ノートル=ダム・ド・リエス 喜びの聖母のバシリカ
La basilique Notre-Dame de Liesse, Liesse-Notre-Dame, Aisne, Picardie





 フランス北東部、ベルギーとの国境に近い小さな町リエス=ノートル=ダム(Liesse-Notre-Dame ピカルディー地域圏エーヌ県)に、聖母の巡礼地バジリク・ノートル=ダム・ド・リエス(La basilique Notre-Dame de Liesse 喜びの聖母のバシリカ)があります。

 バジリク・ノートル=ダム・ド・リエスは十字軍時代の1134年に起源を遡る古い聖堂で、ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc, c. 1412 - 1431)やルイ十一世(Louis XI de France, 1423 - 1483)、フランソワ一世(François I de France, 1494 - 1547)も巡礼に訪れています。現在の聖堂は十四世紀に建てられ十五世紀に拡張されたもので、1910年以来小バシリカとされています。


【ノートル=ダム・ド・リエスの縁起】

 1134年当時、地中海に面したアシュケロン(Ashkelon 現在のイスラエル南部)を、第三代エルサレム王フルク・ダンジュー(Foulques V d'Anjou, 1092 - 1144)の配下である聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)員たちが守備していましたが、イスラム軍に圧倒されてアシュケロンは陥落し、ラン(Laon ピカルディー地域圏エーヌ県)出身の三名の騎士兄弟が捕虜になってしまいました。兄弟はカイロに連行され、パンと水を与えられて塔の中に幽閉されましたが、全能の神の助けを信じて励まし合いました。

 ファーティマ朝エジプトのカリフはキリスト教徒を捕虜にできたことを喜び、イスラム教に改宗させるよう命じました。騎士たちが閉じ込められている牢獄に最初に遣わされたのはイスラムの聖者たちでしたが、キリストに忠実な騎士たちを改宗させることができませんでした。そこでカリフの娘イスメリア(Ismérie)が騎士たちの許に送り込まれました。イスメリアは聡明で性格も良く、たいへん美しい娘でした。イスメリアは三兄弟と対話してキリスト教に興味を持ち、マリアとイエスの姿を見たいので像を作るように頼んで、像を作る木と彫刻の道具を置いてゆきました。彫刻の心得など無い三兄弟は途方にくれましたが、その夜、騎士たちが眠っているうちに、聖母は黒い木でできた小さな聖母子像を出現させ給いました。翌朝早く目を覚ました騎士たちは突然出現した聖母子像を目にし、また像が眩い光と芳香を放つのを見て、その前に跪きました。夜が明ける頃に牢獄を再訪したイスメリアはこの光景を見、騎士たちの話を聞いてキリスト教を信じました。イスメリアは聖母子像を譲ってくれるよう騎士たちに頼み、衣の下に像を隠して宮殿に帰りました。





 その夜聖母がイスメリアに出現し、聖母の執り成しによってイスメリアがキリスト教徒に加えられ、洗礼を受けて、フランスの比類なき宝となること、ずっと後には天上なる聖母の宮殿に迎え入れられることを告げ、また騎士三兄弟を解放するように命じました。聖母の出現を受けたイスメリアは、エジプトから逃れてキリスト教徒になることを決心し、真夜中になって騎士たちを牢獄から連れ出しました。イスメリアのマントには奇跡の聖母子像が隠されていました。四人はナイルに行き当たりましたが、小舟を見つけて河を渡り、森の入り口にたどり着きました。疲れ切った四人は深い眠りに陥りました。

 次の朝、イスメリアが最初に目覚めると、周囲の風景が一変していました。近くに泉があり、羊飼いが歌いながら羊を追っているではありませんか。羊飼いの歌声で三人の騎士も目を覚まし、周囲を見渡して大いに驚きました。羊飼いに尋ねると、騎士たちの出身地ランにほど近いリャンス(Liance 後のリエス Liesse)だと分かりました。なんと、騎士たちは寝ている間に自分の領地に戻っていたのです。三兄弟は喜びのあまりイスメリアのことを忘れ、王女を泉の傍らに残したまま城に向かって歩き始めました。イスメリアは三兄弟の後を追いましたが、慌てていたので聖母子像を泉に置き忘れてしまいました。合流後像を忘れたことに気づいた四人は泉に戻り、聖母子像を無事に回収しました。ところがその後、城まで辿り着かないうちに像は運べないほど重くなり、四人は聖母がその場所に礼拝堂を望んでおられると悟りました。三兄弟がその場で礼拝堂建設の誓いを立てると、像は通常の重さに戻りました。一方、三兄弟は人を城に遣って自分たちの帰還を知らせ、多数の人々の出迎えを受けました。このとき像は何らかの事情で元の泉まで運ばれて安置されました。しかしながら翌日三兄弟が泉に行くと聖母子像はそこから移動して、前日に重さを増した場所に移っていました。三兄弟はその場所に美しい礼拝堂を建て、奇跡の聖母子像を安置しました(註1)。

 十六世紀の伝承によると、三人の騎士はジャン(Jean)、エクトル(Hector)、アンリ(Henri)という名前で、エップ(Eppes オー=ド=フランス地域圏エーヌ県)の領主ギュイヨーム一世(Guillaume 1er)の息子たちでした。ジャンとエクトルとアンリは聖地での務めが終わると騎士団の修道院に入ったと伝えられます。また王女イスメリアはキリスト教を学び、1134年12月8日、ラン司教バルテルミー・ド・ユル(Barthélemy de Jur, v.1080 - 1158 註2)から洗礼を受けたと伝えられます。洗礼名はマリー(Marie)でした。マリーは三兄弟の母と一緒に暮らしましたが、若くして病没し、ノートル=ダム・ド・リエスの傍らに埋葬されました。


(下) ノートル=ダム・ド・リエス 奇跡の泉





【喜びの聖母の奇跡譚】

 古文書の記録によると、ノートル=ダム・ド・リエスに捧げられた最初の礼拝堂の建設資金は、ラン司教バルテルミー・ド・ユルから提供されました。聖母子像は名高い二つの奇跡を惹き起こしたと伝えられます。

・第一の奇跡 絞首された罪人の救い

 1139年、ピエール・フルシ(Pierre Fourcy)という貧しい男が家族を養うために盗みを働いて捕まり、死刑判決が下されました。刑を執行される前、男は喜びの聖母(ノートル=ダム・ド・リエス)に祈り、覚悟を決めて執行人に身を委ねました。ピエールは絞首されたうえで放置されました。その三日後、絞首台の近くで羊を追っていた牧童に、苦しむ声が聞こえました。ピエールは縄にぶら下がったまま三日間も生きていたのです。牧童は縄を切ってピエールを下ろし、代官を呼びました。ピエールが代官にした説明によると、ピエールは喜びの聖母に助けを求め、聖母は縄が首に食い込まないように、自らの手で男を支え給うたとのことでした。

・第二の奇跡 さらわれた子供を母の許に返す

 アングラン二世(Enguerrand II de Coucy, 1110 - 1149)はエーヌに数箇村を有する公爵で、二人の子供がいました。1146年の春、まだ幼かった子供たちは家庭教師が見守るなか庭で遊んでいましたが、そこに色とりどりの服を着て祭りの仮装を身に着けた楽師たちが断りもなく入ってきて、滑稽な身振りを交えながら面白い話をし、逆立ちして歩きながら踊り手のように回転して見せました。子供たちは大喜びです。一人の道化は銀の玉を取り出して、この玉はひとりでに転がって決して捕まらないのだと言いました。そして玉を投げると、それを捕まえようとするかのように走りました。玉はとても速く転がり子供たちも一緒になって玉を追いかけました。家庭教師は子供たちを止めようとしましたが追いつくことができず、とうとう道化師と子供たちを木が茂る向こう側に見失ってしまいました。

 家庭教師は公爵夫妻に急を知らせ、すぐに捜索隊が招集されましたが、子供たちも楽師たちも見つかりませんでした。しかしアングラン二世の妻であり子供たちの母であるアニェス(Agnès de Beaugency)は希望を失わず、三人の騎士をエジプトから助け出して母の許に返し給うた喜びの聖母に祈りを捧げました。このアニェスは国王ルイ七世の親類でしたので、ルイ七世はアングラン二世を伴ってノートル=ダム・ド・リエスに参詣し、公爵は子供たちが戻ってきたら十字軍に参加することを聖母に誓いました。この話の詳細な後日譚は不明ですが、子供たちは無事に両親の許に戻り、父母の祈りは叶えられました。喜びの聖母が起こし給うたこの奇跡は広く知れ渡り、巡礼地ノートル=ダム・ド・リエスの名声は高まりました。



【巡礼地ノートル=ダム・ド・リエスの発展】

 Crédit photo @morio60


・喜びの聖母信心会

 初期の喜びの聖母信心会については記録が残っておらず、最初に結成された年は不明ですが、ランス(Reims)では 1407年に、パリでは 1413年に、この聖母の信心会があったことが分かっています。国王シャルル六世(Charles VI, 1368 - 1380 - 1422)はグレーヴのあたりにあったサン=テスプリ教会に喜びの聖母信心会を設立し、妃イザボー(Isabeau de Bavière, c. 1370 - 1385 - 1422 - 1435)、王太子シャルル(後のシャルル七世)とともに会員となりました。その後も大勢の王室の人々やリシュリュー枢機卿がこの信心会に加入しています。1645年にはサン・シュルピスに信心会ができ、ルーアン(Rouen)とエヴルー(Evreux)にも信心会ができています。十七世紀のパリには三つの喜びの聖母信心会が存在していました。


・フランス革命による破壊と革命後の復興

 1794年、パン屋であり過激な革命分子であったルノワール(Lenoir)という男は、二人の共犯者とともにノートル=ダム・ド・リエス聖堂に侵入しました。彼らは奇跡の聖母子像を盗み出しすとルノワールの店に行き、像をパン焼き窯にくべて燃やしてしまいました。この六十年後に事件について証言した人物は、ルノワールたちを制止することはできませんでしたが、灰になった聖母子像を保管していました。聖母子像が焼かれたのと同じ頃、ノートル=ダム・ド・リエス聖堂の会計係であったダントニ氏(M. Dantheny)はランの広場で絞首刑になりました。ノートル=ダム・ド・リエス聖堂の主任司祭であったビローデル神父(Jean-Baptiste Billaudel, 1754 - 1827)はフランスから追放されながらもひそかに入国し、石膏の聖母子を用いて喜びの聖母を崇敬する人々の信心を助けました。

 フランスのカトリック教会は 1801年の政教条約によって復活しました。ノートル=ダム・ド・リエス聖堂は破壊され、ほとんど壁しか残っていない状態でしたが、主祭壇上には新しい聖母子像が再び安置されました。聖母子像には美しい衣が着せられ、像の足下には元の聖母子像を焼いた灰が置かれました。礼拝堂といくつかの祭壇も復元され、ミサと聖務日課、祝祭が再び行われるようになりました。巡礼も復活しました。ある巡礼者は十八年間麻痺に苦しんでいましたが、喜びの聖母の許にきてすぐに回復しました。十年間口が利けなかった若者も回復しました。ベルギーと国境を接するバゼイユ(Bazeilles グラン・テスト地域圏アルデンヌ県)の男の子は、三年前に失った視力を突然回復しました。


・1857年8月18日 聖母の戴冠

 ソワソン司教ド・ガルシニー師(Mgr. Paul-Armand Cardon de Garsignies, 1803 - 1847 - 1860)はノートル=ダム・ド・リエス聖堂と巡礼者の管理をイエズス会に委ねました。ド・ガルシニー司教は喜びの聖母への信仰が篤く、教皇ピウス九世に願い出て、1857年8月18日、聖母子像の戴冠を実現させました。戴冠に先立つトリドゥウム(羅 TRIDUUM 三日間の祈り)はナポレオン三世が寄贈した鐘の合図で始まり、野外に安置された聖母子像の周囲には三万人の巡礼者が集まりました。

 香が焚かれるなか、戴冠した聖母子像は騎馬隊に先導され、聖歌隊の子供たちに囲まれてノートル=ダム・ド・リエス聖堂へと進みました。祭服を着けた八百人の司祭と五十人の聖堂参事会員、及びモナコ大公を始めとする人々がこれに続きました。聖母子像が聖堂に到着すると、宝石をちりばめた金の冠がド・ガルシニー司教の手で聖母の頭に置かれました。このときの像は戴冠に際して新調されたもので、現在聖堂に安置されているのと同一の聖母子像です。






(上) ノートル=ダム・ド・リエスを巡礼に訪れる人々


 増え続ける巡礼者に対処するため、ノートル=ダム・ド・リエス聖堂は正面入り口の両脇に二つの扉口が追加され、八つの礼拝堂が増設されました。1873年から 1882年までの九年間に聖堂を訪れた巡礼者は四十万人と記録されています。戴冠五十周年に当たる 1907年にも幾つかの祝祭行事が行われました。1910年、教皇ピウス十世はノートル=ダム・ド・リエス聖堂に小バシリカの称号を与えました。



註1 巡礼地ノートル=ダム・ド・リエスの起源となるこの奇跡については、1134年に聖ヨハネ騎士団によって書かれた文書が、1721年に見つかったとされる。より信頼できる記録としては、聖ヨハネ騎士団の副団長であったメルキオール・バンディーニ(Melchior Bandini)が、1446年頃にノートル=ダム・ド・リエスに関する記録を残している。また最初のアヴィニヨン対立教皇クレメンス七世(Clément VII, 1342 - 78 - 94)は、1384年5月28日付書簡においてノートル=ダム・ド・リエスへの巡礼が盛んであることに言及し、同地への巡礼者に贖宥を与えている。

註2 バルテルミー・ド・ユルは 1113年から 1151年までラン司教を務めた。



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