スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ 聖ペトロと聖家族のマリア修道女
Sœur Marie de Saint Pierre et de la Sainte Famille, 1816 - 1848




(上) スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ 聖ペトロと聖家族のマリア修道女


 スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ(聖ペトロと聖家族のマリア修道女 Sœur Marie de Saint Pierre et de la Sainte Famille, 1816 - 1848)は跣足カルメル会トゥール修道院に在籍した修道女で、瀆神と主日不遵守の償い大信心会、償いの礼拝姉妹会の創設者です。イエスの聖顔(la Sainte-Face)の信心が十九世紀のフランスに広まるにあたり、大きな功績があった人物として知られます。


【スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ 聖ペトロと聖家族のマリア修道女と、償いの信心会】

・誕生から修道生活の開始まで

 スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ(聖ペトロと聖家族のマリア修道女、以下マリア修道女)は、俗名をペリーヌ・エリュエール(Perrine Éluère)といい、1816年10月4日、ブルターニュの古都レンヌ(Rennes ブルターニュ地域圏イル=エ=ヴィレーヌ県)で、信仰深い両親のもとに生まれました。この両親からはペリーヌを含めて十二人の子供が生まれました。幼い頃に母を亡くしたペリーヌは父の手で育てられましたが、兄弟たちも次々に亡くなって、一人の男の子とペリーヌしか残りませんでした。

 ペリーヌは 1833年11月13日、十七歳になったばかりのときにトゥールのカルメル会に入会し、1841年6月8日に修道誓願を宣立して、スール・マリ・ド・サン・ピエール・エ・ド・ラ・サント・ファミーユ(Sœur Marie de Saint Pierre et de la Sainte Famille 聖ペトロと聖家族のマリア修道女)となりました。トゥールのカルメル会では聖心の信心が盛んで、マリア修道女は特にサンタンファンス(仏 la Sainte Enfance イエスの幼時)への信心に熱心でした(註1)。


・キリストとの交感

 1843年から 亡くなる年まで、マリア修道女はイエス・キリストとの交感(仏 communiations)を何度も経験しました。最初の交感は 1843年8月26日に起こりました(註2)。このときイエスはマリア修道女に対して、「我が名はあらゆるところで冒瀆されている。子供たちまでもが、冒瀆的な言葉でわたしを侮辱している」(Mon nom est blasphémé partout, et même les enfants m'outragent par le blasphème.)と言い、冒瀆の罪が聖心を貫く毒矢となっていると語りました。イエスはマリア修道女に対し、聖心に加えられた毒矢の傷を癒すために唱えるべき祈り(仏 la Flèche d'Or de la dévotion à la Sainte Face 聖顔信心の黄金の矢)を教え、償いの業となる幾つかの祈りを唱えるように、またそれらの祈りを必ず広めるように求めました。

 別の交感の際、キリストはマリア修道女に対し、償いの祈りが唱えられるせいで地獄に落ちる人の数が減って悪魔が怒っていることを伝え、「汝が闇に在るときに光となるように、また汝が戦う時に力となるように、我が聖心を汝に与えよう」(Je vous donne mon Cœur pour être votre lumière dans vos ténèbres et votre force dans vos combats.)と語り給いました。1843年11月24日、十字架の聖ヨハネの祝日に、聖体拝領を終えたマリア修道女はイエスと交感し、次の啓示を受けました。


      Jusqu'à présent je ne vous ai montré que peu à peu les dessein de mon Cœur, mais aujourd'hui je veux vous le découvrir en entier.    我が聖心に抱(いだ)く計画を、私はこれまで汝に少しずつ示してきた。だが今日は汝にすべてを示そう。
     La terre est couverte de crimes, et l'infraction des trois premiers commandements de Dieu a irrité mon Père.    地は罪に満ち、神が与え給うた戒めのうち、最初の三戒が守られていない。我が父はこのことに怒っておられる。
     Le saint Nom de Dieu blasphémé et le dimanche profané mettent le comble à la mesure d'iniquités.    神の聖なる名が冒瀆され(註3)、主日が汚(けが)されるならば(註4)、それらの不正に相応の恐ろしい不幸がもたらされよう。
     Ces péchés ont monté jusqu'au trône de Dieu, et provoquent sa colère, qui se répandra si l'on n'apaise sa justice. Dans aucun temps les crimes n'ont monté si haut.    これらの罪は神の御座に達し、御怒りを惹き起こしている。人が神の義[なる怒り]を宥めないならば、御怒りが止める術(すべ)無く溢れるであろう。罪がこれほど高くに達したことは、これまで一度も無かったのだ。
     Je désire, mais d'un vif désir, qu'il se forme une association bien approuvée et bien organisée pour honorer le Nom de mon Père.    我が父の聖名を誉め讃えるために、教会が認め、かつ充分に組織された会が結成されることを、わたしは心から願っているのだ。


 このようにしてマリア修道女はイエスから信心会の設立を命じられました。この信心会の働きを通して、イエスは大勢の罪びとを救いたいと考え給うたのでした。

 1843年12月7日に行われた交感により、マリア修道女はフランスが冒瀆的な罵りによってイエスの怒りを引き起こしていることを示されます。フランスは罵りの害毒によってイエスの憐みに傷を負わせ、聖心の血を涸れさせたため、イエスはもはやフランスに留まることはできないこと、これまでの憐みに替わって今後は想像もできないほど激しい怒りがフランスを満たすことを知らせ給いました。イエスの言葉に恐れをなしたマリア修道女が「一つだけ尋ねさせてください。御身が求め給う償いを人々が為すならば、フランスを再び赦してくださいますか」と尋ねたところ、これに対してイエスは、「もう一度だけ赦そう。ただし心に留めるが良い。罵りによる冒瀆の罪はフランスじゅうに広まり、全員がこの罪を犯しているのだから、フランスじゅうの町で全員が償いの業を為さねばならない。この償いを為さざる者は、災いである。」さらに「人が償いの業に励むならば、神の御手による裁きを避けることができる。神は人々を憐みたいと望んでおられるのだ」とおっしゃいました。




(上) 「主の聖名は讃えられよ」(羅 SIT NOMEN DOMINI BENEDICTUM)と記されたロザリオの十字架 ロザリオの全長 465 mm 当店の商品です。


 1844年2月2日の交感の際、イエスは創設されるべき償いの信心会の望ましい姿について、次のように語り給いました。すなわちローマに創設された償いの信心会は罵りの瀆神の償いを目的としているが、フランスの信心会は主日の聖別も目的に加えるべきであること。フランスに創設されるべき償いの信心会は、聖ミカエル聖ルイ聖マルタンを守護聖人とすべきこと。信心会の名称を「神の聖名の守護者会」(仏 Association des défenseurs du Saint Nom de Dieu)とすべきこと。信心会の会員は主の祈りと天使祝詞と栄唱を毎日唱え、三人の守護聖人を讃えて執り成しを願うべきこと。会員は日曜日に全的償い(仏 une réparation entière)を為すべきこと。片面に「主の聖名は讃えられよ」(羅 SIT NOMEN DOMINI BENEDICTUM)、もう片面に「悪魔よ、去れ」(羅 VADE RETRO SATANA)と刻んだ十字架を、各会員が身に着けるべきこと。瀆神的な罵りを耳にしたらこれらの言葉を唱えるべきこと。さらに、サタンがこの信心会に激しく怒って敵対するが、信心会を守るために天使たちが戦い、悪魔は敗北すること。イエスは聖櫃(せいひつ 聖体を納めてある箱)から、マリア修道女の心にさらに語り掛け給いました。


      Ô vous qui êtes mes amis et mes fidèles enfants, voyez s'il est une douleur semblable à la mienne ! Mon Père est outragé, mon Église est méprisée : ne se lèvera-t-il personne pour défendre ma cause ? Je ne puis plus rester c au milieu de ce peuple ingrat ; des torrents de larmes coulent de mes yeux : ne trouverai-je personne pour les essuyer en faisant réparation à la gloire de mon Père et en demandant la conversion des coupables !     スール・マリの魂は純粋で無垢のままでしたが、それはスールの生き方がこの世に在りながらもここに無きが如くであったからです。スールが本院に入会して以来、意図的な過ちを犯すのを見たことがありません。これは本院の修道女全員による証言です。
         
 イエスは後に次のようにも語り給いました。
         
     La France est devenue hideuse aux yeux de mon Père ; elle provoque sa justice : si on ne s'efforce d'obtenir miséricorde, elle sera châtiée.    我が父がご覧になるに、フランスは醜くも忌まわしい姿になり果てた。フランスは神の怒りを惹き起こしている。もしも自制して憐みを得ないならば、フランスは罰を受けよう。




(上) Hans Memling, "Diptychon mit Johannes dem Taufer und der Heilige Veronika, rechter Flügel", um 1470, Öl auf Holz, 32 × 24 cm, The National Gallery of Art, Washington D. C.


 救い主が受難し給うた際、その聖顔には罵りの言葉が投げつけられました。十九世紀のフランスでもそれとまったく同様に、救い主の聖顔に対して瀆神的な罵りが投げつけられています。1845年になってもマリア修道女は数度の交感を行い、信心会の償いが主の聖顔に向かうべきことをイエスから示されました(註5)。

 聖顔に関して同時期に起こった出来事としては、1849年1月6日、主のご公現の祝日に、ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂でヴェロニカの布が公開されたとき、拝観に集まった大勢の信徒たちの目の前で、布に転写された救い主の聖顔が突然鮮明度を増し、しかも立体的に浮き出て、救い主の顔を完全に再現するという奇跡が起こりました。また悔悛と償いに関しては、1846年にラ・サレットの聖母が出現し、フランスをはじめとする世の人々が瀆神的言辞を吐き続け、主日を汚し続けるならば、恐ろしい災厄がもたらされることを予告しました。ラ・サレットの聖母が語り給うた内容は、イエスが年来マリア修道女に命じ続け給うたことと重なっていました。



・信心会の設立と、結核患者の奇蹟的治癒

 イエスとの交感が始まった 1843年、マリア修道女はトゥール大司教のモルロ師(Mgr. François-Nicolas-Madeleine Morlot, 1795 - 1862)に面会して、イエスの示された祈りを広めてくれるように頼みました。当初は真剣に耳を傾けて貰うことができませんでしたが、マリア修道女は諦めずに訴えを続けました。

 1847年になって、教皇ピウス九世が発した7月27日及び30日の使徒的書簡(小勅書)により、フランス北東部サン=ディジエ(Saint-Dizier グラン・テスト地域圏オート=マルヌ県)のサン=マルタン・ド・ラ・ヌ教会(l'Église Saint-Martin de la Noue)を本部教会とする「瀆神と主日不遵守の償い大信心会」(仏 l'Archiconfrérie Réparatrice des blasphèmes et de la profanation du Dimanche)がようやく設立されました。

 マリア修道女は自身が経験する交感が真にイエスから発することを示す徴(しるし)として、重い病気の人を癒してくださるよう、キリストに祈りました。この祈りの結果、1848年4月1日、アラスの若い女性が信心会のノヴェナによって奇蹟的治癒を得ています。サン=マルタン・ド・ラ・ヌ教会の主任司祭の報告を下に示します。


      L'Archiconfrérie vient d'obtenir une faveur qu'elle regarde comme très-précieuse. Le Ciel s'est prononcé de nouveau. Nous avions ici une jeune personne malade depuis vingt-sept mois d'un anévrisme fortement caractérisé. La maladie était arrivée au point que les médecins en désespéraient entièrement. La malade était toute déformée : la partie gauche de la poitrine était enfoncée ; le cœur singulièrement distendu, descendait au-dessous des côtes; les douleurs étaient continuelles et très-fortes.     つい先ごろ得られた恩寵を、償いの信心会ではこの上なく貴重な出来事と考えている。天の力が新しく顕れたのだ。極めて典型的な動脈瘤に二十七か月の間苦しむ女性患者があり、医師にもまったく手の施しようが無くなった。病人の身体は全くゆがんでしまっていた。胸の左側は落ちくぼみ、心臓は拡張して脇の下部へと下垂し、絶えず非常に強い痛みがあった。
     Nous avons fait une neuvaine... Entre onze heures et minuit, la malade s'est endormie. Elle s'est réveillée à cinq heures, s'est levée à six heures et demie, a assisté à une première Messe, a déjeuné, est revenue à la grand'Messe, etc., sans ressentir aucune fatigue, et s'est couchée à neuf heures et demie. Son corps se trouva, dès le premier jour, dans un état parfaitement normal. Depuis les douleurs ne sont point revenues... Ceci se passait le 12 mars dernier... Nous avions demandé cette guérison comme une preuve que le bon Dieu approuvait notre œuvre réparatrice.    我々はノヴェナを行った。病人は11時半から真夜中の間に眠り、5時に目覚めた。6時半に起き上がって朝のミサに与(あずか)り、昼食を食べてから戻って大ミサに与ったが、その間まったく疲れを感じることなく、9時半に就寝した。この女性患者の体は、ノヴェナの初日にまったく正常になり、以来痛みは再発していない。これは先の3月12日の出来事である。神が我らの信心会を認め給う徴(しるし)として、我らはこの癒しを求めたのである。


・マリア修道女の帰天

 マリア修道女は1848年7月8日に亡くなり、トゥールのサン=ジャン=デ=ク墓地(le cimetière Saint-Jean-des-Coups)に埋葬されました。死因は肺結核で、三十一歳の若さでした。マリア修道女の墓所は聖徳を慕って訪れる人が絶えず、マリア修道女の執り成しによる奇蹟を報告する人たちもありました。マリア修道女の遺体は 1857年11月13日にカルメル会の墓地に移葬されました。



【マリア修道女の聖徳に関する記録と証言】

 幼時から信仰深かったペリーヌ・エリュエールは修道生活への召命を感じ、1839年、トゥールのカルメル会に入会しました。トゥールのカルメル会女子修道院長は、マリア修道女の聖徳について次のように証言しています。

      Nous pensons avec fondement que cette âme si pure a conservé la blancheur de son innocence, car elle a vécu dans le monde comme n'y étant pas et, depuis son entrée dans notre maison, nous ne lui avons pas vu commettre de faute volontaire : c'est le témoignage de toute la communauté.     スール・マリ(マリア修道女)の魂は純粋で無垢のままでしたが、それはスールの生き方がこの世に在りながらもここに無きが如くであったからです。スールが本院に入会して以来、意図的な過ちを犯すのを見たことがありません。これは本院の修道女全員による証言です。


 マリア修道女は 1843年になると、世に蔓延する神への不敬ゆえにもたらされる災厄を予見するようになり、しばしば涙を流して滅びゆく魂を憐れむようになりました。1848年7月25日の日付があるカルメル会トゥール修道院の回覧用書簡によると、マリア修道女は生涯の最後に病床に伏した際、次のように語りました。

      Oh ! que les rigueurs de la justice divine sont terribles ! Mon Dieu ! que vos desseins sont rigoureux ! si l'on savait ce que j'endure ! Ô mon divin Époux, que vous m'êtes amer, vous qui êtes si doux !    神の峻烈な義は、なんと恐ろしいことか。神よ。御身の懐(いだ)き給う企ての、何と厳しいことでしょう。私が耐えている苦しみが、人に分かりさえすれば。神なる夫よ。かくも優しきはずの御身が、これほど辛く私に当たり給うとは。


 病苦のただ中にあるマリア修道女は、神の計画が成就されるために、自身が神に捧げられたのだと考えました。上記回覧用書簡は神に対するマリア修道女の返答が次のように記録されています。

      Oui, répondait-elle, et je ne m'en repens pas. Mon Dieu, je veux tout ce que vous voudrez, autant que vous le voudrez, et s'il le faut, je consens à souffrir jusqu'à la fin du monde.    マリア修道女は答えた。「はい。私に悔いはありません。神よ。私は御身が望み給うものを望みます。私が世の終わりまで苦しむことを御身が望まれるのであれば、それでも構いません。」


 マリア修道女の臨終の言葉は、「イエスよ。マリアよ。ヨセフよ。主イエス、来たり給え。主の聖名は誉め讃えられよ」(Jésus, Marie, Joseph ! Venez, Seigneur Jésus ! Sit nomen Domini benedictum !)でした。



【イエスへの償いを目的とする他の信心会や修道会】

 「瀆神と主日不遵守の償い大信心会」創設の翌年に当たる 1848年、同信心会が本部を置くサン=ディジエに、ラングル司教の承認と教皇の認可により、「償いの礼拝姉妹会」(les Sœurs de l'Adoration Réparatrice)が設立されました。「償いの礼拝姉妹会」は信心会と同じ考えに基づく観想修道会で、贖罪と和解を担う聖体を一日中顕示して、「イエスによって、イエスにおいて、イエスとともに」(仏 par Jésus, en Jésus et avec Jésus)世の罪を償うことを目的としています。


 マリア修道女と同女が勧めた償いの信心については、同女の没後も記録文書が保管されました。1874年にトゥール大司教となったコレ師(Mgr. Charles Théodore Colet, 1806 - 1883)が 1876年にそれらの文書の公表を許可し、聖顔への信心を勧奨したことで、トゥールにも信心会が設けられ、フランス各地及びベルギー、オランダ、アメリカに広まってゆきました。1885年10月25日、教皇レオ十三世(Leo XIII, 1810 - 1878 - 1903)は「聖顔の大信心会」(l'Archiconfrérie de la Sainte-Face)を正式に認可しました。

 1890年代にはリジューのテレーズが聖顔の信心に関わる詩や祈りを書いて、この信心を広めるのに貢献しました。1930年代には無原罪の御宿り修道女会(西 las Hijas de la Inmaculada Concepcion de Buenos Aires, F. I. C.)のマリア・ピエリーナ・デ・ミケーリ修道女(Maria Pierina De Micheli, 1890 - 1945)がトリノの聖骸布の顔を聖顔の信心に結び付け、1940年にはトリノの聖顔に基づく初めてのメダイユが製作されました(註6)。




註1 聖心とサンタンファンスは信心において密な関係にある。マルグリット=マリは1689年6月17日の第九十八書簡で、地上で辱めを受けたキリストが地上の君主に償いを求めていると述べた後、キリストが語った言葉を次のように引用している。和訳は筆者(広川)による。

     Fais savoir au fils aîné de mon sacré Cœur – parlant de notre roi – que, comme sa naissance temporelle a été obtenue par la dévotion aux mérites de ma sainte Enfance, de même il obtiendra sa naissance de grâce et de gloire éternelle par la consécration qu'il fera de lui-même à mon Cœur adorable, qui veut triompher du sien, et par son entremise de celui des grands de la terre.    わが聖心の長子(訳注 ルイ十四世)に伝えよ。王はサンタンファンスの功徳によって儚(はかな)きこの世に生まれ出でたのであるが、崇敬されるべきわが聖心に自らを捧げるならば、永遠の恩寵と栄光のうちに生まれるを得るであろう。わが聖心は王の国を支配し、また王を仲立ちにして地上の諸君主の国々を征服することを望むからである。
     Il veut régner dans son palais, être peint dans ses étendards et gravé dans ses armes, pour les rendre victorieuses de tous ses ennemis, en abattant à ses pieds ces têtes orgueilleuses et superbes, pour le rendre triomphant de tous les ennemis de la sainte Église.
   わが聖心は王の宮殿にて統べ治め、王の軍旗に描かれ、王の紋章に刻まれることを望む。そうすれば王はすべての敵に勝利し、驕り高ぶる覇者たちの頭をその足下へと打ち倒し、聖なる教会のすべての敵を征服するであろう。
     (Marguerite-Marie d'Alacoque, Lettre IIC, 17 juin 1689, Vie et œuvres, vol. II, Paray-le-Monial)   (「マルグリット=マリの生涯と著作 第二巻」より、1689年6月17日付 「第九十八書簡」)

 これに関して同時代に見られた宗教界の動きとしては、1843年にパリでサンタンファンス信心会(仏 l'Œeuvre de la Sainte-Enfance)が設立されている。


註2 一回目の交感が起こったのと同じ月(1843年8月)の8日にはクレゴリウス十六世が教皇勅書を発し、神の聖名冒瀆に対する償いの信心会がローマで認可され、免償の特典を教皇から与えられている。この信心会の守護聖人は聖ルイであった。同年同月、マリア修道女が第一回目の御出現を受ける数日前には、レオン・パパン=デュポン(Léon Papin-Dupont, 1797 - 1876)がカルメル会とは無関係に、神の聖名を讃える祈りをトゥールの各修道会に広めている。この祈りも聖ルイの執り成しによるものであった。キリストに対して加えられた不正義を償おうとする動きが、この時代のカトリック教会全体に関わる信仰上の運動であったことがわかる。


註3 ここで問題視されているブラスフェーム(仏 blasphémé 冒瀆)とは、罵りの言葉に神の名を持ち出すことを指している。

 承服し難い事に対して日本語では「糞っ!」と言うが、フランス語でも「メルド」(仏 merde 排泄物)と罵る。人を罵倒する「ゴミ野郎!」は、英語では「アスホウル!」(英 asshole 肛門)と言う。これらの例からも分かるように、どこの国の言語でも、罵(ののし)る際には無価値な物や蔑(さげす)まれる物が引き合いに出される。

 しかるに欧米語の下品な罵りには、神やイエス・キリストの名を出すなど、しばしば宗教的な表現が使われる。これは神やイエス・キリストを無価値な物、蔑まれる物と同じように扱っているのであって、忌むべき瀆神(とくしん 神に対する不敬)と考えられる。罵る際に引き合いに出されるのは軽視される物だが、神やイエス・キリストをそのような物と同列に置くことは許されない。

 実際、モーセの十戒の第二戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(「出エジプト記」二十章七節 新共同訳)とあり、ヘブライ語の聖書ではこの戒めを守るために、母音記号を付さずに子音のみの四文字で神の名を表記する。この四文字をギリシア語でテトラグランマトン(希 Τετραγράμματον)と呼ぶ。罵る際に神やイエス・キリストの名を口にするのは、ヘブライ語に限らずどの言語の場合でも、十戒の第三戒に触れる宗教的な罪と考えられている。


註4 主日を汚すとは、日曜日に働くことを指している。

 「創世記」は一章において六日間の天地創造を記述した後、二章一節から三節で安息日の由来を次のように説明している。新共同訳によって該当箇所を引用する。
       
   1.    天地万物は完成された。
   2.    第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
   3.    この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。
「創世記」二章一節から三節 新共同訳
       
 「創世記」は第七の日に神が安息し給うたと言っているだけだが、モーセの十戒において、安息日の遵守は第三戒に定められた宗教的義務である。新共同訳によって該当箇所を引用する。
     
   8.    安息日を心に留め、これを聖別せよ。
   9.    六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
   10.    七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
   11.    六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
「出エジプト記」二十章八節から十一節 新共同訳

 天地創造が六日で行われた後、第七日に神が安息し給うたという旧約聖書の記述は、一週間が七日から成る根拠である。一週間は日曜日から始まるから、第七の日は土曜日である。土曜日は神が休み給うた本来の安息日で、ユダヤ教では今日でも土曜日を安息日としている。しかるにイエス・キリストは安息日の前日である金曜日に十字架に架けられ、受難の当日を含めて数えて三日目、つまり日曜日に復活し給うた。キリスト教会はイエスの復活を祝い、安息日を土曜日から日曜日に変更し、この日を主日(しゅじつ 主の日)と呼ぶようになった。このような事情で、キリスト教文化圏、及びそれに倣う文化圏では、日曜日が休日(安息日)となっている。

 上に引用した通り、モーセの十戒の第三戒は安息日の労働を禁じている。旧約聖書は新約時代になっても破棄されたわけではないので、安息日の労働を禁じる第三戒はキリスト教徒にとっても効力を有する。それゆえ安息日である日曜日に労働することは、宗教的に見れば罪を犯すことであると考えられた。キリスト教国といえども現代の社会では安息日を厳格に守ることは不可能だが、カトリックが社会的影響力を強めた十九世紀のフランスでは、宗教的保守派によって安息日の遵守が叫ばれた。


註5 伝承によると、十字架を担いでゴルゴタへの道をたどるイエスに、聖女ヴェロニカが布を差し出した。イエスがその布で汗を拭いたところ、イエスの聖顔が奇蹟によって布に転写された。この聖遺物はギリシア語でマンディリオン(希 Μανδύλιον)、ラテン語でスーダーリウム(羅 SUDARIUM 汗拭き、ハンカチ)またはウェロニカエ・ウェールム(羅 VERONICÆ VELUM ヴェロニカの布)と呼ばれ、ヴァティカンのサン・ピエトロのバシリカをはじめ、数か所の聖堂や修道院に伝えられる。

 イエスを十字架で苦しめたことへの償いと贖罪の業を行う信心において、「聖顔」への信心は大きな意味を持つ。サントム・ド・トゥール(仏 Le saint homme de Tours トゥールの聖者)と呼ばれる尊者レオン・パパン・デュポンは、アリア修道女と全く同時期に聖顔への信心を広めるべく努めたことにより、聖顔の使徒(仏 l'apôtre de la Sainte Face)とも呼ばれている。1876年にデュポンが亡くなると、その居宅はトゥール大司教区によって買い取られて改装され、聖顔の小礼拝堂(仏 l'Oratoire de la Sainte Face)とされた。


註6 このメダイユは一方にトリノの聖骸布をあしらい、「主よ、聖顔の輝きを我々に向け給え」(羅 ILLUMINA DOMINE VULTUM TUUM SUPER NOS. 「詩編」六十七編二節)との祈りを刻む。もう一方の面にはイオター・エータ・シグマの文字がある聖体が輝き、「主よ、我らの許に留まり給え」(羅 MANE NOBISCUM, DOMINE.)と刻まれている。




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