サント=マリ=ド=ラ=メール 三人の聖女たちのバシリカ
Basilique des Saintes-Maries, Saintes-Maries-de-la-Mer, Camargue



(上) 北側から見たサント=マリ=ド=ラ=メールのバシリカ 1924年の絵葉書 中性紙にコロタイプ 139 x 89 mm 当店の商品です。

 フランス国土を六角形に見立てると、地中海に面する辺のちょうど中ほどに、ローヌ川の広大な三角州カマルグ (Camargue) があります。サント=マリ=ド=ラ=メール (Saintes-Maries-la-Mer / Lei Santei Marias de la Mar) はこのカマルグに位置する町で、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ブーシュ=デュ=ローヌ県に属し、アルル (Arles) に隣接しています。

 サント=マリ=ド=ラ=メールの人口は 2,500人ほどですが、名高い海辺の保養地であるために、夏季にはおよそ5万人がここを訪れます。


【サント=マリ=ド=ラ=メールに漂着した聖女たちの伝承】

 伝承によると、イエズス・キリストの受難と復活に立ち会った三人のマリア(註1)、すなわちマグダラのマリアマリア・ヤコベ、マリア・サロメは、ステファヌスが殉教した頃(註2)、ユダヤ人による迫害を逃れるために,舵もマストも無い小舟に乗って聖地を脱出し、西暦四十五年にサント=マリ=ド=ラ=メールに上陸しました。三人のマリアには、マグダラのマリアの姉妹マルタ(註3)、エジプト人の侍女サラが同伴していました。



(上) Giotto di Bondone,Scenes from the Life of Mary: Magdalene: Mary Magdalene's Voyage to Marseilles (details), 1320s, fresco, Magdalene Chapel, Lower Church, San Francesco, Assisi


 上陸後、マグダラのマリアはサント=ボーム (Sainte-Baume) に、マルタはタラスコン (Tarascon) に、それぞれ宣教のために移動しました。三人の聖女たち、すなわちマリア・ヤコベ、マリア・サロメ、サラはサント=マリ=ド=ラ=メールに残り、その地で宣教を行いました。三人のすぐれた聖徳により、地元住民はまもなくほとんど全員がキリスト教に改宗しました。

 後に「サラ・カリ」(Sara Kali 「浅黒い肌のサラ」あるいは「ジプシーのサラ」)と呼ばれてジプシーの守護聖女とされるエジプト人の娘サラは、海岸を歩いて薪を拾い、ふたりのマリアの侍女として、主人のために喜捨を集めました。

 三人の聖女が亡くなると、村の中心の礼拝堂に埋葬されました。


(下) プロヴァンスに到着する聖人たち 中性紙にコロタイプ 140 x 89 mm 版元 マルシュトー(Edition Marcheteau, Arles) 当店の商品




【サント=マリ=ド=ラ=メールに残った聖女が三人である理由】

 ガロ・ロマン期のガリアにおいて、キリスト教化はまだまだ不完全で、地方には異教がはびこっていました。教会は地方の教化を進めるため、異教の神殿を取り壊した跡に聖堂や修道院を建設しました。異教時代に聖域であった場所をキリスト教化後も聖域であり続けさせることにより、民衆をキリスト教信仰へ円滑に移行させたのです。

 現在のサント=マリ=ド=ラ=メールにあたる地域において、ガロ・ロマン期には豊穣を司る地母神たちの信仰がありました。地母神は三人が一組となっており、果実を入れた豊穣の角を膝に載せ、あるいは杯の中身を大地に撒き、うち一人は乳呑み児を膝に抱く姿で表されることがありました。

 6世紀初め、教皇シンマクス (St. Symmacus, c. 450 - 498- 514) はアルルの聖セゼール (St. Cesaire d'Arles, c. 470 - 502 - 542) をアルル司教に任じ、聖セゼールは上述の女神たちの聖域であった場所に、聖母マリアに捧げた修道院を建設しました。地名に含まれるマリアの名前はもともとこの修道院に由来すると考えられ、聖セゼールが没した542年の時点において修道院が「サンクタ・マリア・デー・ラティス」(Sancta Maria de Ratis 台地の聖マリア 註2) と呼ばれていたことが、聖セゼールの遺言によって確認できます。

 このようにして、かつて三人の地母神の聖地であった場所が聖母マリアに奉献され、キリスト教化されたのですが、異教時代の記憶を長くとどめる民衆の心性においては、聖女はどうしても三人である必要がありました。サント=マリ=ド=ラ=メールに三人の聖女(マリア・ヤコベ、マリア・サロメ、サラ)が留まったとされる伝承は、このような歴史的経緯で生まれたと考えられています。


(下) サント・マリ・ド・ラ・メールのバシリカ 1817年のエクス=ヴォートー フランスの古い絵葉書 中性紙にコロタイプ 140 x 90 mm 当店の商品です。




【ヴェスレーの修道院の聖遺物「マグダラのマリアの遺体」と、サント=マリ=ド=ラ=メールの伝承の関係】

 聖地にいた聖女たちが、ユダヤ人たちによる迫害の危険を逃れるために小舟に乗って脱出し、フランスに漂着したという伝承は、元はと言えばブルゴーニュ地域圏ヴェズレー (Vezelay) の修道院で創作されたものです。

 1037年、ヴェズレーの修道院長に着任したジョフロワ (Geoffroy 在職 1037 - 1050) は、規律が緩んで衰退していたこの修道院の改革に取り組み、クリュニーの戒律を受け入れるとともに、聖女マドレーヌ(マグダラのマリア)の信仰を導入しました。

 この思いつきは功を奏し、聖女の遺体があると思われたヴェズレーには巡礼者が押し寄せました。サンティアゴ・コンポステラ巡礼の出発点であったことも手伝って、修道院は飛躍的な繁栄を遂げました。しかし有名な巡礼地となるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜマドレーヌの遺体があるのかを合理的に説明して、巡礼者を納得させる必要が出てきました。




(上) フランスからサンティアゴ・デ・コンポステラに至る四つの主要な巡礼路 (Les chemins de Saint Jacques) (レモン・ウルセルによる)


 そこで考案されたのが、聖女たちが迫害を逃れるために舟に乗って聖地を脱出し、フランスに来たという説明でした。すなわち「マドレーヌを含む聖女たちはカマルグに上陸し、マドレーヌはサント=ボームに移ってそこで生涯を終え、当地の聖堂に葬られた。ヴェズレーではサント=ボームの聖堂に修道士を派遣して、その遺体を盗み出すことに成功した。それゆえ聖女マドレーヌの遺体はヴェズレーにある。」というのです。

 ヴェズレーの修道院が案出したこの物語は、聖女たちがカマルグに上陸したという伝承を生み出しただけでなく、聖女マドレーヌの本来の墓所であったとされる聖堂 (La basilique de Sainte Marie-Madeleine de Saint-Maximin-la-Sainte-Baume) の名前にもなっている聖マクシマンという聖人を創出し、ヴェズレーに対抗したオータン司教座聖堂にラザロの遺体を出現させ、タラスコンにマルタの遺体を出現させました。

 聖マルタに退治された怪物タラスクが登場するドーデの「タルタランもの」3部作も、ヴェズレーの物語が生み出した文学上の果実ということができましょう。




(上) 怪物タラスクを退治する聖女マルタ ニュルンベルク、ザンクト=ロレンツ教会の祭壇画


【サント=マリ=ド=ラ=メール聖堂と、この聖堂における聖女たちの聖遺物発見】

 聖セゼールによって「台地の聖マリア」(サンクタ・マリア・デー・ラティス)と呼ばれたこの場所は、12世紀頃から「海の聖母」(Notre-Dame-de-la-Mer) と呼ばれるようになりました。今日見られる聖堂はこの頃の建築です。フランス革命時の 1794年から 1797年にかけて聖堂は宗教活動を禁じられ、胸壁は破壊されてその石材が売られました。このとき壊された部分は 1873年に修復されています。鐘楼はたびたび改築され、現在の状態になったのは 1901年です。


 1448年、ルネ・ダンジュー (René d'Anjou, 1409 - 1480) の指示により、聖杯を探すために教会で発掘が行われました。このとき身廊の地下で見つかった古い教会跡から、マリア・ヤコベとマリア・サロメ、サラの遺体が発見されたと伝えられています。

 この町がサント=マリ=ド=ラ=メール (Saintes-Maries-de-la-Mer 「海のマリアたち」) という現在の名前になったのは 1838年です。複数形で表されている「マリアたち」とは、この地で聖遺物が見つかったとされるマリア・ヤコベとマリア・サロメのことです。


(下) サント=マリ=ド=ラ=メールの行列で担がれる舟 フランスの古い絵はがき 中性紙にコロタイプ 136 x 87 mm 当店の商品




【ジプシーの守護聖女サラ・カリ】

 19世紀中頃以来、サント=マリ=ド=ラ=メールはジプシーの守護聖女「サラ・カリ」(Sara Kali 「浅黒い肌のサラ」あるいは「ジプシーのサラ」)の巡礼地にもなりました。サラ・カリはヨーロッパじゅうのジプシーの尊崇を集めています。

 毎年5月の第四週末には、ヨーロッパ各国から何千人ものジプシーがサント=マリ=ド=ラ=メールの聖堂に集います。土曜日のミサでは巡礼者たちが聖堂でサラ・カリに賛歌を捧げるなか、聖遺物の棺がゆっくりと天井から降ろされます。サラ・カリの聖像が地下の祭室から運ばれて来ると、巡礼者たちは聖像を運ぶ行列を作り、薔薇の花びらを敷き詰めた道を通って海岸まで歩きます。

 各国からジプシーが集うこの日は、ふだん離れ離れになっている者同士が消息を伝えあう日でもあり、洗礼式や結婚式も多く行われます。普段から移動生活を送るジプシーが「巡礼」をするのは奇妙なことのようにも思えますが、彼らが守護聖人の庇護を求める気持ちは、移動を繰り返す日常ゆえに、定住民が考えるよりもいっそう強いのかもしれません。巡礼の終わりに、ジプシーたちは次のような祈りを捧げます。

「聖サラよ、我らを正しく導きたまえ。善き信仰と善き健康を与えたまえ。我らを嫌う者の心を変えて、我らに親切であらせたまえ。」



【南フランスおよび西フランスにおける要塞型聖堂建築について】

 ミディ=ピレネーおよびポワトゥー=シャラントの両地域圏を初め、フランスの南部と西部を中心に、まるで城砦のような聖堂建築が数多く見られます。 サント=マリ=ド=ラ=メール聖堂、アルビ司教座聖堂サント=セシルピレネー山中リュズのテンプル騎士団聖堂はその例です。

 これらの聖堂は戦争や外敵(ノルマン人、イスラム教徒など)の侵入の際、聖堂内に住民を収容することを想定しています。破城槌等を運べる幹線道路沿いの教区では戦乱に巻き込まれる危険性が大きく、そのような危険の無い田舎の教区でも、外敵による略奪の被害に遭う可能性は常にありました。

 このタイプの聖堂が最初に建てられたのは9世紀です。城砦型聖堂は、新築を禁ずるのみならず既存の城砦型聖堂の取り壊しさえ命じた1123年のラテラノ公会議を初め、幾多の布告により繰り返し禁止されました。しかしそれにもかかわらず数多くの城砦型聖堂が建設され、あるいは既存の聖堂が城砦型に改築される事例が続きました。

 城砦型聖堂は北フランスにもあります。ノルマンディーとブルターニュの境界にあるモン=サン=ミシェル修道院は有名な例ですし、ピカルディ地域圏ソンム県には聖堂や水車小屋の地下に避難のための壕(ミュシュ muches)を掘った例が見られます。下の写真はフランス北東部、ドイツとの国境近くに位置するシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏アルデンヌ県アウスト (Aouste) のサン=レミ聖堂 (Saint-Remi) です。






註1 イエズスが十字架に架けられたとき、その場には女性たちがいました。その名前は正典福音書によると下の表の通りです。(表記はいずれも新共同訳による)

マタイ 27:56 マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母
マルコ 15:40 マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ
ルカ 記述なし
ヨハネ 19:25 マグダラのマリア、イエスの母マリア、その姉妹であるマリア(クロパの妻)

 これらの女性たちは「三人のマリア」と呼ばれ、イエズス・キリストの復活にも立ち会ったと考えられています。


(下) Peter von Cornelius (1783 - 1867), The Three Maries at the Tomb of Jesus, 1815




 サント=マリ=ド=ラ=メールにおいて「三人のマリア」すなわちマグダラのマリア、マリア・ヤコベ(小ヤコブとヨセの母マリア)、マリア・サロメ(マルコ 15:40の「サロメ」とヨハネ 19:25の「クロパの妻マリア」を同一視した人物)が上陸したとされる伝承は、正典福音書に見られる上記の記述に由来しています。サント=マリ=ド=ラ=メールにおける「三人のマリア」には、聖母マリアは含まれません。

 「三人のマリア」に関する詳しい説明は、こちらをクリックしてください。


註2 使徒言行録7章54節から60節。関連商品はここをクリックしてください。


註3 マグダラのマリアについて、福音書には次の記述が見出されます。

・マグダラのマリアはイエスによって七つの悪霊を追い出していただいた。(マルコ 16: 9、ルカ 8: 2)

・マグダラのマリアはイエスの受難に立ち会った。(マタイ 27: 56、マルコ 15: 40、ヨハネ 19:25)

・マグダラのマリアはイエスが復活して墓が空(から)になっているのを、他の女性たちとともに最初に見つけ、また復活したイエスに最初に会った。(マタイ 28 1 - 10、マルコ 16: 1 - 10、ルカ 24: 1 - 12、ヨハネ 20: 1 - 18)


 上に挙げた箇所に登場するマリアは、いずれの場合も「マグダラのマリア」と書かれています。しかるに福音書には次の記述も見られます。

・ラザロはベタニアのマルタとマリアの兄弟であった。病気で死んだが、イエスによって復活させられた。(ヨハネ 11: 1 - 44)

・ベタニアでイエスが重い皮膚病の人シモンの家で食事をしておられたとき、一人の女が極めて高価な香油をイエスの頭に注ぎかけた。弟子たちがこれを無駄遣いだと非難すると、イエスは女が埋葬の準備をしたのだと言われた。(マタイ 26: 6 - 13、マルコ 14 : 3 - 9)

・イエスがファリサイ派の人の家に入って食事をしておられたとき、一人の罪深い女が入ってきてイエスの足を涙で濡らし、髪でぬぐい、接吻して、香油を塗った。イエスは女に「あなたの罪は赦された」と言われた。(ルカ 7: 36 - 50)

・ベタニアでイエスがラザロらと共に食事をし、マルタが給仕をしている間に、マリアがやってきてイエスの足に高価なナルド(*)の香油を注ぎ、髪でぬぐった。弟子たちがこれを無駄遣いだと非難すると、イエスはマリアが埋葬の準備をしたのだと言われた。(ヨハネ 12: 1 - 8) 


 これらの箇所には「ベタニアのマリア」あるいは「罪深い女」が登場します。この女性がマグダラのマリアと同一人物であるかどうかは、福音書を見る限り、断定できません。同一人物と考えても矛盾はありませんが、ふたりが同一人物であるという決定的な裏付けとなる聖句を新約聖書中に見出すことはできません。

 東方教会においては、「マグダラのマリア」と「ベタニアのマリア」を別人であると考える説が優勢でした。

 しかるにローマ・カトリックにおいては、教皇グレゴリウス1世 (Gregorius I, c. 540 - 590 - 604) がその説教で次のように述べて以来、「マグダラのマリア」と「ベタニアのマリア」は同一人物であるとの考え方が支配的になりました。

Hanc vero quam Lucas peccatricem mulierem, Joannes Mariam nominat, illam esse Mariam credimus de qua Marcus septem damonia ejecta fuisse testatur. (SERMO XXXIII)

(しかるに、ルカが罪深い女、ヨハネがマリアと呼んだこの女は、七つの悪霊を追い出されたとマルコが証したマリアであると、我らは信ずる。 「説教33」)


註4 この「ラティス」(ratis) という語はラテン語ではなく、現地の古いガリア語で「一段高くなった平地」「台地」を指します。

 ラテン語にも「筏(いかだ)、小舟」を表す「ラティス」(RATIS) という語がありますが、ラティスという語形は主格ですから、奪格支配の前置詞 "DE" にこの語を続けるのであれば、"DE RATI/RATE"(単数)あるいは "DE RATIBUS"(複数)となるはずです。

 しかし後にガリア語のラティスがラテン語と混同された結果、「サンクタ・マリア・デー・ラティス」はフランス語で「筏の聖マリア」(Sainte Marie du radeau)、「小舟の聖母」(Notre Dame de la Barque) とも呼ばれるようになりました。


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