モン=サン=ミシェル修道院の歴史

3-3. フランス王権下のモン=サン=ミシェル修道院 百年戦争後半期



 いったんノルマンディーに戻ったロベール・ジョリヴェは、勉学を続けるためと称してすぐにパリに行ってしまいますが、1415年10月25日、アザンクールの戦いでイングランドが圧勝すると、急遽モン=サン=ミシェルに戻り、ル・モン=サン=ミシェルの町、及び修道院の水源を守るために城壁を築きました。

 この頃ノルマンディーはほぼ全域がイングランドの手に落ちており、1419年にノルマンディー東部の都市ルーアンが陥落すると、ル・モン=サン=ミシェルはイングランドに対して抵抗を続ける唯一の町となりました。ヴァロワ朝のシャルル7世はルーアンの北東にあるオマール (Aumale) の侯ジャン8世・ダルクール (Jean VIII d'Harcourt, 1396 - 1424) にモン=サン=ミシェル守備隊長の指揮を任せます。

 1419年、イングランドはトンブレーヌに陣地を構えます。抵抗をあきらめたロベール・ジョリヴェはイングランド側に寝返り、ルーアンに逃れて、ベッドフォード公ジョン・オヴ・ランカスター (John of Lancaster, 1st Duke of Bedford, 1389 - 1435) の顧問になりました。院長の裏切りにかかわらず、モン=サン=ミシェル修道院はフランス(ヴァロワ朝)側に留まりましたが、収入を握るのは院長であったために苦境に立たされ、さらに1421年には付属聖堂の内陣が崩落するという不幸が重なりました。


 ルーアン司教座聖堂


 1423年、イングランドはル・モン=サン=ミシェルへの攻撃を開始して、陸路と海路をともに封鎖しました。ブルターニュ公はイングランドの艦隊を迎え撃つべく、数多くの艦船をル・モン=サン=ミシェルの港に秘密裏に待機させて奇襲攻撃を仕掛けました。イングランド艦隊は良く戦いましたが、互いに横づけにした艦船上での白兵戦となっては、その優れた操船能力を活かすこともできず、総崩れとなりました。

 イングランドとブルターニュ公の衝突が終結した後も、モン=サン=ミシェルの封鎖は続きました。ル・モン=サン=ミシェルの町と岩山の間は遮断され、干潮時に補給が試みられるたびに砂浜で戦闘が行われて犠牲者が出ました。

 モン=サン=ミシェル守備隊長オマール侯ジャン8世・ダルクールが、1424年8月17日のヴェルヌイユの戦いで戦死すると、ジャンヌ・ダルクとともにオルレアンを解放したことで知られるジャン・ド・デュノワ (Jean de Dunois, batard d'Orléans, 1402 - 1468)、続いて 1424年9月2日からはルイ・デストゥトヴィル (Louis d’Estouteville, 1400 - 1464) が司令官を務めました。イングランド側は干潮の度ごとにモン=サン=ミシェルの城壁まで前進し、1425年夏には兵力を増強して総攻撃をかけて来ましたが、成功しませんでした。ルイ・デストゥトヴィルは同年11月、イングランド側を奇襲して甚大な被害を与えています。

 1433年6月17日は大潮でしたが、この日ル・モン=サン=ミシェルの町に火災が起こり、トマス・スケイルズ (Thomas Scales de Newselles, c. 1400 - 1460) が率いるイングランド軍はその混乱に乗じ、射石砲をはじめとする兵器を動員して修道院を攻撃しましたが、モン=サン=ミシェルの反撃はすさまじく、イングランド軍は多数の戦死者を出して退却しました。この日を最後に戦闘が行われることはなくなり、イングランドによる封鎖は解かれて、イングランド軍の以後の活動はトンブレーヌをはじめとする陣地からの監視に留まりました。

 トンブレーヌのイングランド軍陣地は1450年まで存続しましたが、その一方で1435年以降、モン=サン=ミシェル側は巡礼者を受け入れて徐々に勢力を盛り返しました。イングランド側はスパイが紛れ込むことを恐れて、モン=サン=ミシェルへの巡礼を禁じていましたが、後に巡礼者から通行料を徴収して稼ぐように方針を変えました。このためモン=サン=ミシェルへの巡礼は、戦時にもかかわらず再開されました。

 イングランドは 1450年4月15日、フォルミニー(Formigny バス=ノルマンディー地域圏カルヴァドス県)での戦闘で大敗し、8月には全ノルマンディー地方から完全に撤退します。


 1419年にイングランド側に寝返った修道院長ロベール・ジョリヴェが、1444年にルーアンで没すると、1420年以来院長代理を務めてきたジャン・ゴノー (Jean Gonault) が新院長に選出されますが、モン=サン=ミシェル守備隊の司令官ルイ・デストゥトヴィルは国王シャルル7世 (Charles VII, 1403 - 1422 - 1461) を通して教皇に働きかけ、自身の兄弟であるギヨーム・デストゥトヴィル (Guillaume II d'Estouteville, c. 1400 - 1444 - 1483) を新院長に任命させます。ギヨーム・デストゥトヴィルはルーアン大司教をはじめとする数々の要職についており、1439年以来枢機卿でもありました。

 院長ギヨーム・デストゥトヴィルはローマに住まい、モン=サン=ミシェルには1452年に一度訪れただけでしたが、院長の高い地位はモン=サン=ミシェルに有利に働きました。ギヨーム・デストゥトヴィルが仕えた代々の教皇は、モン=サン=ミシェルに巡礼する者、及びモン=サン=ミシェル修道院付属聖堂再建のために喜捨を行う者に贖宥を与えました。このためモン=サン=ミシェルへの巡礼はこれまでになく盛んになり、1447年にはシャルル7世の妃マリー・ダンジュー (Marie d'Anjou, 1404 - 1463) が、1450年にはブルターニュ公フランソワ1世 (François Ier de Bretagne, 1414 - 1450) が、1460年にはブルターニュ公フランソワ2世 (François II de Bretagne, 1433 - 1488) が、1462年、1472年、1473年には国王ルイ11世 (Louis XI, 1423 - 1461 - 1483) が、それぞれ多額の寄進をしています。

 これらの寄進によって、1421年に崩落した付属聖堂内陣の再建工事が行われました。工事は当初順調に進捗しましたが、費用が膨大な額に上ったために枢機卿は工事の中断を命じ、未完の部分は仮屋根で覆われました。工事を再開したのは後の修道院長ギヨーム・ド・ラン (Guillaume de Lamps, 在位 1500 - 1511) で、付属聖堂内陣の再建が完了したのは修道院長ジャン・ド・ラン (Jean de Lamps, 在位 1514 - 1523) のときでした。




モン=サン=ミシェル修道院 概説のインデックスに戻る


フランスの教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに戻る

諸方の教会と修道院 ローマ・カトリック インデックスに移動する


キリスト教に関するレファレンス インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する

キリスト教関連品 その他の商品とレファレンス 一覧表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する