姦淫を犯した女の赦免
pericope adulterae




(上) Lucas Cranach der Jüngere, „Jesus und die Ehebrecherin“, nach 1532, Öl auf Kupferplatte, 123 x 84 cm, Ermitage, Sankt Petersburg



 「姦淫を犯した女」(羅 ADULTERA)の赦免は、「ヨハネによる福音書」八章冒頭に記録されている出来事です。トーラー(律法)によると、姦淫を犯した女は石打ちで殺されることになっていましたが、イエスは女を赦し給いました。

 本稿ではこの物語が有する形式上の特異性を概説するとともに、物語の内容の正統性について検討します。


【トーラーにおける姦淫の罰】

 「レビ記」二十章、及び「申命記」二十二章には次の規定が見られます。日本語テキストを新共同訳により引用します。


   「レビ記」 20: 10
     
      人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。
     
   「申命記」 22: 22 - 27
     
      男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。
      ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
      もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これは、ある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。男が野で彼女に出会い、婚約している娘は助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。

 トーラーにおいて婚約は結婚と同様の重みを持ち、婚約者がいる処女は人妻と同様と看做されました。それゆえ婚約者がいる娘を犯した男は、隣人の妻を犯した場合と同様に死刑になりました。


【ヨハネ伝における「姦淫を犯した女」のペリコペー】

 Illuminatio ex codice Egberti

(上) エグベルトゥス写本の挿絵。イエスは地面に「塵が塵を責めている」(羅 TERRA TERRAM ACCUSAT)と書いておられます。


 旧約聖書及び新約聖書の各巻は、それぞれ幾つもの内容的まとまりによって構成されています。そのような内容的まとまりを、ギリシア語で「ペリコペー」(希 περικοπή 「断片」の意)と呼んでいます。「姦淫を犯した女」の逸話は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には収録されず、「ヨハネによる福音書」だけに含まれているペリコペーです。

 「姦淫を犯した女」のペリコペーは、「ヨハネによる福音書」七章五十三節から八章十一節に当たります。当該箇所を、ドイツ聖書協会のネストレ・アーラント二十六版、及び新共同訳で引用します。


       NA 26    新共同訳
     「ヨハネによる福音書」 七章
   53    Καὶ ἐπορεύθησαν ἕκαστος εἰς τὸν οἶκον αὐτοῦ,    人々はおのおの家へ帰って行った。
           
     「ヨハネによる福音書」 八章
   1    Ἰησοῦς δὲ ἐπορεύθη εἰς τὸ Ὄρος τῶν Ἐλαιῶν.     イエスはオリーブ山へ行かれた。
   2    Ὄρθρου δὲ πάλιν παρεγένετο εἰς τὸ ἱερόν, καὶ πᾶς ὁ λαὸς ἤρχετο πρὸς αὐτόν, καὶ καθίσας ἐδίδασκεν αὐτούς.    朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
   3    ἄγουσιν δὲ οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι γυναῖκα ἐπὶ μοιχείᾳ κατειλημμένην, καὶ στήσαντες αὐτὴν ἐν μέσῳ    そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
   4    λέγουσιν αὐτῷ, Διδάσκαλε, αὕτη ἡ γυνὴ κατείληπται ἐπ' αὐτοφώρῳ μοιχευομένη:    イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
   5    ἐν δὲ τῷ νόμῳ ἡμῖν Μωϋσῆς ἐνετείλατο τὰς τοιαύτας λιθάζειν: σὺ οὖν τί λέγεις;    こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
   6    τοῦτο δὲ ἔλεγον πειράζοντες αὐτόν, ἵνα ἔχωσιν κατηγορεῖν αὐτοῦ. ὁ δὲ Ἰησοῦς κάτω κύψας τῷ δακτύλῳ κατέγραφεν εἰς τὴν γῆν.     イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
   7    ὡς δὲ ἐπέμενον ἐρωτῶντες αὐτόν, ἀνέκυψεν καὶ εἶπεν αὐτοῖς, Ὁ ἀναμάρτητος ὑμῶν πρῶτος ἐπ' αὐτὴν βαλέτω λίθον:    しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
   8    καὶ πάλιν κατακύψας ἔγραφεν εἰς τὴν γῆν.    そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
   9    οἱ δὲ ἀκούσαντες ἐξήρχοντο εἷς καθ' εἷς ἀρξάμενοι ἀπὸ τῶν πρεσβυτέρων, καὶ κατελείφθη μόνος, καὶ ἡ γυνὴ ἐν μέσῳ οὖσα.    これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
   10    ἀνακύψας δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτῇ, Γύναι, ποῦ εἰσιν; οὐδείς σε κατέκρινεν;     イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
   11    ἡ δὲ εἶπεν, Οὐδείς, κύριε. εἶπεν δὲ ὁ Ἰησοῦς, Οὐδὲ ἐγώ σε κατακρίνω: πορεύου, [καὶ] ἀπὸ τοῦ νῦν μηκέτι ἁμάρτανε.    女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


【聖書各巻を構成するペリコペー配列の規則性、及び規則性に背反するペリコペーの扱い】

 聖書の各巻は多数のペリコペーで構成されているわけですが、各巻に含まれるペリコペーの数には規則性があります。またそれらのペリコペーは内容の対称性に従って配列されています。すなわち「創世記」から「ヨハネの黙示録」に至る各巻の編集者は、旧約、新約を通して変わらない厳密な様式に従って多数のペリコペーを配列し、聖書を現在ある姿に作り上げています。

 聖書の古写本には、他の写本に無いペリコペーを含むものがあります。写本全体の内容の対称性を検証した場合、他の写本に無いペリコペーは写本全体の対称的構成にうまく当てはまりません。また他の写本に無いペリコペーを含む異本は、当該のペリコペーを収録した結果、ペリコペーの数が変則的になっています。そのような場合、当該のペリコペーは正典の内容から排除されるべき異物の可能性があります。

 書物全体の対称的構成にうまく当てまらなかったり、その書物を構成するペリコペーの数を不規則にしたりするゆえに疑義を持たれながらも、その内容の正統性に問題が無く、さらに古い写本の幾つかに含まれているゆえに、現行の聖書から排除されていないペリコペーが、少数ながら存在します(註1)。「ヨハネによる福音書」七章末尾から八章冒頭にある「姦淫を犯した女」の逸話(ヨハネ 7: 53 - 8: 11)は、そのようなペリコペーのひとつです。



【「姦淫を犯した女」のペリコペーの内容的正統性】



(上) ウィリアム・トーマス・フライによる初期のスティール・エングレーヴィング レンブラント 「姦淫を犯した女」 150 x 120 mm 1830年代 当店の商品です。


 「姦淫を犯した女」のペリコペーにおいて、イエスはなぜ女を赦免し給うたのでしょうか。ここでは同一の事件に関する異なる面からの解釈として、ヒッポのアウグスティヌスの説と、ロンドン大学の J・ダンカン・M・ダレット教授の説を取り上げます。


1. カリタース(慈愛)に基づくアウグスティヌスの説

 内容に関して見ると、「姦淫を犯した女」のペリコペーは聖書が説く教えと矛盾が無いだけでなく、宗教的な深みがあり、正典福音書の内容にふさわしいといえます(註2)。

 ヒッポのアウグスティヌスは「デー・アドゥルテリーニース・コンユギイース」(羅 "De Adulterinis Conjugiis" 「不貞の妻たちについて」)の第六章五節、及び第七章六節において、次のように論じています。日本語訳は筆者(広川)によります。文意が通じやすいように補った訳語は、ブラケット [ ] で示しました。


   Augustini Hipponensis liber "DE ADULTERINIS CONJUGIIS", caput VI, sectio V
         
     Reconciliatio post adulterium cum conjuge resipiscente quam conveniens christiano.    姦通を犯した後で、悔悟する妻と和解することが、キリスト教徒である男性に如何にふさわしいか。
         
     Quod autem tibi durum videtur, ut post adulterium reconcilietur conjugi conjux; si fides adsit, non erit durum. Cur enim adhuc deputamus adulteros, quos vel Baptismate ablutos, vel poenitentia credimus esse sanatos?    次に、姦通があった後に妻が配偶者と和解するのは、汝には難しく思われよう。[しかし、汝に]信仰があるならば、難しくはない。なぜならば、我々がある人々について、その者たちが洗礼で浄められ、あるいは悔い改めによって癒されていると信じるのであれば、その者たちが未だ穢れている(註3)と考える理由があるであろうか。
         
     Haec crimina in vetere Dei lege nullis sacrificiis mundabantur, quae Novi Testamenti sanguine sine dubitatione mundantur. et ideo tunc omni modo prohibitum est ab alio contaminatam viro recipere uxorem; quamvis David Saulis filiam, quam pater ejusdem mulieris ab eo separatam dederat alteri, tanqam Novi Testamenti praefigurator sine cunctatione receperit (II Reg. III, 14):    神の旧き法(のり)において、この罪は如何なる犠牲を以ても浄められなかったが、新しき契約の血によるならば、疑いを残さず浄められるのである。それゆえ他の男によって汚された妻を受け取る(註4)ことは、かつては如何なる場合にも禁じられていた。 ― ただしサウルは娘をダヴィデと別れさせ、一旦他の男に与えたが、ダヴィデはその娘とためらうことなく再婚した。ダヴィデによるこの行為は、新約の前表である。(「列王記」三章十四節)(註5)
         
     nunc autem posteaquam Christus ait adulterae,    さて、キリストはこれらの事があった後に、姦淫の女に対し、次のように言い給う。
        Nec ego te damnabo; vade, deinceps noli peccare;       「わたしもまた、あなたを責めない。行きなさい。これからは罪を犯さないように。」
         
     quis non intelligat debere ignoscere maritum, quod videt ignovisse Dominum amborum, nec se jam debere adulteram dicere, cujus poenitentiis crimen divina credit miseratione deletum?    主は夫の主であり、妻の主である。その主が、姦淫を犯した女を赦し給うのだ。また妻が姦淫を犯しても、悔悟により主の憐みが働いて、妻の罪は赦されているのだから、今やもう妻を不純の女と呼んではいけない。これは誰もが理解できることである(註6)。
         
         
   Augustini Hipponensis liber "DE ADULTERNIS CONJUGIIS", caput VII, sectio VI
         
     Mariti saevientes in uxores adulteras, cum sint et ipsi adulteri.    自身も不貞でありながら、不貞の妻に向かって怒り狂う夫たち
         
     Sed hoc videlicet infidelium sensus exhorret, ita ut nonnulli modicae fidei vel potius inimici verae fidei, credo metuentes peccandi impunitatem dari mulieribus suis, illud quod de adulterae indulgentia Dominus fecit, auferrent de codicibus suis :     しかるに不信仰者たちの感覚は、明らかに、これを忌避する。その結果、堅固ならざる信仰を持つ若干の者たち、いやむしろ真の信仰に敵する者たちは、罪の罰を受けなくてもよいと妻たちが考えるようになることを恐れているのである(註7)。[妻を赦さないならば、]姦淫の女の赦しに関して主が為し給うたことを、彼らは[福音書の]写本から除去することになる。
     quasi permissionem peccandi tribuerit qui dixit, Jam deinceps noli peccare; aut ideo non debuerit mulier a medico Deo illius peccati remissione sanari, ne offenderentur insani.    [すなわち、]「これからは罪を犯してはならない」と言い給うた御方が、まるで罪を犯す許可を与えたかの如くである。あるいは病人たちが怒るといけないから、[かの]女が神という医師に罪を赦され、癒されてはいけないという如くである(註8)。
         
     Neque enim quibus illud factum Domini displicet, ipsi pudici sunt, et eos severos castitas facit: sed potius ex illo sunt hominum numero, quibus Dominus ait,    主の為し給うたことを喜ばない者たちは、[自身が]高潔な人物であるわけではない。また貞潔な人柄ゆえに厳格なわけでもない。むしろ彼らは主が[次のように]語り掛け給うた者たちのうちに数えられる。
      Qui sine peccato est vestrum, prior in eam lapidem jaciat.    「あなたがたのうち罪の無いものが、最初にこの女に石を投げよ。」
         
     Nisi quod illi conscientia territi recesserant, et temptare Christum atque adulteram persequi destiterunt (Joan. VIII, 7-11); isti autem et aegroti medicum reprehendunt, et in adulteras adulteri saeviunt:     良心によって恐れを抱いた彼の者たちは退いて、キリストを試すこと、並びに姦淫の女を責めることを止めたのであるが、もしもそうでなければ、この者たちは病に罹っていながら医者を責め、自ら姦淫を犯していながら姦淫の女に向かって怒り狂うのである。
     quibus si diceretur, non quod illi audierunt, Qui sine peccato est quis enim sine peccato? sed, Qui sine isto peccato est, prior in illam lapidem mittat; tum vero forsitan cogitarent, qui indignabantur, quod adulteram non occiderant, quanta illis Dei misericordia parceretur, ut adulteri viverent.    このような者たちに向かって、もしも次のように言われれば、すなわち彼らが聞いた「罪が無い者は…」という言葉ではなく、― というのも、罪の無い者など居るであろうか ―、「この罪を持たない者が、この女に最初に石を投げよ」と言われれば、その場合には、人々が姦淫の女を殺さなかったことを憤っていた者たちも、自分たちに注がれる神の恵みを恐らく知るであろう。すなわち神は、姦淫を犯した者たちが死なずに済むように、その憐みによって、かくも多くのことを赦してくださっているのである。


 上記引用箇所において、アウグスティヌスはキリスト教の本質であるカリタース(愛)を支点として、議論を進めています。アウグスティヌスの指摘は全く正鵠を射ており、「姦淫を犯した女」のペリコペーにおける聖霊の内証が、明示されているようにさえ感じられます(註11)。




(上) エドワード・ヘンリー・コーボウルド作 「姦淫を犯した女」 ヨハネ福音書に基づくアンティーク・エングレーヴィング 249 x 194 mm 1854年 当店の商品です。


2. トーラーの解釈に基づく J・ダンカン・M・ダレット教授の説

 上の引用個所においてアウグスティヌスが論じるように、ヨハネ伝が伝える「姦淫を犯した女」のペリコペーはキリスト教の精神によく合致しています。それでは旧約聖書との整合性に関してはどうでしょうか。主イエスは姦淫の女を赦し給いましたが、女の赦免はトーラー(律法)の規定に抵触しないのでしょうか。

 ロンドン大学のダレット教授(J Duncan M Derrett, 1922 - 2012)はインドから中東、アフリカ地域の法制度の研究者として知られます。ダレットは「ニュー・テスタメント・スタディーズ」1965年第十号に「新約聖書における法 ― 姦淫を犯した女の物語」("Law in the New Testament : The Story of the Woman Taken in Adultery")と題する論文を発表しました(註12)。

 ダレット教授によると、姦淫の女のペリコペーにおいてイエスは権威あるラビとして意見を求められ、律法に関する深い知識に基づき的確な回答を与えています。すなわち律法によれば、姦淫罪が成立するためには、二名以上の成人男子が現場を目撃し、証言する必要があります。しかるに合意の上で姦淫罪を犯す当人たちは当然のことながら他人に見られない時と場所を選びますから、性行為中に偶然に発見される確率は極めて低いはずです。したがって証言者たちが現場を目撃するためには、おそらく妻に疑念を持った夫に依頼され、不法な性行為が行われるはずの現場を隠れた場所から観察しなければなりません。当該のペリコペーにおいてイエスの許(もと)に引き立てられてきた女も、そのような状況で捕らえられたと思われます。

 しかしながら、その場合、夫も罪を免れないことになります。なぜならば、妻が姦淫を犯そうとしていることを察知したのであれば、夫は事前にそれを阻止すべきであって、妻を死罪へと陥れるべきではないからです。妻が姦淫を犯そうとしていることを知りつつも泳がせて、死罪となるはずの告訴を為したのであれば、夫は離婚の場合に得られない妻の財産を狙ったと看做されても仕方がありません。

 夫の依頼を受け、隠れたところから性行為を目撃した証言者たちの行為にも、大きな問題があります。なぜならば、不法な性行為が行われようとしていることを知りながら、これを敢えて阻止しなかった証言者たちは、夫の共犯者になるからです。


 姦淫の女のペリコペーにおいて、イエスは二度、地面に言葉を書き給いました。ダレット教授によると、イエスが一度目に書き給うたのは「出エジプト記」二十三章一節 b の規定、二度目に書き給うたのは「出エジプト記」二十三章七節 a の規定でした。それぞれの箇所を新共同訳によって引用します。

 「出エジプト記」二十三章一節 b
     悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
     
 「出エジプト記」二十三章七節 a
     偽りの発言を避けねばならない。

 女を引き立ててきた者たちは、トーラーに明記されているこれらの規定を示されて、すごすごと退散しました。彼らの態度は事の真相がイエスの見抜き給うた通りであったこと、すなわち女の夫と証人たちが共謀し、意図的に妻を陥れようとしたことを物語っています。夫に悪い意図があり、証人もその共犯者であるならば、女に対する訴えが成立しないばかりか、夫と証人たちのほうが却って罪に問われます。




(上) Pieter Bruegel der Ältere, "Qui sine peccato est vestrum", Öl auf Leinwand, 24 x 34 cm, Courtauld Institute Galleries, London


 ここで思い起こされるのは、「ダニエル書補遺」にあるスザンナの物語です。この物語では、二人の長老が一人の女を罪に陥れ、女は死罪の宣告を受けます。しかしながら預言者ダニエルの介入によって長老たちの偽証と不正が明らかになり、女ではなく二人の長老が律法に従って処刑されました。

 スザンナの物語は当時広く流布していました。「姦淫の女のペリコペー」では、現場に居合わせた誰しもがスザンナの物語を思い起こしたはずです。「姦淫の女のペリコペー」において、イエスはダニエルであり、姦淫の女はスザンナの位置にありました。イエスに律法の規定を示された告発者たちは、自らが処刑された長老たちと同じ立場にあることを悟り、逃げ出したのです。自分たちが処刑されるべき立場にあることに突如として気付いたとき、告発者たちが感じた恐怖は如何ばかりだったでしょうか。


 女を告発する者たちに対して、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(Ὁ ἀναμάρτητος ὑμῶν πρῶτος ἐπ' αὐτὴν βαλέτω λίθον:)と言い給いました。アウグスティヌスはイエスのこの言葉について、不貞を犯さない男はいないという前提に立ち、「『この罪を持たない者が、この女に最初に石を投げよ』と言われれば、その場合には、人々が姦淫の女を殺さなかったことを憤っていた者たちも、自分たちに注がれる神の恵みを恐らく知るであろう」と書いています("DE ADULTERNIS CONJUGIIS", VII, 6)。すなわちイエスがこの場面で口に出し給うた「罪」という言葉を、アウグスティヌスは「姦淫の罪」の意に解しています。

 しかるにダレット教授の解釈によると、イエスがこの場面で口に出し給うた「罪」とは、「夫が妻を故意に死罪へと陥れる罪」及び「証人たちが夫と共謀する罪」のことです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉によって、イエスは告発者と証人たちに対し、「あなたがたはいま罪を犯していないか」「自分たちの公正さを、あなたがたは神の御前に誓えるか」と問いかけ給うたのです。

 姦淫の女のペリコペーは、エルサレム神殿での出来事です。「女の夫は妻の不貞を敢えて阻止せず、意図的に妻を死罪に陥れようとしているのではないか。証人たちは夫の共犯者となり、不法な性行為を阻止せず、不貞を現認する意図を以て物陰に潜んでいたのではないか」ということを、イエスは神殿すなわち神の御前で指摘し給いました。イエスの指摘が正しければ、告発者と証人たちは神の御前に罪人となり、トーラーに従って裁かれ、死罪に処せられることになります。彼らはそのことを悟り、女を置いて逃げ出したのでした。


【「姦淫を犯した女」のペリコペーが示すもの ― 旧約と新約を貫く「愛」の重要性】

 アウグスティヌスは「姦淫を犯した女」のペリコペーを、「カリタース」(慈愛)を支点にして解釈しました。しかしながら旧約聖書の律法を厳格に適用する立場からしても、女が釈放されるべきであることに変わりはありません。古代法学者ダレット教授はイエスをトーラー(律法)に精通したラビと考え、「姦淫を犯した女」のペリコペーを法理に基づき明快に解釈することで、旧約聖書と新約聖書の連続性、一体性を明らかにしています。

 女の夫は、おそらく復讐心ゆえに、妻を死に至らしめて不貞に報いようとしました。しかしながらそのような愛無き復讐を、トーラーは禁じています。トーラーが求めるのは、泳がされるままに不貞を犯した者を殺すことではなく、夫が愛を以て妻の過ちを赦し、妻を立ち返らせることです。妻を泳がせて不貞を働かせたうえで、友人たちを現場に派遣して目撃証人とし、妻を死に至らしめようと試みるならば、妻よりも先に夫が罪を問われます。不貞を働いたのは妻であるにもかかわらず、夫が罪に問われる理由は、突き詰めて言えば、夫の行動に愛が不在であるからです。

 トーラーは旧約聖書の規定ですが、新約聖書と矛盾するものではありません。旧約のトーラーが求めるのは「神と隣人への愛」であって、これはイエスが説かれた黄金律と同一です。旧約のトーラーを正しく解釈・運用するためには、愛が必要不可欠です。旧約と新約はいずれも「神と隣人への愛」を至上の価値とします。それゆえ旧約と新約の間には、如何なる矛盾も対立も存在しません。「姦淫を犯した女」のペリコペーは、旧約と新約の調和を示す活きた例となっています。


 「ヨハネによる福音書」は、聖書の他の部分と同様に、多数のペリコペーの規則的配列により構成されています。しかるに「姦淫を犯した女」のペリコペーは、「ヨハネによる福音書」を構成するペリコペー配列の規則性にうまく適合しません。それゆえ「姦淫を犯した女」のペリコペーは、形式から判断する限り、「ヨハネによる福音書」に本来含まれていなかった可能性が考えられます。

 しかしながら物語の内容に注目するならば、「姦淫を犯した女」のペリコペーは正典福音書にふさわしいばかりか、旧約と新約を貫く「愛」の思想が最もよく顕れた福音書ペリコペーのひとつであるとさえ言えます。

 トーラーを貫く理念は「神と隣人への愛」です。またトーラーの運用者は、何よりもまず愛を以てトーラーを運用すべく期待されています。このことを考えるならば、「姦淫を犯した女」のペリコペーを「カリタース」に基づいて解釈したアウグスティヌスの説は、純粋な法学に基づくダレット教授の説に決して対立せず、両者はむしろ調和すると、筆者(広川)は考えます。



 註1       原則的に、年代が古い写本は原本に近いと考えられる。逆に、書物の内容は時代が下るにつれて豊富になる傾向がある。原本を書き写す人が、自身の思想を広めるため、書かれている内容を理解しやすくするため、内容に生彩を与えるため等の目的で、写本に加筆する場合がしばしば見られるからである。したがって一部の写本にしか含まれないペリコペーは、後世の付加物と看做されて排除するのが原則となる。
        しかしながら写本によって含まれたり含まれなかったりするペリコペーの中には、地域を限って見れば古い写本にも収録されている場合がある。この場合、当該のペリコペーを含む写本のほうが原本に近く、当該のペリコペーを含まない写本は、含まれるべきペリコペーを喪失した可能性がある。そのようなペリコペーは安易に排除できない。
       
 註2       「姦淫を犯した女」のペリコペーが抱えるのは内容上の問題ではなく、形式上の問題である。
        上述したように、聖書を構成する各巻の書物は多数のペリコペーの組み合わせでできている。それぞれのペリコペーの内容に対称性に基づく配列が認められるだけでなく、各書物を全体として見ると、多数のペリコペー間にも内容の対称性に基づく配列が認められる。筆者が言う「内容の対称性に基づく配列」とは、音楽用語に喩えていえば、ソナタ形式のようなサンドウィッチ構造を指す。各書物の部分と全体に同様に見られるフラクタル様(よう)の構造は、聖書の特徴である。
        この特徴は「ヨハネによる福音書」にも同様に認められる。しかるに「姦淫を犯した女」のペリコペーは「ヨハネによる福音書」が有するフラクタル様の全体構造にうまく当てはまらず、このペリコペーを除くと均整の取れた全体構造となる。この事実に基づいて、「姦淫を犯した女」のペリコペーは、「ヨハネによる福音書」の原本に含まれていなかったはずである、との主張が為される。
       
 註3       「穢れている」は、"adulteros"(形容詞 adulter, era, erum の男性複数対格)の訳。
       
 註4       「他の男によって汚された妻を受け取る」(ab alio contaminatam viro recipere uxorem)とは、処女でない女を妻に迎えること、あるいは存命の夫と離別した女を妻に迎えることを指す。
       
 註5  quamvis David Saulis filiam, quam pater ejusdem mulieris ab eo separatam dederat alteri, tanqam Novi Testamenti praefigurator sine cunctatione receperit :
       直訳 ダヴィデは、ダヴィデと別れさせられた後、父[であるサウル]が他の男に与えたサウルの娘を、新しい契約の前表を為す者として、ためらわずに娶(めと)ったのであるが。
       
 註6  quis non intelligat debere ignoscere maritum, quod videt ignovisse Dominum amborum, nec se jam debere adulteram dicere, cujus poenitentiis crimen divina credit miseratione deletum?
       直訳 夫婦両人の主が赦し給うたと分かっている配偶者を赦すべきだと、また神の憐みにより悔悟したことでその罪が消された配偶者を、今やもう不純の女と呼んではいけないと、誰が理解しないであろうか。
       
 註7  credo metuentes peccandi impunitatem dari mulieribus suis,
       直訳 罪を犯すことの免罪(impunitas 罰せられないこと)が、自分たちの妻に与えられることを恐れる者たちであると、私は信じる。
       
 註8       この部分は少々分かりにくく感じるが、アウグスティヌスが前半で言っているのは、「主イエスは女に『これからは罪を犯してはならない』と言い給うたのであって、『これからも罪を犯してよろしい』と言い給うたのではない。だから主に倣って不貞の妻を赦しても、妻を増長させることにはならない」ということである。

 後半で言っているのは、「他の男たちが不貞の妻を赦さないのであれば、自分も妻を赦すべきでない。自分の妻だけが恩恵に浴するのは不公平だから。」との理屈は妥当しないということである。この理屈が妥当しない理由は、いつの世にも不貞の女は大勢いたはずであるが、主イエスは「不公平になるからどの女も赦さない」とは考え給わず、姦淫の女の罪を赦し、女の魂を癒し給うたからである。夫がキリスト者であるならば、彼はイエスに倣わねばならないのである。
       
 註9  Neque enim quibus illud factum Domini displicet, ipsi pudici sunt, et eos severos castitas facit
       直訳 主の為し給うたことが喜ばせない者たちは、恥を知る者たちではない。また貞潔がこの者たちを厳格にしているのでもない。
       
       
 註10  tum vero forsitan cogitarent, qui indignabantur, quod adulteram non occiderant, quanta illis Dei misericordia parceretur, ut adulteri viverent.
       直訳 その場合には、人々が姦淫の女を殺さなかったことを憤っていた者たちは、姦淫を犯した者たちも生きるように、神の憐みによってどれほど多くのことが彼らに対して赦されているかを、恐らく知るであろう。
       
 註11       1952年の「スウェーデン聖書解釈学年鑑」("Svensk Exegetisk Årsbok")には、ウプサラ大学の聖書解釈学教授ハラルド・リーゼンフェルト(Harald Riesenfeld, 1913 - 2008)による論文「古代教会の伝承における姦淫の女のペリコペー」("Pericopen de adultera i den fornkyrkliga traditionen")が掲載されている。
       
        上記引用個所において、アウグスティヌスは「堅固ならざる信仰を持つ若干の者たち、いやむしろ真の信仰に敵する者たちは、罪の罰を受けなくてもよいと妻たちが考えるようになることを恐れているのである」と書く。リーゼンフェルトの説によると、古代教会の指導者たちも同様の危惧をアウグスティヌスと共有し、姦淫の女が一見したところ簡単に赦された話が広がれば、信徒たちの間で姦淫への歯止めが効かなくなるのを恐れていた。それゆえ姦淫の罪への重い処罰が確定する時代、すなわち四世紀まで、このペリコペーは口伝の形に留まって、正典福音書には編入されなかった、とリーゼンフェルトは考えた。
       
 註12      「ニュー・テスタメント・スタディーズ」("New Testament Studies" 「新約聖書研究」)は、ケンブリッジ大学の「新約聖書研究者協会」(Studiorum Novi Testamenti Societas)が発行する権威ある学術誌。



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