モン=サン=ミシェル修道院の歴史

3-1. フランス王権下のモン=サン=ミシェル修道院 フィリップ尊厳時代の大火とラ・メルヴェイユ建設


 1204年、カペー朝の王フィリップ2世 (Philippe II, dit Philippe Auguste, 1165 - 1223) は、ノルマンディーを含む領地を有していたプランタジネット朝イングランド国王ジョン (Jean d'Angleterre, dit Jean sans Terre, 1166 - 1216) からフランス本土の領地を奪うことを計画します。いちはやく降伏してフィリップ2世側に寝返ったブルターニュ公ギィ・ド・トゥアル (Guy de Thouars, + 1213) は、400人の槍兵を率いてル・モン=サン=ミシェルの町を攻撃し、男女長幼に関わりなく住民を皆殺しにしました。しかしモン=サン=ミシェル修道院を陥落させることはできず、ギィは町に火を放ったうえで撤退しました。ギィの軍が放った火は延焼して修道院に達して燃え広がり、モン=サン=ミシェルを焼き尽くしました。

 臣下による暴挙のせいで魂の救いを失うことを恐れた国王フィリップ2世は、モン=サン=ミシェル修道院の再建のために、時の修道院長ジュルダン (Jourdain du Mont, 在位 1191 - 1212) に多額の寄進をしました。ジュルダンの後を襲ったラウル・デ・ジール (Raoul des Isles, 在位 1212 - 1218) はふたたび緩みかけていた修道院の規律を正し、今日「ラ・メルヴェイユ」(La Merveille 「驚くべき建物」の意)と呼ばれている部分を建てました。モン=サン=ミシェルの北側にあるノルマン・ゴシック様式の建物がこれにあたります。


 1204年の大火以来、モン=サン=ミシェルは経済的安定を取り戻しており、ラ・メルヴェイユの建設はラウル院長が健康上の理由で退いた 1228年までの短期間で実質的に完了しました。メルヴェイユの東半分は下から順に修道士の居住区、来客用の部屋(1215 - 1217年)、食堂(1217 - 1220年)の三層に分かれています。西半分は東半分の完成後に建設され、下から順に食糧貯蔵室、ラ・サル・デ・シュヴァリエ(la salle des Chevaliers 騎士たちの部屋 1220 - 1225年)、廻廊(1225 - 1228年)の三層に分かれています。


 完結した廻廊


 廻廊は通常は修道院の中央部分にあって、修道院内の各部分を連絡する役割を果たしていますが、モン=サン=ミシェルの廻廊はその二辺が海上の空中に向かって開いており、修道院各部を連絡する役割を果たしていません。したがってモン=サン=ミシェルの廻廊は瞑想のためにのみ存在しているということができます。




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