モン=サン=ミシェル修道院の歴史

4. モン=サン=ミシェルの衰退 (16世紀から19世紀)



 フランスにおいては、教皇レオ10世 (1475 - 1513 - 1521) と国王フランソワ1世 (François I, 1494 - 1515 - 1547) の間で1516年に結ばれたボローニャ協約 (Le concordat de Bologne) により、フランス国内の高位聖職者の任命権を国王が完全に掌握しました。この制度を「ガリカニスム」(Gallicanisme) と呼びます。




(上) Jean Clouet (1475 - 1540), François Ier, roi de France, v. 1530, huile sur panneau de chêne, 96 x 74 cm, Musée de Louvre, Paris


 ガリカニスムの下(もと)では、封建領主が封臣に対し、修道院を封土として付託することが珍しくありませんでした。俗人である封臣が修道院を受封して、修道院長になることもありました。

 聖職者であると俗人であるとにかかわらず、受封によって院長となった者の多くは修道院経営から得られる利潤のみを追求し、修道院の宗教活動には関心が無く、出費を伴う建物の営繕(えいぜん)にも消極的でした。受封による院長を戴く修道院は、物質的搾取によって荒廃しただけでなく、尊敬すべき霊的指導者が不在であるゆえに、修道士たちの士気の低下を招きました。


 14世紀末以来、モン=サン=ミシェルの修道院長は空位でないにせよほとんど常に不在でした。院長が重要な役割を担うベネディクト会修道院にとって、これは望ましいことではありませんでしたが、16世紀に入り、受封による院長を戴くようになると、事態はいっそう悪化しました。

 真面目な聖職者であった第40代モン=サン=ミシェル修道院長アルチュール・ド・コセ=ブリサク (Arthur de Cosse-Brissac, 在位 1570 - 1587) は、修道士たちの風紀を正そうと試みて1574年に命令を発し、院内で猟犬を飼うこと、修道衣の袖口と襟にレース飾りを付けること、絹の服を着ること、口髭と長髪を蓄えること、互いに怪我をさせること、神の名によって誓うこと等を禁じています。しかしこの命令にも効果は無く、次の院長フランソワ・ド・ジョワユーズ (François de Joyeuse, 在位 1588 - 1615) の時代には過半数の修道士たちが妻帯し、子どもを産ませています。

 ちなみに1594年、モン=サン=ミシェルに落雷による火災が発生して、付属聖堂内陣の木造部分と鐘楼が焼失し、それ以上の崩壊を防ぐために速やかな補修が必要となりました。しかし修道院長フランソワ・ド・ジョワユーズは費用を惜しんでこれに手を付けず、裁判所に命じられてようやく重い腰を挙げる有様でした。またこの頃のモン=サン=ミシェル修道院には若い修道士や立願者がいませんでしたが、それは修道士たちの食費を節約して、院長が私腹を肥やすためでした。

 1615年、フランソワ・ド・ジョワユーズの次に修道院長となったのは、ギーズ公アンリ・ド・ロレーヌ (Henri de Lorraine ou Henri II de Guise, 1614 - 1641) です。しかしモン=サン=ミシェル修道院長に就任したとき、アンリはまだ乳児でした。それゆえ院長代理が立てられ、1618年に創立されたベネディクト会内の改革派、サン=モール修道会 (la congrégation de Saint-Maur) の修道士たちが、1622年にモン=サン=ミシェル修道院に加わりました。サン=モール会士たちのおかげで、モン=サン=ミシェル修道院は再び祈りと瞑想の場となり、また神学と歴史の研究が盛んにおこなわれるようになりました。今日モン=サン=ミシェル研究に欠かせないふたつの著作、ドン・ジャン・ユイヌの「モン・サン=ミシェル・オ・ペリル・ド・ラ・メール修道院通史」 (Dom Jean Huynes, "l'Histoire générale de l'abbaye du Mont Saint-Michel au péril de la mer", 1640) と、ドン・トマス・ル・ロワの「モン・サン=ミシェル史」(Dom Thomas Le Roy, "Curieuses recherches du Mont Saint-Michel", 1648) はいずれもこの時期のものです。




(上) サン=モール会本部があるパリのサン=ジェルマン=デ=プレ修道院 (l'abbaye de Saint-Germain-des-Prés)

 サン=モール会士による改革はこのように速やかに実を結びましたが、その後のモン=サン=ミシェル修道院は再び衰退し、18世紀後半には修道士の数もおよそ10名に減りました。1776年の火災後に身廊を短縮して新しいファサードを造りましたが、間を措かずして起きたフランス革命により修道士たちはモン=サン=ミシェルを追われることになります。


・監獄としてのモン=サン=ミシェル

 モン=サン=ミシェル修道院はアンシアン・レジーム期以来、囚人の拘置にも使われていましたが、1791年、フランス革命によってベネディクト会士たちが追放されて修道院としての機能を停止すると、監獄として使われるようになりました。1790年に制定された聖職者基本法 (la Constitution civile du clerge) に従うことを拒んだ300名以上のカトリック司祭が、1793年から1795年の間、ここに拘留され、その後は王党派もここに収監されました。

 政治的反動期である七月王政期(1830 - 1848年)には、政治結社「ラ・ソシエテ・デ・セゾン」(La Societe des Saisons, SDS) に属したマルタン・ベルナール (Martin Bernard, 1808 - 1883)やアルマン・バルベス (Armand Barbes, 1809 - 1870)、カール・マルクスに賞賛されレーニンにも影響を与えた激越な革命家ルイ・オーギュスト・ブランキ (Louis Auguste Blanqui, dit l'Enferme, 1805 - 1881) らがモン=サン=ミシェルに収監されました。


 モン=サン=ミシェルを監獄とすることが正式に宣言されたのは、1811年6月6日、及び1817年4月2日でした。かつて美しい修道院であったモン=サン=ミシェルが監獄になったのは、しかしながら、必ずしも嘆くべきことではありませんでした。もし他の用途への転用がなければ、モン=サン=ミシャエルが解体され、石材として再利用されることは充分にあり得たからです。

 とはいえ、監獄に転用するにあたって、モン=サン=ミシャエルの美しい修道院建築が保護されることはありませんでした。付属聖堂身廊は板で仕切られて婦人用麦藁帽子の製作所となりましたが、1834年に大きな火災が起こりました。付属聖堂以外の建物も保守が為されていなかったため、崩壊する危険がありました。


 ヴィクトル・ユゴー


 ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo, 1802 - 1885) はモン=サン=ミシェルに設置された監獄の存在を嘆き、この囹圄を尊い聖遺物箱に潜むヒキガエルに喩えました。モン=サン=ミシェル監獄は、ユゴーをはじめとする知識人の批判を受け、第二帝政期である 1863年、皇帝ナポレオン3世によって閉鎖されました。




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