ノートル=ダム・デ・フネートル(窓の聖母の礼拝堂)
Le Sanctuaire de Notre-Dame/Madone des Fenestres (Notre-Dame/Madone de Fenestre), St.-Martin-Vésubie




 フランス本土の南東の隅、アルプ=マリティーム県に、標高 3,000メートル以上のフレンチ・アルプスの山々に囲まれたサン=マルタン=ヴェジュビ (Saint-Martin-Vésubie 古名 Saint-Martin-Lantosque) の村があります。サン=マルタン=ヴェジュビはイタリアとの国境に接しており、1943年にイタリアに占領された際にフランスのユダヤ人たちがヴィシー政権による迫害から避難し、さらにイタリアへと脱出した場所としても知られています。

 サン=マルタン=ヴェジュビのノートル・ダム・デ・フネートル(窓の聖母)を安置する礼拝堂は標高 1904メートルの地点にあります。もともとピエモンテのボルゴ・サン・ダルマッツォ (Borgo San Dalmazzo) にあるベネディクト会修道院が 880年頃に旅人のための避難所として建てた礼拝堂に起源を有し、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏で最も古い巡礼地です。

 テンプル騎士団がこの礼拝堂を 12世紀に改築して大きくしましたが、14世紀初め、フランス王の陰謀でテンプル騎士団が壊滅すると、ノートル・ダム・デ・フネートルの礼拝堂も 1308年に取り壊されました。その後 1355年に村人の手で再建され、1391年にニース司教、15世紀中頃にはサン=マルタン=ヴェジュビの主任司祭の所属とされたあと、1860年以降は一時的にイタリア国税局の管理するところとなりましたが、その後はふたたびニース司教区のものとなっています。もとの礼拝堂は火災のために取り壊され、現在の礼拝堂は 19世紀に建て替えられたものです。





 ノートル・ダム・デ・フネートル(窓の聖母)という名前は、サン=マルタン=ヴェジュビを取り囲む高峰のうち、モン・ポンセ (Mont Ponset, 2,828m) とモン・コロン (Mont Colomb, 2,816m) の間の低い部分(les fenestres 「窓」)に出現したといわれる聖母に由来します。福音記者ルカがレバノン杉で製作し、マグダラのマリアがプロヴァンスにもたらしたという伝承がある木彫りの聖母子像で、アルプ=マリティーム及びピエモンテ一帯の信仰を広く集めています。この聖母子像は実際は 14世紀に製作されたものですが、杉材でできており、テンプル騎士団が東方から当地にもたらしたのは事実であると考えられています。


 ノートル・ダム・デ・フネートルの礼拝堂は山の上にありますが、1846年の冬に火災が発生して、聖母子像が危うく難を逃れるという事件があったために、ニース司教ドミニク・ガルヴァノ師 (Mgr. Dominique Galvano 在位 1833 - 1855) の命により、聖母子像は冬の間は麓のサン=マルタン=ヴェジュビの教会に安置されることになっています。そのため、毎年6月の終わりに山の上の聖堂に運ばれ、秋の初めにサン=マルタン=ヴェジュビ村の教会に戻されます。

 また近傍の村々を巡るノートル・ダム・デ・フネートルの行列が挙行されています。18世紀から19世紀にかけて、この地域にある村々のあいだで境界争いがありました。現在、ノートル・ダム・デ・フネートルの像が近傍の村々を巡るのは、境界争いの際にこじれた村落間の関係を修復するために始まった行事と考えられています。


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