アレクサンドリアの聖アポローニア
SANCTA APOLLONIA DE ALEXANDRIA, Sainte Apolline d'Alexandrie




(上) Carlo Dolci, "die heilige Apollonia", Öl auf Leinwand, 69 x 60 cm


 アレクサンドリアの聖アポローニア (SANCTA APOLLONIA DE ALEXANDRA, + 249) は、コプト教会、ローマ・カトリック教会、東方教会において崇敬される殉教処女です。聖アポローニアは歯科医師の守護聖人とされています。聖アポローニアの祝日は二月九日です。


【エウセビオス「教会史」に見られるアポローニアへの言及】

 カイサレアのエウセビオス (Eusebius Caesariensis, Εὐσέβιος ὁ Καισάρειος, c. 265 - 339) は「教会史」第六巻四十一章において、アレクサンドリア司教ディオニュシオスがアンティオキア司教ファビウスに宛てた書簡を引用し、三世紀中頃にアレクサンドリアの住民たちが異教の預言者に扇動され、およそ一年にも亙ってキリスト教徒を迫害した様子を記述しています。殉教処女アポローニアの名前は、同書第六巻四十一章七節に出てきます。該当箇所を下に引用いたします。和訳は筆者(広川)によります。

      ἀλλὰ  καὶ  τὴν  θαυμασιωτάτην  τότε  παρθένον  πρεσβῦτιν  Ἀπολλωίαν διαλαβόντες, τοὺς μὲν ὀδόντας ἅπαντας κόπτοντες τὰς σιαγόνας ἐξήλασαν,     しかし彼らはその次に、称讃に値する処女にして年長の女であるアポローニアを捕え、顎をこじ開けて歯を残らず折り取った。
     πυρὰν δὲ νήσαντες πρὸ τῆς πόλεως ζῶσαν ἠπείλουν κατακαύσειν, εἰ μὴ συνεκφωνήσειεν αὐτοῖς τὰ τῆς ἀσεβείας  κηρύγματα.     そしてアレクサンドリアの門の前で火を起こし、神を侮る言葉を彼らとともに大声で発しないならば、[アポローニアを]生きたまま焼くと脅した。
      ἣ δὲ ὑποπαραιτησαμένη βραχὺ καὶ ἀνεθεῖσα, συντόνως ἐπήδησεν εἰς τὸ πῦρ, καὶ  καταπέφλεκται.     しかしアポローニアはしばらく待ってくれるように頼み、縄を解かれると、火の中に跳び込んで焼死した。
         
      Eusebius Caesariensis, "Historia ecclesiastica",
Liber VI, caput XLI, 7
    カイサレアのエウセビオス
「教会史」 第六巻四十一章七節




 アレクサンドリアでキリスト教徒に対するこの迫害が起こったのは、「教会史」の記述から判断すると、フィリップス帝の治世の終わり頃であったと考えられます。フィリップス帝 (Marcus Iulius Philippus Augustus, 204 - 249) はシリア生まれの軍人皇帝で、キリスト教に対して寛容であったことが知られています。


 エウセビオスがここで引用するアレクサンドリア司教ディオニュシオスの書簡は、アレクサンドリアでの迫害が皇帝の勅令によるものではないと明記しています。しかしながら同書簡によると、アレクサンドリアではおよそ一年もの長きに亙って反キリスト教の暴動が続き、皇帝はこれを阻止するための介入をしませんでした。同書簡はこのときアレクサンドリアで殉教した人々の名前を、アポローニア以外にも多数記録しています。


 なお上に引用したディオニュシオスの書簡は、アポローニアについて「テーン・タウマシオータテーン・パルテノン・プレスビューティン」(τὴν  θαυμασιωτάτην  ...  παρθένον  πρεσβῦτιν  Ἀπολλωνίαν ギリシア語で「称讃に値する処女にして年長の女」)と書いています。「プレスビュテース」(πρεσβύτης 男性形)、「プレスビューティス」(πρεσβῦτις 女性形)という古典ギリシア語は「プレスビュス」(πρέσβυς 男性形)から派生した語で、これら三語とも、標準的な語義においては五十歳くらいの年長者を指します。


【聖人伝「レゲンダ・アウレア」における聖アポローニア】

 十三世紀のジェノヴァ大司教ヤコブス・デ・ウォラギネ (Jacobus de Voragine, c. 1230 - 1298) は、1260年代に、「レゲンダ・アウレア」("LEGENDA AUREA" ) あるいは「レゲンダ・サンクトールム」("LEGENDA SANCTORUM") と呼ばれる聖人伝集成を編纂しました。「レゲンダ・アウレア」は信仰心の涵養を唯一の目的とし、歴史的事実を正確に叙述することには極めて無関心であるどころか、その内容には創作さえも多く含みます。したがって「レゲンダ・アウレア」は、ボランディストの「アクタ・サンクトールム」("ACTA SANCTORUM") のように学術的な聖人伝集成とは異なり、歴史資料としては全く価値がありません。しかしながら同書は中世西ヨーロッパにおいて最も広く流布した聖人伝であり、芸術分野に非常に大きな影響を与えているゆえに、美術品を鑑賞する資料としては極めて重要な文献です。




(上) ルーアン司教座聖堂ノートル=ダムを飾る聖女像。向かって左から右に、エジプトの聖マリア、アレクサンドリアの聖アポローニア、パリの聖ジュヌヴィエーヴ statues de Ste Marie l'Egyptienne, Ste Apolline d'Alexandrie, Ste Geneviève de Paris la Cour des Libraires, la Cathédrale Notre-Dame de Rouen


 アポローニアの聖人伝は「レゲンダ・アウレア」 第六十六章に収録されています。該当箇所を日本語を付して示します。テキストは 1850年のライプツィヒ、アルノルト版に拠りました。これはドレスデン貨幣博物館のテオドール・グレッセ博士 (Johann Georg Theodor Grässe, 1814 – 1885) が校訂した版で、「レゲンダ・アウレア」の最良のラテン語テキストとされています。日本語訳は筆者(広川)によります。文意を通りやすくするために補った訳語は、ブラケット [ ] で囲みました。

    "LEGENDA AUREA" CAPUT LXVI. De sancta Apollonia.    「レゲンダ・アウレア」 六十六章 聖アポローニアについて
         
     Cum apud Alexandriam temporibus Decii imperatoris immanis persecutio contra Dei servos sum(p)sisset exordium, quidam Divinus nomine miser daemonum pricipalia praevenit edul(i)a, superstitiosum contra ejusdem Christi famulos excitans vulgus, a quo multitudo incensa nihil aliud quam piorum sanguinem sitiebat.    アレクサンドリアにおいて、デキウス帝の治世に、神の僕(しもべ)たちに対する大きな迫害が始まったとき、名をディーウィーヌスという厭うべき人物が、悪霊どもの主たる餌食を先導し、同じキリストに従う僕(しもべ)たちに対抗して、迷信深い群衆を扇動した。ディーウィーヌスに扇動された群衆は、敬虔な人々の血を流させなければ満足しなかった。
     Primo ergo quosdam religiosos utriusque sexus corripientes alios per corpus membratim fustibus conscisserunt vultumque et oculos acutis calamis terebrantes extra civitatem ejecerunt, quosdam vero ad ydola producentes adorare cogebant recusantes, im(m)o potius exsecrantes, vincla pedibus innectentes et per plateas totius civitatis trahentes foedoque horerndoque supplicii genere discerpunt.    最初に、男女の信徒たちを捕らえた人々は、ある人たちの体を関節ごとに棒で切り落としてゆき、顔や目を鋭い葦で突き刺して、町の外に投げ捨てた。一方で、ある人たちを偶像のところまで連れて行き、殴打しつつ、さらには、[真の神を]冒涜しつつ、[偶像を]礼拝するように強要した。人々は[キリスト教徒たちの]足に縄を巻き付けて、市中全域の街路を引き回し、憎むべき、また恐るべき類の拷問によって、[キリスト教徒たちの体を]切り裂く。
         
     Ergo erat his temporibus quaedam admiranda virgo longaevae aetatis nomine Apollonia, castitatis, sobrietatis atque munditiae floribus redimita, tanquam columna fortissima ipso spiritu domini confirmata pro fidei suae merito et virtute a domino percepta admiranda angelis et hominibus praebens spectacula.    ところでこの頃、年長の誉むべき処女で、名をアポローニアという人がいた。[アポローニアは]貞淑と思慮と清らかさという花々で飾られていた。それのみならず、その信仰ゆえに主の御霊おん自らによって固められたいとも強き柱[であるアポローニア]は、善行と徳において誉むべき女であると神によって認められ、天使たちにとっても、人間たちにとっても、仰ぐべき模範となっていた。
     Cum itaque furens multitudo per domos servorum Dei irrueret atque crudelitate hostili cuncta diriperet, rapitur protinus ad tribunal impiorum beata Apollonia simplicitate innocens, virtute fortissima, nihil sane aliud deferens quam suae intrepidae mentis constantiam et illaesae conscientiae puritatem, devotam Deo offerens animam et castissimum tradens persequentibus corpus ad poenam.    さて怒り狂った群衆が神の僕(しもべ)たちの家々になだれ込み、そのうえ敵意のこもった残忍さですべてを引き裂いたとき、[神にあって]幸いなるアポローニアは不信心者たちの法廷にすぐに連行された。[このアポローニアは]質素で人に迷惑をかけず、徳においてはたいへん強かったが、確かに[この女が法廷に]持って行ったのは、恐れを知らない心が有する堅固さと、瑕(きず)なき良心の清らかさに他ならない。[アポローニアは]熱心なる魂を神に捧げ、いとも貞節深き身体を、刑を受けるために、迫害者どもに引き渡すのであった。
     Igitur comprehensa beata virgine persecutores in ipsam crudeliter saevientes primo ei omnes dentes ejus excusserunt, deinde congestis lignis rogum ingentem exstruxerunt, comminantes se vivam eam incensuros, nisi cum ipsis pariter impia proferret.    それゆえ、幸いなる処女[アポローニア]が捉えられると、この女に対して残忍にも怒り狂った迫害者どもは、初めにそのすべての歯を抜き去り、次に束ねた材木で薪の大束を積み上げ、神を畏れぬ事どもを自分たちと共に同じように公言しないならば、自分たちはアポローニアを生きたまま焼くつもりだと脅した。
     At illa, ut rogum vidit esse succensum, paululum quidem intra semetipsam deliberans repente de manibus impiorum prorupit atque in ignem, quem minabantur, sponte prosiliit, ita ut perterrerentur etiam ipsi crudelitatis auctores, quod promtior est inventa femina ad mortem, quam persecutor ad poenam.    薪の束の下に火が点けられるのを見て、[アポローニアは]自分の中で心を決め、不信仰者どもの手から突然身を解(ほど)いて、火へと向かって行った。不信仰者どもは[アポローニアを]脅したが、アポローニアは自分から[火中へと]跳び込んだ。迫害者が女を刑に[処する]よりもむしろ、女が自ら進んで死へ[赴いた]と明らかになり、残虐行為を為す者ども自身が非常に驚いた。
     Diversis igitur affectata suppliciis : fortissimam martirem Christi nec incumbentium tormenta poenarum et saevissimorum persecutorum superare flamma potuit, quia longe ardentius veritatis radiis mens ejus accensa fervebat. Unde nec potuit de infatigabili pectore calorem divinitus infusum corporeus ille et mortalium ministratus manibus ignis excludere.    すなわちアポローニアはさまざまな拷問を受けたのであるが、差し迫った刑罰の苦しみも、この上なく凶暴な迫害者どもの炎も、キリストのいとも強き殉教者を打ち負かすことはできなかった。なぜならば、アポローニアの心は真理の光によって点火され、[火刑の火よりも]はるかに熱く燃え立っていたからである。それゆえ死すべき人間どもの手によって燃やされた物体的なその火が、神によって注ぎ込まれた熱を、[アポローニアの]不屈の胸(心)から除き去ることは、できなかったのである。
     O magnum mirandumque certamen hujus virginis, quae miserantis Dei dispensante gratia arsit, ne arderet et ne ureretur, exusta est, quasi nullis esset ignibus et suppliciis tradita. Fuerat quidem securitas libertatis, sed nulla exstiterat gloria dimicantis.    憐れみ深き神の恩寵によって燃え立つこの乙女の戦いの、何と大いなる、驚くべきものであったことよ。[アポローニアは]如何なる火にも拷問にも渡されなかったかのように、焼けもせず、焦げもしていなかったが、[すでに神の火に]焼き尽くされていたのである。すなわち[外見的には]自由の安らぎがあり、戦うアポローニアの栄光は現れ出ていなかったのである。(註1)
     Validissima virgo martir Christi Apollonia mundi delicias continens, florentem mundum mentis despectu calcans et sponso suo Christo placere cupiens felici perseverantia in virginali proposito inter cruciamenta firmissima perstitit : praeminet ergo et praefulget inter martires meritum hujus virginis tam gloriose et feliciter triumphantis ; profecto virilis animus in hac femina majus aliquod fecit, quoniam sibi tanto pondere certaminis fragilitas non defecit.    キリストの最も強き処女殉教者アポローニアは、この世の快楽を退け、飾り立てたこの世を心中に軽蔑して踏み付け、幸いなる忍耐によって貞潔のうちに生きて浄配キリストを喜ばせることを願い、数々の責苦のうちにあって、この上もなくしっかりと立ち続けた。それゆえに、かくも栄光に満ち、かつ幸いな仕方で勝利したこの処女が受ける褒賞は、殉教者たちの間にあって、とりわけ優れて輝き出るのである。確かに、この女の内にある男勝りの勇敢さが、他に勝る大いなることを為し遂げたのだ。なぜなら[女性としての身体的な]弱さが、責苦のこのような重さによっても、アポローニア自身を裏切ることはなかったからである。
     Omnem quoque timorem terrenum a se per amorem coelestem expellens crucis Christi trophaeum arripuit et tam contra libidines quam ecce contra universa supplicia fide potius armata quam ferro dimicavit et vicit.    またアポローニアは、天上の愛を通してこの世のあらゆる恐れを自身から追い払い、キリストの十字架という勝利の冠を手に入れた。アポローニアは鉄よりも強い信仰の鎧を着て、すべての拷問に対してのみならず、情欲に対しても戦い、勝利したのである。
     Quod ipse nobis praestare dignetur, qui cum patre et spiritu sancto vivit et regnat in saecula saeculorum.    アポローニアは世々に亙って父及び聖霊とともに生きて統べ給う。この聖女が我らの代理となって[執り成して]くださるように。
         
      JACOBI A VORAGINE "LEGENDA AUREA" vulgo HISTORIA LONBARDICA dicta, ad optimorum librorum fidem recensuit Dr. Th. Graesse, potentissimi regis saxoniae bibliothecarius, editio secunda, cum approbatione Rev. Administratoris Ecclesiastici per Superiorem Lusatiam, Lipsiae, Impensis Librariae Arnoldianae, MDCCCL.  



【聖アポローニアへの崇敬】

 聖アポローニアの聖遺物は、ローマのバシリカ・ディ・サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ (Basilica di Santa Maria in Trastevere) 近くの聖アポローニア聖堂に安置されていました。この聖堂は現在では存在せず、聖女の頭部はバジリカ・ディ・サンタ・マリア・イン・トラステヴェレに、両腕はローマのバジリカ・ディ・サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ (Basilica di San Lorenzo fuori le Mura) に、それぞれ移葬されています。

 聖アポローニアの歯はドイツ、ベルギー、ポルトガルなどあちこちの教会に安置されています。

 聖アポローニアは殉教の直前に歯を抜く拷問を受けたため、民衆の間では歯が痛いときに癒してくれる聖人であると考えられ、中世には「聖アポローニアの歯」と称する怪しげな薬が出回っていました。


【スルバランによる「聖アポローニア」】



(上) Francisco de Zurbarán, "Santa Apolonia", 1636, Óleo sobre lienzo, 116 cm × 66 cm, Museo del Louvre, París


 美術史上、聖アポローニアを描いた最も有名な作品は、フランシスコ・デ・スルバラン (Francisco de Zurbarán, 1598 - 1664) が 1636年に制作した油彩画でしょう。この作品は本来「憐れみの神父会」(Pères de la Miséricorde, Congregatio Presbyterorum a Misericordia, CPM) がセビジャに有するサン・ホセ聖堂(ラ・イグレシア・デル・セニョル・サン・ホセ・デ・ラ・メルセ・デスカルサ la iglesia del Señor San José de la Merced Descalza)にあった三翼祭壇画の一面です。この作品において、アポローニアは美しい花の冠を被り、右手に歯を挟んだやっとこ、左手にナツメヤシの葉を持っています。アポローニアが被る花の冠は「貞淑と思慮と清らかさ」(castitas, sobrietas atque munditia) を表し、「レゲンダ・アウレア」を出典とします。歯を挟んだやっとこはアポローニアのアトリビュート(聖人のアイデンティティを示す図像的要素)です。ナツメヤシの葉は殉教の栄冠を示します。この作品に描かれたアポローニアは若々しく、両頬には愛らしい赤みが差しています。

 この「聖アポローニア」は、同じ画家による作品「聖ルチア」と対を為していたと考えられています。二枚の絵は形状、大きさ共に同じであり、また「聖アポローニア」の姿勢は下描きの段階において「聖ルチア」と同じ構図であったことが、X線検査によって判明しています。スルバランの「聖アポローニア」はスルト元帥の手を経て、現在はルーヴル美術館に収蔵されています。「聖ルチア」はシャルトル美術館に収蔵されています。


(下) Francisco de Zurbarán, "Sainta Lucia", 1636, Óleo sobre lienzo, 116 cm × 68.5 cm, Musée des Beaux-Arts de Chartres




 エウセビオスの「教会史」においても、ヤコブス・デ・ヴォラギネの「レゲンダ・アウレア」においても、アポローニアは年長の女とされています。しかるにスルバランはアポローニアを若い女性として描いています。美術教育に関する資料を見ると、処女が永遠の若さと美しさを保つことを示すために、聖母マリアや処女殉教者たちを常に若く描くことが、当時の画家たちには求められていました。サン・ピエトロ聖堂のピエタの聖母が若すぎると指摘されたミケランジェロも、マリアは永遠の処女であるゆえにいつまでも若々しいと答えており、昔はそのように考える傾向があったことがうかがえます。

 女性が処女であれば実際に若さを長く保つのかどうか、筆者(広川)にはわかりませんが、マリアや殉教聖女たちの若さについて現代人にも分かりやすい解釈を施すならば、宗教をテーマにした作品において、人々は永遠の相の下に彫られ、描かれているのであって、作品の題材となる出来事が起こったときの実際の年齢は重要ではないといえます。年齢が重要でないからといって、敢えて改変する必要はないではないか、実際の年齢に描いても、あるいはさらに老成した年齢に描いても良いではないかという反論もあり得るでしょう。しかしながら宗教画の究極のテーマは「救い」すなわち「永遠の命」であって、「永遠の命」を目に見える人物像として表現するには、若々しい姿の方が適していることに異論を唱える人は少ないでしょう。


 この作品に使われている色彩には、17世紀前半にスペインで描かれた人物像ならではの特徴が見られます。すなわちスルバランは古代以来の三原色である白、赤、黒(註2)に、黄、緑を合わせた五色を使ってこの作品を描いています。アポローニアは 17世紀前半の女性の服装で描かれていますが、布の色は赤、緑、黄であり、「青」は使われていません。「聖ルチア」像についても同様のことがいえます。

 有史以前の古代から中世に至るまで、地中海文明圏の服飾に「青」が使用されることはありませんでした。当時の「青」には如何なる象徴性もなく、「青」を美しいと感じる人もなく、ギリシア語、ラテン語にはこの色を表す言葉さえありません。カトリック教会の典礼色はスルバランが使ったのと同じ五色(白、赤、黒、黄、緑)であり、ここにも「青」は含まれません。

 「青」はサン・ドニ聖堂のステンドグラスをきっかけに、フランス各地でステンドグラスやエマイユに使用されるようになり、次いで紋章と衣服に広まりました。イタリアとスペインでは茜(あかね)の染色業者が激しく抵抗しました(註3)が、やがては青が導入されました。

 ムリリョ (Bartolomé Esteban Murillo, 1617 - 1682) と同様に、スルバランも聖母のマントに「青」を使い始めています。しかしながら「聖アポローニア」においてスルバランは「青」を一切使用せず、聖女に17世紀の服装をさせつつも、色に関してはたいへん保守的な様式に基づいて描いています。実際、3世紀のアレクサンドリアにおいて青色の衣を着た人物がいたとは考えられないので、スルバランがアポローニアに青色の衣を着せなかったのは、服飾史の観点から正しい判断であったといえます。



註1 この節は少しわかりにくいですが、要するにヤコブスは前節を受けて話を進めており、アレクサンドリアのキリスト教徒に対する暴力的迫害が勃発する以前から、アポローニアは火に譬えられる神の愛によって既に焼かれていたこと、信仰の戦いの勝利者であったことを言っています。

 アポローニアの心は、いわば神の愛の火に焼かれる火刑囚でしたが、アポローニアの心には、囚人と対極にある自由人の安息がありました。またアポローニアの姿を見るだけでは、信仰の戦いに勝利した者の栄光をうかがい知ることはできませんでした。しかしながら迫害を受けるよりもずっと以前から、アポローニアは大いなる驚くべき信仰の戦いを戦っていました。その心は神の愛の火に焼かれ、信仰の戦いに勝利して栄光に輝いていました。それらの事実はアポローニアの心中のことであるゆえに余人にはわからず、燃える薪の中にアポローニアが飛び込んだときに、初めて外見的にわかる形で現れ出たのでした。

註2 現代人の目から見ると、白と赤と黒が「三原色」と考えられたのは奇妙に思えます。白はあらゆる色の光が混合した状態、黒は光が無い状態であって、いずれも色相環上に存在する「色」ではありません。しかしながら17世紀以前の人々は、「色は光である」という科学的知識を未だ持ち合わせていませんでした。「色は光である」「白と黒は色ではない」という科学的事実は、サー・アイザック・ニュートン (Sir Isaac Newton PRS MP, 1642 - 1726/7) が白色光をプリズムで分光して見せたことで、はじめて明らかになりました。

註3 当時の染色業界は色ごとに分かれていましたが、最も有力であったのは「赤」の染色業者たちでした。「コロラド」(colorado/-a 原意「色に染められた」)というスペイン語の形容詞は、今日でも「赤い」という意味です。


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