モン=サン=ミシェル修道院の歴史  1. キリスト教以前から最初期まで


 ガロ・ロマン期において、この辺りからアヴランシュ(Avranches マンシュ県)にかけての地域は、ケルタエ (CELTAE) の一部族、アブリンカトゥイー (ABRINCATUI) の居住地でした。4世紀頃キリスト教が伝わると、岩山はアブリンカトゥイーのキウィタース(註1)を踏襲したアヴランシュ司教区に編入されました。

 キリスト教がこの地に本格的に根付いたのはネウストリア時代の6世紀で、この頃岩山はモン・トンブ (Mont Tombe) と呼ばれていましたが、ここにあるふたつの礼拝堂を中心に、隠修士たちが棲み付くようになりました。

 12世紀のモン=サン=ミシェル修道院にいたベネディクト会士ギュイヨーム・ド・サン=ペール (Guillaume de Saint-Pair) によると、ふたつの礼拝堂のうち、ひとつは最初の殉教者聖ステファノ (St. Etienne, + c. 34) に捧げられており、岩山の中腹にありました。もうひとつはガリアにおける最初の殉教者、オータンの聖シンフォリアヌス (St. Symphorien d'Autun, + 178) に捧げられ、岩山の麓にありました。

(下) Charles Mellin (1598/99 - 1649), La lapidation de Saint Etienne, l'huile sur toile, 189 x 283 cm, Eglise Saint-Etienne, Caen



(下) Jean Auguste Dominique Ingres, Martyre de saint Symphorien, Cathédrale d'Autun




 隠修士たちに必要な物は、岩山の南西にある町アステリアク(Asteriac 現在のボーヴォワール Beauvoir)の主任司祭がロバで運んできました。伝承によるとこのロバはオオカミに食べられてしまったのですが、オオカミは悪事の報いとしてロバの代わりに荷物を運ばせられたといわれています。(註2)


 大天使の聖地モン=サン=ミシェルの縁起については、10世紀のベネディクト会士による文献「聖ミカエルの教会の啓示」("REVELATIO ECCLESIAE SANCTI MICHAELIS") に伝えられています。同書によると、アヴランシュ司教であった聖オベール (St. Aubert d'Avranches, + c. 725) は、708年、大天使聖ミカエルが自らに捧げた聖所を設けるように命じる夢を三度見ました。二度までは夢のお告げに従いませんでしたが、三度めには頭に大天使の指の痕が付いていたので、聖オベールはようやくお告げを信じました。どこに聖所を造るべきかを聖オベールが大天使に訊ねたところ、盗まれた牛がその徴(しるし)になる。牛が踏みならした場所をすべて聖所にせよとのことでした。

 聖オベールはモン・トンブに登って聖所の建設に取り掛かりましたが、ドルメンと思われる二個の巨石を取り除くことができませんでした。大天使は近くのイティウス(Itius 現在のユイヌ=シュル=メール Huisnes-sur-Mer)に住むバン (Bain) という名の男に現れ、彼に命じて12人の息子とともにモン・トンブに行かせ、巨石を取り除かせました。巨石はいちばん幼い息子が足を触れると、簡単に覆(くつがえ)ったと伝えられます。


 二個の巨石を取り除いた後、聖所の建物の形について聖オベールが決めかねていたところ、建物が建つべき場所にのみ露が降りないという奇蹟が起こりました。聖オベールは南イタリア、モンテ・ガルガノの洞窟に似せて天井の低い聖堂を造り、ミカエルの徴あるいは聖遺物を求めて隠修士たちをモンテ・ガルガノに遣わしました。隠修士たちはモンテ・ガルガノで二点の聖遺物、すなわち出現した大天使が残した赤いマントの断片と、大天使が足を置いた岩のかけらを手に入れて、モン・トンブに持ち帰りました。聖オベールはこれらを新聖堂に安置して、709年10月16日、この聖堂を祝別しました。大天使ミカエルに仕えるため、聖堂には12人の聖職者が置かれました。聖堂はその後カロリング時代に建て増しされ、その周囲に聖職者たちの居室が設けられました。

 大天使ミカエルの聖所モン・トンブはすぐに広く知られるようになり、年代記にはモン・トンブ、及びこの北数キロメートルにあるサン=マロ湾内のもうひとつの岩山トンブレーヌ (Tombelaine) に多数の巡礼者が訪れたことが記されています。確認しうる最古のものとしては、ローマ、モンテ・ガルガノ、エルサレムを巡ったベルナールという人が、867年頃にモン・トンブを訪れた記録が残っています。


(下) モン=サン=ミシェルのシャペル・サン・トベール (la Chapelle St. Aubert 聖オベール礼拝堂 12世紀) に立つ聖オベール像




 なお岩山モン・トンブはミカエルの聖所が建設されたことがきっかけで名を改め、「海難からの守護天使聖ミカエルの山」を意味する「モン=サン=ミシェル=オ=ペリル=ド=ラ=メール」(Mont-Saint-Michel-au-péril-de-la-Mer) と呼ばれるようになりました。モン=サン=ミシェルにおいてこの時期に大天使ミカエルの信仰が導入された背景としては、この時期、この地方において異教が一時的に勢力を盛り返した可能性が挙げられます。

 9世紀はノルマン人がフランスに侵攻した時代ですが、モン=サン=ミシェルがノルマン人によってどの程度の被害を受けたかについて、同時代の資料に記述はありません。この時代、ノルマンディーの他の聖所はこぞって南に退避しましたが、モン=サン=ミシェルにある大天使の聖遺物は移動されなかったことがわかっています。


 もともとの聖堂ノートル=ダム=ス=テールは、こんにちの修道院付属聖堂の身廊地下に位置し、モンテ・ガルガノから得た聖遺物を安置するとともに、聖オベールの墓所ともなっています。大天使の指痕が付いた聖オベールの頭は、現在アヴランシュ司教座聖堂サン=タンドレに安置されています。




註1 ガロ=ロマン期のガリア住民(ケルト人)は400ないし500の部族に分かれ、それらが「キウィタース」と呼ばれる50ほどの連合体を形成していました。後代の司教区や行政区の多くは、このキウィタースにしたがって設けられています。

註2 このオオカミの説話に類する伝承は、ジュミエージュ(Jumièges ノルマンディー地域圏セーヌ=マリティーム県)において654年頃に創建されたベネディクト会修道院サン=ピエール (L'abbaye Saint-Pierre de Jumièges) にも伝わっています。




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