ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ
Sanctuaire Notre-Dame de la Drèche (Nostro-Damo de la Dresto), Lescure-d'Albigeois, Midi-Pyrénée
ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュはミディ=ピレネー地域圏タルヌ県
アルビ近郊の町ルスキュル=ダルビジョワ (Lescure-d'Albigeois) にある聖母マリアの巡礼地です。アルビを見晴らす高台には直径、高さとも
19.5メートルの八角柱の聖堂があり、六つの礼拝堂が付属しています。
【ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュの歴史】
ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュは、十二世紀に羊飼いが聖母子像を見つけ、その場所の地主が像を安置するために建てた礼拝堂が起源となっており、1185年の時点ですでに教区教会となっていた記録があります。12世紀にクレルヴォーの聖ベルナール、十三世紀に聖ドミニコが巡礼に訪れた記録があり、また
聖ドミニコが聖母から
ロザリオを受けたのはノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュにおいてであったと言われています。1275年には現在も残るゴシック式の礼拝堂が増築され、1468年には9月8日がノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュの祝日と決められました。
フランス革命期の 1792年、聖堂は売却されることとなりましたが、ベルナドゥー神父 (Pere Bernadou) がこれを買い、聖堂は破壊を免れました。この年から2年間、聖母子像は信徒の家に隠され、その後司祭館の後ろにあるイチジクの木の根元に埋めたところ、その冬は寒さが非常に厳しかったにもかかわらず、イチジクは無事に冬を越すという不思議が起こりました。
1859年から身廊及び鐘楼の改築が始まり、1864年に献堂されて、聖堂は現在の姿となりました。この年から、ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュはフランシスコ会律修第三会
(Le Tiers - Ordre Regulier, TOR) のもとに置かれることとなりました。聖堂内壁のフレスコ画はトゥールーズの画家ベルナール・ベネゼク
(Bernard Benezech) の下絵に基づいてレオン・ヴァレット師 (P. Léon Valette) が制作したものです。
【「ドレシュ」の意味】
聖母子像の名前にある「ドレシュ」(Drèche)という言葉の意味について、ふたつの説があります。
地勢を表すオック語に由来するとする説によると、オック語では谷の両側の斜面の呼び名として、南側の斜面をレヴェ(l'évès)、北側の斜面をラドレシュ(l'adrèch)と呼ぶので、「ノートル=ダム・ド・ラドレシュ」(N-D
de l'adrech)が「ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ」(N-D de la Drèche)に変化したといいます。
一方でノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュは 十八世紀のラテン語文献において「ベアータ・マリア・デー・デクステラー」(Beata Maria de
Dextera 「正しさの聖母」「右側の聖母」)という名前で言及されています。この名前は「正しき道を歩む者のための聖母」という意味にも解釈できます。
おそらく最初は地勢に基づく命名であったものが、後代になってその意味が忘れられ、後者のような解釈が生まれたのだと思われます。
【聖母子像ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ】
(上) ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュのメダイ。
当店の商品です。
ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュは高さ 85センチメートルの
「知恵の座」(SEDES SAPIENTIAE) 型聖母子像で、オーヴェルニュ式と呼ばれるタイプに属するロマネスク式聖像です。
オーヴェルニュ式聖母子像は無彩色の
黒い聖母で、フランス中央高地に広く分布しています。ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュも黒い聖母だったのですが、虫食いの被害ために 十九世紀にトゥールーズで修復され、その際に彩色が施されてしまいました。
聖母は垂直の背もたれのある椅子に腰掛け、幼子イエスを膝の上、中心よりも少し左(向かって右)に座らせて、「知恵」であり「救い」であるイエスを人々に示しています。聖母の左手は幼子に添えられています。頭には金の縁取りのある長いヴェールを被り、このヴェールは腕を覆っいます。衣の裾からはとがった靴の先が見えます。
幼子イエスは右手を挙げて親指と人差し指を立て、祝福のポーズを取っています。また「世の救い主」(サルワートル・ムンディー SALVATOR MUNDI)として、左手に全宇宙の支配権を象徴する
世界球(グロブス・クルーキゲル GLOBUS CRUCIGER) を持っています。幼子イエスは聖母と同様に長い衣を着ており、その裾からは裸の足が見えています。
聖母と幼子イエスはともに頭に冠を被り、厳粛な面持ちで巡礼者を直視しています。顔を真正面に向け、像の前に立つ礼拝者と対話して救いに導くのも、ロマネスク時代の聖像に共通した特徴です。
ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュはまた、その縁起においても、ロマネスク色が非常に濃い聖母子像といえます。巡礼の時代であったロマネスク期において、広く尊崇を集めた聖像には、ふたつの基本的なパターンがありました。ひとつは像のなかに収納された聖遺物によって崇敬される場合、もうひとつは人間の手によって作られたものではないとされる像が崇敬される場合です。羊飼いによって発見された「ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ」は後者にあたります。
「ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ」は癒し(salut)の聖母として病者の崇敬を集めていますが、フランス語のサリュ(salut)には「救い」の意味もあります。「ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュ」は癒しの聖母、救いの聖母として現在でも主祭壇の上に安置され、崇敬を集めています。
ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュは、二十世紀になってアルビの彫刻家ラウル・ヴェルニュ(Raoul Vergnes)により、忠実な木製レプリカが制作されました。ルスキュル=ダルビジョワのサン=ピエール教会(l'Église
St-Pierre)にあるフレスコ画の修復を行ったロシア生まれの画家ニコラス・グレシュニイ(Nicolas Greschny)も、ノートル=ダム・ド・ラ・ドレシュを描いたフレスコ画を制作しています。
(下) ルスキュル=ダルビジョワ サン=ピエール教会のフレスコ画
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