ラルマン神父 (Jerome Lalement, 1593 - 1673) も 1638年にヌーヴェル・フランスに渡り、ヒューロン族の支配地域におけるイエズス会の上長者の地位を聖ジャン・ド・ブレブフから引き継いで、宣教拠点「ヒューロン族の国における聖母マリア」(サント=マリ Sainte-Marie-au-pays-des-Hurons)建設においても中心的な役割を果たし、1645年に上長者の地位をラグノ神父 (Paul Ragueneau, 1608 - 1680) に引き継いでケベックに戻ると、ヌーヴェル・フランスにおける全宣教師の責任者として、殉教が相次いだ困難な時期に職責を果たしました。ジェローム・ラルマン神父による 1646年から 1649年、及び 1660年から 1664年のレラシオンの記事は優れた史料として高く評価されています。

 ふたりの優れた宣教師、シャルルとジェロームの甥であるガブリエルは、1630年 3月 24日、19歳のときにイエズス会に入会しました。修練期を終えると、1632年から 1635年まで教師として働いたあと、1635年から 1639年までブールジュで神学を学びました。1638年に当地で叙階されるとすぐにヌーヴェル・フランスでの宣教を希望し、学識豊かな優れた教師として 3箇所の学校で哲学を教えながら、渡航の許可を待ちました。

 聖ガブリエル・ラルマンはたいへん華奢な人であったので、ヌーヴェル・フランスの宣教師となる許可はなかなか下りませんでしたが、1646年、ついにケベック行きが実現しました。ジェローム・ラルマン神父は甥ガブリエルを歓迎しましたが、奥地における宣教の困難さをよく知っていたので、最初の2年間、ガブリエルにはヴィル・ド・ケベックとトロワ=リヴィエールにおける司牧の仕事を命じ、ガブリエルがサント=マリにようやく派遣されたのは 1648年のことでした。

 サント=マリに向かってガブリエルとともに出発したのは、ブレッサーニ神父 (Francois-Joseph Bressani, 1612 - 1672)、ボナン神父 (Jacques Bonin, 1617 - ?)、ダラン神父 (Adrien D'Aran, 1615 - 1670)、グレズロン神父 (Adrien Greslon, 1617 - 1697) を含む多人数のフランス人と、ヒューロン族の大集団でした。イロクォワ族の襲撃を避けるためには、敵を圧倒する人数が必要だったのです。

 ガブリエルは 1648年 8月、サント=マリに到着し、ジェローム・ラルマン神父とともにサント=マリ建設に携わったベテラン宣教師ショモノ神父 (Pierre-Joseph-Marie Chaumonot, 16111- 1693) のもとでヒューロン語を学んで驚くべき上達を示します。

 ガブリエルの訓練がひとまず終わると、現地のイエズス会上長ラグノ神父 (Paul Ragueneau, 1608 - 1680) は、ガブリエルを聖ジャン・ド・ブレブフのもとに送り、1649年 2月、ガブリエルはペタン族の村サン=ジャンに向かう聖ノエル・シャバネル (St. Noel Chabanel, 1613 - 1649) の後任となって、サン=チグナス、サン=ルイを含む5つの村を聖ジャン・ド・ブレブフとともに巡回することになります。

 この頃、イロクォワ族に押されてヒューロン族の勢力範囲は縮小し、かつて安全であったサン=チグナスやサン=ルイは危険にさらされていました。1649年 3月に入ると、ヒューロン族の戦士たちが敵を求めて村の周辺地域を移動していましたが、その間に 1200人以上の武装したイロクォワ族がヒューロン族の村々にひそかに接近し、サン=チグナスの間近に迫っていました。

 3月 16日の日の出ごろ、イロクォワ族はサン=チグナスを包囲し、囲い柵の最も弱い部分を破壊して村になだれ込みました。戦士たちが不在の村に残る約 500人の女性と子供、老人たちは為すすべもなく捕らえられ、逃げおおせた村人は 3人にすぎませんでした。

 サン=チグナスから逃げてきた 3人によってサン=ルイに知らせが伝わると、サン=ルイの女性と子供、老人、病人はすぐに他の村に避難し、80人の戦士が村に残って、村人が逃げる時間を稼ぐために 1200人のイロクォワ軍を迎え撃つことになりました。聖ジャン・ド・ブレブフと聖ガブリエル・ラルマンは逃げるように諭されましたが、戦士たちの魂の救いのために、戦士たちとともに村に残りました。

 およそ一時間後、イロクォワ族はサン=ルイを包囲して攻撃を開始し、二人の宣教師は死にゆく戦士たちを励まし、最後の告悔を聴き、洗礼を施すために、忙しく立ち働きました。三度目の攻撃でサン=ルイは陥落し、生き残った少数の戦士とふたりの宣教師は捕虜となってサン=チグナスに連行されました。

 ふたりの宣教師は捕虜となってすぐに衣服を奪われて爪を剥がれました。サン=チグナスに着くと全身を激しく殴打され、村の中央に引いてゆかれて杭に縛り付けられ、拷問が始まりました。赤熱した焼印を押し付けられ、錐で刺され、肉を引きちぎられ、赤熱した斧を首に掛けられ、燃えるピッチを体に掛けられました。拷問が頂点に達したとき、聖ガブリエル・ラルマンは手を組み、天を見上げて祈りました。イロクォワ族は聖人の両目を抉り出して、燃える石炭を眼窩に押し込み、早く天国に送ってやろうと囃したてながら、熱湯の「洗礼」を浴びせかけました。

 聖ジャン・ド・ブレブフは拷問のために同日の午後 4時ごろに絶命しました。聖ガブリエル・ラルマンは全身に火傷を負って夜通し苦しみ続け、翌朝 9時に左側頭部をトマホークで強打されてようやく絶命しました。トマホークの傷は脳に達していました。

 3月 19日にイロクォワ族が退却すると、7人のフランス人宣教師がサン=チグナスに入り、殉教者ふたりの遺体をサント=マリに運びました。3月 21日、殉教者たちの遺体はサント=マリに埋葬されました。



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