聖マドレーヌ=ソフィ・バラ
Madeleine-Sophie Barat, 1779 - 1865





(上) リュドヴィク・ペナン、ジャン=バテイスト・ポンセ作 《マドレーヌ=ソフィ・バラ 列福記念メダイユ 直径 18.5 mm》 フランス 1908年 当店の商品です。


  聖マドレーヌ=ソフィ・バラ(Madeleine-Sophie Barat, 1779 - 1865)は、聖心会(la Société du Sacré-Cœur de Jésus, Societas Sacratissimi Cordis Jesu)を設立した修道女です。聖マドレーヌ=ソフィ・バラは社会において女性が果たす役割を重視し、キリスト教に基づく女子教育の発展に尽くしました。


【聖マドレーヌ=ソフィ・バラの生涯】

・誕生から少女時代まで

 ソフィ・バラは 1779年12月12日、パリから南東に百二十キロメートル余り離れた小さな町ジョワニー(Joigny ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏ヨンヌ県)で、葡萄栽培と酒樽作りを生業とする家庭に生まれました。ソフィが生まれた夜にすぐ近所で火事があり、ソフィの母はそのせいでおよそ二か月の早産を来しました。未熟児として生まれたソフィはおそらく生き延びられないと思われたので、十五歳年上の兄ルイを名付け親としてすぐに洗礼を施されましたが、母の熱心な世話によって生命の危機を切り抜け、極めて優れた知性を示すようになりました。兄ルイはジョワニーの中等学校で教鞭をとっていましたが、帰宅後には妹ソフィーに対し、中等学校の男子生徒たちに教えるのと同じ内容を教授しました。ソフィーはこの兄のおかげで、ラテン語、ギリシア語、自然科学、宗教、文学など広範かつ高度な教養を身に着けました。


・ヴァラン師の導きと聖心会の設立

 フランス第一共和政政府は 1790年に聖職者基本法を公布し、全ての聖職者に革命政府への服従と協力を求めました。ソフィの兄ルイは当初この法律の受諾を宣誓しましたが、翌 1791年4月にローマ教皇は同法の受諾を禁ずる教書を発し、このことを知ったルイは 1792年㋄2日に同法受諾の宣誓を取り消す旨を町役場に届け出ました。身の危険を感じてパリに逃れるも、友人に密告されたルイは逮捕され、死刑囚として投獄されますが、ロベスピエールの失脚により思いがけず釈放されました。ルイは 1795年に司祭となり、十五歳のソフィーを伴ってパリに移り住みました。

 一方、ヨーロッパのイエズス会は 1773年に活動を禁じられて解散しましたが、ヨーロッパにイエズス会を再興するために準備を進める司祭たちがいました。彼らの指導者であるフランソワ=レオノール・ド・トゥルネリ師(François-Léonor de Tournély, 1767 - 1797)は 1797年、アウグスブルクでの祈りの最中に、聖心に捧げられた女子教育のための修道会を思い付きます、一行がアウグスブルクから移動してウィーンに着いたとき、ド・トゥルネリ師は重病に罹って倒れましたが、女子教育のための修道会の構想を同志のジョゼフ・ヴァラン師(Joseph Varin, 1769 - 1850)に伝えました。

 1800年になってヴァラン師の一行がパリにやってくると、ソフィの兄ルイは彼らの運動に参加しようとヴァラン師を訪ねました。この時ソフィはジョワニーに規制していましたが、ルイからソフィのことを聞いたヴァラン師は、この女性が女子教育修道会の礎石となるべき人物であることに気づきます。ソフィがパリに戻ると、ヴァラン師はさっそくソフィを訪ねました。師はソフィが小柄で頼りなげな女性であることに驚きましたが、神を信頼してソフィを説得し、ソフィは聖心に捧げた女子教育修道会フランス支部の最初の会員となることに同意しました。1800年11月21日、ソフィを含む四人の女性は自身を聖心に奉献し、聖心会(イエスの愛子会 註1)の最初の修練女となりました。


・アミアンに開かれた最初の聖心学院

 この頃ヴァラン師たちは男子の学校を創設するためアミアンを訪れていましたが、当地には運営が困難になっている女子学校がありました。ヴァラン師の仲立ちにより、ソフィーを含む修道女たちがイエスの愛子会からこの学校に送り込まれ、1801年10月、最初の聖心学院が開設されました。翌年の聖霊降臨節すなわち 1802年6月7日、ソフィは終生誓願を立てました。またアミアンの聖心学院は途中で院長が退任し、ソフィが新院長に任じられました。

 それまでの修道院寄宿学校は、学校とはいっても実態は修道院と変わらず、生徒たちは勉学よりもむしろ修練女の生活を求められました。しかるに聖心学院では家庭的な雰囲気のもと、イエズス会の教育課程に準じた高度な教育が施されました。なかでもソフィが重視したのは哲学と論理学で、信仰に照らされた理性の働きを鍛錬することが求められました。


・グルノーブルに開かれた第二の聖心学院と、ローズ=フィリピーヌ・デュシェーヌ

 1804年の数か月間、ヴァラン師はリヨンに滞在していましたが、その間にグルノーブルの聖母訪問会修道院から聖心会に加わりたいとの相談を受けました。ヴァラン師の仲立ちでソフィはグルノーブルのサント=マリ・ダン・オー(Sainte-Marie d'en Haut)修道院を訪れ、聖母訪問会の修道女ローズ=フィリピーヌ・デュシェーヌ(Rose-Philippine Duchesne, 1769 - 1852)に出会います。1804年12月13日のことでした。

 当時のサント=マリ・ダン・オー修道院は荒れ果てており、ローズ=フィリピーヌ・デュシェーヌ修道女を含めて四人しか残っていませんでした。ソフィは当修道院を聖心会に受け容れるためにしばらくここに滞在しました。聖母訪問会は観想修道会ですが、1805年11月21日、サント=マリ・ダン・オー修道院の修道女たちは聖心会の修練女として修道誓願を立て、同修道院は聖心会修道院となりました。院長にはローズ=フィリピーヌ・デュシェーヌ修道女が就任しました。


・聖心会の発展

 聖心会がアミアンに開いた寄宿学校には、フランスじゅうから大勢の少女が集まりました。さらに女子教育のために設立されたフランス各地の団体が、こののち聖心会に加わることになります。このような状況の下、聖心会修道院の数が増えるにともなって監督の働きが必要となり、1806年1月18日、27歳のソフィが総長に選ばれました。1801年10月のアミアン、1805年のグルノーブルに続いて、聖心会は 1808年にポワチエとニオールに寄宿学校を開きました。

 1815年11月1日、ソフィはパリで聖心会の第二回総会を招集しました。この総会では聖心への愛に基づく会憲が承認され、一般市民の服装と同様の修道服が定められました。また 1815年は王政復古の年でしたが、宗教に基づく活動が社会的政治的に受容されやすくなったこの機会に、聖心会本部がパリのポスト街に設立されることとなりました。聖心会の会憲は 1816年にピウス七世によって承認されました。

 ルイジアナとフロリダの司教デュブール師(Louis-Guillaume-Valentin DuBourg, 1766 - 1833)はルイジアナに渡る宣教を募り宣教の資金を調達するため、1815年、ヨーロッパに渡りました。1817年にルイジアナに戻る際、デュブール師はパリの聖心会本部を訪れ、新大陸に修道女を派遣するよう依頼しました。ローズ=フィリピーヌ・デュシェーヌ修道女はアメリカ先住民に宣教を行いたいと以前から熱望していましたが、この機会に新大陸に行かせてくれるようソフィ・バラ総長に頼み込み、1818年3月21日、ボルドーからルイジアナに渡りました。デュシェーヌ修道女の赴任地とされたのは白人入植者の町で、このことはデュシェーヌ修道女を失望させましたが、晩年には先住民少女のための学校を創る願いも叶い、デュシェーヌ修道女は新大陸における聖心会の礎石となりました。

 一方ヨーロッパでは、1816年、ボーヴェに聖心学院ができ、寄宿生八十名に加えて無料学校の生徒は四百名を数えるまでに発展しました。1817年にカンペールに開いた聖心学院も、当初の生徒はわずか十人でしたが、無料学校が開設されると三、四百人の少女たちが在籍するようになりました。1818年にシャンベリに開設された聖心学院は当初妨害に遭いましたが、やがて事態は好転して学院は軌道に乗りました。同 1818年にはリヨンに、翌 1819年にはボルドーに聖心学院ができました。1820年8月15日には聖心会パリ本部で第三回総会が開かれ、後々まで改訂を続けて活かされるカリキュラムの基礎ができあがりました。またポスト街の聖心会本部は手狭になったので、同年、国王から助成金を得て、廃兵院に近いヴァレーヌ街の広壮な屋敷に本部が移転しました。

 十八世紀末からから十九世紀にかけてのフランスは数次に亙る革命を経験し、貴族をはじめとする上流家庭の人々はとりわけ激しい地位の変動や没落を経験していました。ソフィ・バラ総長は過酷な環境に置かれた貴族家庭の子女たちを憐み、この少女たちの教育に力を入れました。ただし家柄によって子供たちを特別扱いすることは決してなく、子供たちの間に血筋を誇る言動を見つけると非常に厳しく叱責して、一人の人間としての価値のみに目を向けるよう指導しました。家庭の主婦となるはずの少女たちには使用人に給与を支払う期日を守ること、使用人の健康を気遣うことなどを教え込み、没落した家庭の子女には職業訓練を施しました。革命で全財産を失った家庭の少女は総長自らが保護者となり、孤児を託された場合は総長自らが母となりました。

 1820年の第三回総会以降、グランド・コトー(Grand Coteau ルイジアナ)、ル・マン、オータン、ブザンソン、メス、トリノに聖心学院が開かれ、1825年にはボルドーの一修道院が聖心会に加わりました。同年9月29日には第四回総会が開かれました。また総会がいったん休会している間の 1826年12月22日、レオ十二世は聖心会の認可書に署名しました。

 ローマにあるトリニタ・ディ・モンティのフランシスコ会修道院は 1495年にシャルル八世の命で建設されたフランスの修道院ですが、十九世紀初頭には廃墟に近い状態になっていました。教皇レオ十二世はローマの少女たちに学びの場を与えるため、1828年、この修道院を聖心会に寄進することをフランス王シャルル十世に要望し、国王はこれに応えました。同年5月20日、トリニタ・ディ・モンティの聖心学院は生徒の受け入れ態勢が整い、まもなく二人のイタリア人少女が入学しました。翌 1829年にはペルピニャンとアヴィニヨンに聖心学院ができました。

 聖心会の会憲が定められた 1815年に 6箇所しかなかった聖心会修道院は、1838年の時点でフランスに 27、国外に 17、合わせて 41箇所に増えていました。これに伴い会憲を根本的に変更するか最小限の修正にとどめるかを巡って、聖心会内部に対立が生じましたが、長いいきさつの末に聖心会の活動は当初の会憲に従うべきことが結論付けられ、1843年3月4日に教皇グレゴリウス十六世によって教皇書簡への署名が行われました。1830年から 1848年までの期間にアメリカに三か所、カナダに一か所、さらにベルギー、イギリス、アイルランド、ポーランド、オーストリア、スペインにも聖心会修道院が開設されました。




(上) トリニタ・ディ・モンティのマーテル・アドミーラービリス イタリアの古い絵はがきより


 1844年から翌 45年にかけてソフィ・バラ総長はローマのトリニタ・ディ・モンティ修道院に滞在しましたが、そこでは動物たちが総長によく懐きました。他の誰のそばにも寄ってこない野の小鳥たちも、総長のそばには集まってきました。総長の滞在中、画才のある修練女ポーリーヌ・ぺルドゥローが修道院の回廊に聖母の壁画を描きました。ピウス九世が前に立って発した言葉、マーテル・アドミーラービリス(羅 MATER ADMIRABILIS いと感ずべき聖母)に因み、聖母像はこの名前で呼ばれています。

 1847年9月、聖心会は当時廃墟になっていたマルムティエ修道院を手に入れました。ここには 1849年6月にトゥールの聖心学院が移転入居しました。

 1848年の二月革命によって第二共和政が発足した当初、フランスにおける教育はパリ大学による独占的指導の下にあって、中等学校以上の私学を設立することも、宗教教育を行うこともできませんでした。しかしながら 1849年4月、カトリック教会寄りのファルー公爵をはじめとする議員によって教育改革が提案され、ミッション・スクールの設置が可能になりました。この改革案は、教育に関する1850年3月15日の法律(Loi du 15 mars 1850 relative à l'enseignement)、通称ファルー法(la loi Falloux)として後に法制化されます。フランス共和国の教育改革案は、私立学校視察と認可の権限をパリ大学に残していたので、カトリック界の意見は二分しました。このとき聖心会のソフィー・バラ総長は政府の改革案をよく研究し、フランス・カトリック界において積極的に発言しました。教皇ピウス九世はフランス共和国の決定を受け容れるように、フランスの司教団に命じました。理念的な原理原則に拘泥するよりも、宗教教育の現実化を優先したのです。これは実効性の点で賢明な判断ですし、常に現場で働く教育者であろうとしたソフィー・バラ総長にとっても歓迎すべき結果でした。

 1851年11月13日にリヨンで開かれた聖心会第七回総会では、ヨーロッパを八地区、アメリカを二地区に分けて、各地区に総長直属の代理を置くことが決定されました。1848年から 65年にかけて、アメリカに 18箇所、イギリスに 3箇所、イタリアとスペインに 2箇所、オランダとドイツに 1箇所、南米に 2箇所の聖心学院が設立されました。フランス国内の聖心学院は 39箇所に達しました。

 パリ、ヴァレーヌ街の聖心会本部は広壮な敷地を誇りましたが、この頃は修道女と生徒が増えてずいぶん手狭になっていました。そこで聖心会では、1854年、学校を併設しない本部機能だけをパリ、サン・ジャック地区のフェヨンティーヌ修道院に移転させました。しかしながらこの場所はオスマンのパリ改造に際して立ち退きの対象になったので、1858年11月7日、聖心会本部はヴァレーヌ街の元本部の隣接地に新築した建物に再び移転しました。

 1864年6月17日に、聖心会第八回総会がパリで開かれました。このとき聖心会会員は 3500名に達し、これまでに設立された 110箇所の聖心学院のうち、86箇所が活動を続けていました。


・聖マドレーヌ=ソフィ・バラの死

 1865年5月28日、キリスト昇天の祝日に、ソフィ・バラ総長は亡くなりました。遺体はセーヌ川沿いを馬車で運ばれて、コンフロンの聖心学院付属聖堂に埋葬されました。聖マドレーヌ=ソフィ・バラは 1908年5月24日にピウス十世により列福、1925年5月24日にピウス十一世により列聖されました。


【日本における聖心会】

 フランス第三共和政はジュール=フェリーの時代から一貫して、教育分野における政教分離すなわち世俗化を推進しました。十九世紀のフランスではほとんどの学校が修道会による運営でしたが、1902年6月7日に急進的な共和主義者エミール・コンブを首班とする政府が成立すると、全てのカトリック学校の閉鎖が目指されました。当時フランス国内に聖心会の学校は 46箇所ありましたが、1909年にコンフロンの聖心学院が閉鎖されたのを最後に、聖心会は45箇所の学校を失い、フランスにおける教育活動を停止しました。

 1905年に日本が日露戦争に勝利すると、ピウス十世は日本に使節を派遣しました。日本側は教皇の使節を歓待し、カトリック系の高等教育機関を求める声が高まりました。これを受けてピウス十世はイエズス会と聖心会に、日本における高等教育機関の設置を要請しました。聖心会は 1907年1月1日に四名が、2月28日にさらに八名が東京入りし、広尾の洋館で個人教授を始める傍ら、この国の実情視察に取り掛かりました。4月13日には聖心女子学院外国人部、通称語学校が開設されました。これは今日の聖心インターナショナル・スクールの源流です。

 同年6月1日には、聖心女子学院の経営母体である財団法人私立聖心女子学院の設立が認可され、芝白金三光町の伊達家所有地が購入されました。校舎は 1909年 3月に落成し、幼稚園、小学校、高等女学校の開講が順に認可されました。これに語学校を合わせた四校が、1910年、生徒数二十二人で始まり、1915年には高等女学校の第一回卒業生九名を送り出しました。同年3月10日には高等専門学校の設立が認可され、翌 1916年4月から予科二年、本科三年の英文科が、四人の学生を迎えて始められました。1930年には国文科が設けられ、1938年には史学科の設置が認可されました。

 芝白金三光町の校地は戦災で焼けましたが、聖心会は渋谷区宮代町(現、広尾)の旧久邇宮邸を手に入れて、聖心女子大学が発足しました。これが現在の校地となっています。



註1 聖心に捧げられた女子教育のための修道会としては、オーストリア皇女マリア・アンナ(Maria Anna von Österreich, 1770 – 1809)を創立者とするイエスの愛子会(伊 Dilette di Gesù イエスに愛される女性たちの会、イエスの愛子会)が、すでにイタリアで活動を始めていた。ヴァラン師がソフィに作らせたのはこの会のフランス支部であり、それゆえソフィたちの会も当初はイエスの愛子会を名乗った。会の名は 1804年にキリスト教教育修道女会(仏 Dames de l'association de l'Instruction chrétienne)に変わり、皇帝ナポレオンは 1807年3月10日に同会を公認した。1814年になって教皇ピウス七世がイエズス会の活動を再び認可したのち、ソフィの修道会名は、最終的に聖心会(la Société du Sacré-Cœur de Jésus, la Congrégation des Sœurs du Sacré-Cœur)に落ちついた。1814年は王政復古の年であり、これ以前は会の内部においてのみ使われていた聖心の名称を、対外的にも使えるようになったのである。

 このようにソフィの修道会名は年代によって変遷があるが、会の目的は一貫している。それゆえ本稿では特に必要のない限り、聖心会と名称を用いる。



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