聖ピエール=フランソワ・ネロン
St. Pierre-François Néron



(上) 33名の殉教者 列福記念のカード 1909年 当店の商品です。


 聖ピエール=フランソワ・ネロン (St. Pierre-François Néron, 1818 - 1860) は、パリ外国宣教会からヴェトナムに派遣されたフランス人宣教師です。カトリック禁教時代の阮朝ヴェトナムで活躍しましたが、1860年11月3日、ハノイ西郊のソンタイ (Son Tay) で斬首されて殉教しました。

 聖ピエール=フランソワ・ネロンは、1988年6月19日、当時の教皇ヨハネ=パウロ2世により、ヴェトナムの殉教聖人 (Les Saints Martyrs du Viet Nam) のひとりとして列聖されました。


【聖ピエール=フランソワ・ネロンの生涯】

 聖ピエール=フランソワ・ネロンは、フランス国土の六角形の東端の角よりも少し南に下がったところ、スイスとの国境にほど近いサン=クロード(St-Clande フランシュ=コンテ地域圏ジュラ県)近郊の小村ボルネ (Bornay) に生まれました。9人きょうだいの5番目の子供でしたが、きょうだいのうちひとりは幼くして亡くなっています。当時の例に洩れず、ネロン家も信心深い家庭でしたが、8人の子供を養えるだけの農地を所有せず貧しかったので、男の子には農作業の請負人になる道しか残されていませんでした。

 ピエール=フランソワは17歳のときに信心書を読み、この本が人生の転機となりました。ピエール=フランソワ青年の明るく活発な性格は変わりませんでしたが、毎日曜日のミサに参列するだけではなく、瞑想に耽り、司祭を志すようになったのでした。ネロン師と親しかったトマ師が後に語ったところによると、当時のピエール=フランソワに俄(にわ)かに信仰心が芽生えたのは、「神の恩寵のはたらき」というしかありませんでした。

 しかしながらピエール=フランソワは読み書きができる程度の教育しか無いまま、既に若者になっていました。村の主任司祭は、これから勉強をやり直すには遅すぎること、ピエール=フランソワの家庭は貧しく、勉学を支えられないこと、苦労して司祭になっても豊かになれるわけではないこと等の理由を挙げて反対しましたが、ピエール=フランソワの決心は変わりませんでした。

 ピエール=フランソワ青年は幸いにも奨学金を得て、1839年2月14日、21歳のときにノズロワ(Nozeroy フランシュ=コンテ地域圏ジュラ県)、次いでヴォー=シュル=ポリニ(Vaux-sur-Poligny ジュラ県)に移り、現代でいえば小学校5年生程度のレベルから勉強を始めました。ジュラ県の中心都市ロン=ル=ソニエ(Lons-le-Saunier)の大神学校(グラン・セミネール)を卒業後、1846年、28歳のときに、パリ外国宣教会の神学校に進みました。このとき以降、ピエール=フランソワは二度と故郷に戻りませんでした。

 1848年6月17日、ピエール=フランソワは司祭に叙階されました。その2カ月後にトンキン(北ヴェトナム)に向けて船で出発しますが、逆風のせいでリオ・デ・ジャネイロまで流されてしまい、ブラジルから喜望峰を回って、ふたたびトンキンを目指しました。フランスを出て5カ月以上経った1849年1月18日に香港に到着しましたが、ここでも便船を待たなければなりませんでした。

 ヴェトナムに到着したピエール=フランソワ・ネロン師は、現地の言葉を5ヶ月かけて学んだ後、教区に配属されました。任地の役人はカトリックに対して寛容でしたが、嗣徳(トゥドゥック)帝によるカトリック迫害が始まると、代 牧区の司教座があったヴェトナム北中部の町ヴィン(Vinh ゲアン省)に移りました。

 ネロン師はヴィンにいる間、学校で数学や哲学を教え、すぐに校長に昇進しましたが、次いでハノイ西郊のソンタイ (Son Tay) に配属されました。この地区には1万6千人のカトリック信徒がいましたが、官憲による弾圧が厳しく、司祭や宣教師は夜闇にまぎれて移動するしかない状況でした。ネロン師は1855年11月の手紙に「当地の官憲による弾圧は、他の地方に比べてはるかに厳しい」と書いています。

 1857年以降、フランス人宣教師はもちろんのこと、ヴェトナム人司祭にとっても、安全な場所は皆無となりました。福音を広め、また信徒の世話をする務めを果たそうと望んだネロン師は、自ら殉教を望むことはなく、「市中で姿を見せてはならない。逮捕されるのは罪を犯すことである」と書いていますが、殉教を恐れることなく、「もし捕まれば、歓喜の極みとも言えよう」とも書き遺しています。

 ネロン師は捕縛を免れるため、また信徒たちの安全を図るためにも、居場所を次々に変えましたが、1860年8月初旬、それまで親しくしていた区長の裏切りに遭い、遂に捕らえられました。裏切りを赦してくれるように請う人々に対して、ネロン師は「かまいません。あなたがた皆を赦します」と言ったと伝えられています。

 信徒たちの請願にもかかわらず官憲に引き渡されたネロン師は、立つことも横になることもできない小さな檻に入れられて尋問され、また杖で激しく打擲(ちょうちゃく)されました。同年11月3日、フエの嗣徳帝から刑の執行命令が届くと、ネロン師は即日斬首されました。師の首は3日のあいだ市中に晒されたあと、河に投げ捨てられました。


 パリの外国宣教会神学校で学んでいた当時のネロン師は、「なぜ故郷を後にしたのかと考えることがある。しかしそれはすべてイエズスに仕えるためなのだ。」と語っています。その生涯に最後に「あなたがた皆を赦します」と言ったネロン師の生き方は、まさにイエズスに倣い、イエズスに仕える生き方でした。




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