ノートル・ダム・ド・サンタ・クルス(サンタ・クルスの聖母)
Le Sanctuaire de Notre-Dame de Santa Cruz, Oran et Nîmes




(上) La Basilique de Notre-Dame de Santa Cruz, Oran, Algerie

 ノートル・ダム・ド・サンタ・クルスはアルジェリアのオランからフランスのニームに運ばれた聖母像で、オラン出身者とその子孫をはじめ、フランス各地のピエ・ノワールの崇敬を集めています。


【アルジェリア】

 1849年9月21日、アルジェリア北西部の大都市オラン (Oran) でコレラが発生しました。コレラは瞬く間に広がって、9月25日には病院が患者を収容しきれなくなり、オラン市はフランス軍の助けを借りて市内各所に臨時の病院を設置しましたが、その後も患者は増え続け、10月14日以降は爆発的な流行となって、10月14日から31日までの死者数 1772人を数えました。病院で働く修道女たちも過労に倒れ、女子修道会長のメール(マザー)・ウジェニー・ベロンも過労のために亡くなりました。

 万策尽き果てた状況のなか、当時アルジェリアに駐屯していたフランス軍准将、ペリシエ (Aimable Jean Jacques Pélissier, duc de Malakoff, 1794 - 1864) の提案により、聖母の行列を行うとともに、サンタ・クルスの丘の上に、コレラを海に投げ捨てる聖母の像を立てることになりました。

 11月4日、軍と市の主だった人々全員が参加した聖母の行列が聖ルイ教会を出発し、「主よ、汝が民を赦したまえ」と唱えながらオランの市中を練り歩いて丘の中腹の平坦地まで登りました。そしてそこにしつらえた臨時の玉座に聖母を安置し、人々はその前に身を投げ出して「救いの聖母よ、我らを憐れみたまえ。救いたまえ」と熱心に祈ったのでした。行列が再び歩み始めたそのとき、突然雨が降り始め、まもなく土砂降りになりました。待ちに待った恵みの雨です。これで市中は洗い流され、清潔な飲料水も確保できます。数日後、オランにおけるコレラの流行は終わりました。11月9日発行のオランの新聞「エコー」(l'Echo) は、「神に感謝 コレラ終息」 ("Grâce à Dieu, L'Épidémie A Cessé") と報じました。

 この出来事の後、オランでは聖母に捧げた礼拝堂を建てることになり、第二代アルジェ司教パヴィ師 (Louis-Antoine-Augustin Pavy, 1805 - 1866) のすすめでペリシエ准将を会長とする委員会が組織されました。また寄付が募られて、多額の献金と資材や労働力の提供など、多くの寄付がすぐに集まりました。奇跡が起こっておよそ2ヵ月後の 1850年1月20日には、サン・グレゴワール砦とサンタ・クルス砦の中間にある岩山に、カトリック教会のための用地 560平方メートルが確保されました。

 聖地の建設は最初に大きな難題にぶつかりました。聖堂建設予定地である標高 400メートルの岩山に通じる道が無かったのです。18世紀にはスペインがサンタ・クルス砦を同様の場所に建設しようと試みましたが、建築資材や皮袋に入れた水も人力で担ぎ上げるしかなく、やはり完成できずに放棄されていました。したがって岩山の上に聖堂を建設するためにはまず最初に、爆薬で岩を崩したり盛り土をしたりして、岩山を巡る勾配の緩やかな道を建設する必要がありました。

 この道が完成すると、続けて聖堂の建設が始まり、1850年4月には建物の外郭が完成して、5月9日、聖母被昇天の祝日に献堂式が行われました。この日はオランの市民たちが総出で集まり、鐘が鳴り響く中、花で埋め尽くした玉座に据えた「救いの聖母」(Notre-Dame de Salut) 像を先頭に、パヴィ司教、司祭たち、市と軍の主だった人たち、市民たちが行列を作り、聖ルイ教会から山上の聖地までの道のりを歩きました。岩山の途中で道が細くなると聖母像は輿から下ろされ、屈強な漁師たちの肩に担がれて山上を目指しました。聖母像が聖地に到着すると祈りが捧げられ、パヴィ司教によって、オランを守護する聖母像が据え付けられたのでした。

 この最初の聖堂は急造の建物であったせいか 1851年3月8日に倒壊してしまったのですが、直ちに再建され、5月の聖母被昇天祭が祝われました。1873年から74年にかけて、大きな聖母像を頂上に取り付けた塔が聖地に加わります。

 古い絵葉書から

 オランを守護する聖母は「サンタ・クルスの聖母」(Notre-Dame de Santa Cruz) と呼ばれるようになり、定期的な巡礼が行われるようになりました。1949年に挙行された「雨の奇跡 100年祭」にはオラン市民がこぞって参加しました。


【フランス】

 ニームのノートル・ダム・ド・サンタ・クルス

 1954年から62年まで続いたアルジェリア戦争では、約100万人のフランス系アルジェリア人(ピエ・ノワール)がアルジェリアを脱出しました。1963年9月、フランス南東部ラングドック=ルシヨン地域圏ガール県のニームにも約1200人のピエ・ノワールが移住しましたが、その9割以上がオラン出身者でした。彼らはニーム司教ルジェ師 (Mgr. Pierre-Marie Rouge, 在職 1963 - 1977) のもとでニーム在来の市民たちと融和して新しい教区を作ることとなり、ニームの司祭を筆頭に、1963年11月5日、全仏ノートル・ダム・ド・サンタ・クルスの会 (L'Association Natoinale des Amis de Notre Dame de Santa Cruz) が結成されました。

 オラン出身のピエ・ノワールたちが最も望んだのは、自分たちの守護の聖母ノートル・ダム・ド・サンタ・クルスをニームに運ぶことでした。1964年にはニーム司教ルジェ師とオラン司教ラカスト師 (Mgr. Bertrand Lacaste, 在職 1945 - 1972) に働きかける運動が行われ、ラカスト師はオランの聖堂内部に安置されていた聖母像をニームに運ぶことに同意しました。その結果、聖母像は 1965年にフランス海軍の手でフランスに運ばれました。

 ニームでは聖地建設の用地として市内の丘上に 5,000平方メートルの土地が用意され、1969年3月20日、聖堂が献堂されました。さらに 1972年にはグロット、1989年には6つの鐘のカリヨンが建設されて今日に到っています。またノートル・ダム・ド・サンタ・クルスの聖母像は各地にあるピエ・ノワールのコミュニティを巡回しています。




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