ノートル=ダム・ドルシヴァルのバシリカ
La basilique Notre-Dame-d'Orcival, Orcival, Puy-de-Dôme, Auvergne





 オルシヴァル (Orcival, Puy-de-Dôme, Auvergne) はクレルモン=フェラン (Clermont-Ferrand) から南西に27キロメートル離れた谷間に位置するコミューヌです。ここには有名な聖母子像を安置する聖堂、ノートル=ダム・ドルシヴァルのバシリカ (La basilique Notre-Dame-d'Orcival) があり、オルシヴァルはこの聖堂を中核に発展してきました。


【オーヴェルニュの「レ・マジュール」】

 ガロ=ロマン期のクレルモン周辺は、住民の呼び名アルウェルネース (Arnerves) をもとに、アルウェルニス (Arvernis) またはアルウェルヌム (Arvernum) と呼ばれるキウィタース(civitas 註1)でした。このキウィタースにある五箇所の主要なロマネスク聖堂を「レ・マジュール」(les Majeures) と呼び、いずれも美しいロマネスク聖堂として高く評価されています。

 「レ・マジュール」に含まれる聖堂は次の通りで、いずれもピュイ=ド=ドーム県に位置します

・クレルモン=フェラン郡クレルモン=フェラン(旧クレルモン)にあるノートル=ダム=デュ=ポールのバシリカ (La basilique Notre-Dame-du-Port)
・クレルモン=フェラン郡オルシヴァル (Orcival) にあるノートル=ダム=ドルシヴァルのバシリカ (La basilique Notre-Dame-d'Orcival)
・クレルモン=フェラン郡サン=サチュルナン (Saint-Saturnin) にあるサン=サチュルナン聖堂 (L'église de Saint-Saturnin)
・イソワール郡サン=ネクテール (Saint-Nectaire) にあるノートル=ダム=デュ=モン=コルナドール聖堂 (L'église Notre-Dame-du-Mont-Cornadore)
・イソワール郡イソワール (Issoire) にある修道院付属聖堂サン・オストルモワーヌ (L'église abbatiale Saint-Austremoine)

 なおクレルモン=フェランの60キロメートル南、オート=ロワール県ブリウード郡ブリウード (Brioude) にあるサン=ジュリアンのバシリカ (La basilique Saint-Julien) を加えた六箇所を、「レ・マジュール」と呼ぶこともあります。



【知恵の座の聖母 ノートル=ダム・ドルシヴァル】



 ノートル=ダム・ドルシヴァル(Notre-Dame d'Orcival オルシヴァルの聖母)は 1170年頃に製作されたクルミ材の木身像で、打ち出しと彫金で飾った生地の銀、及び金箔を施した銀を被せています。顔の彩色は製作当時のままです。右手は17世紀の作品で、銀の袖にクレルモンの銀細工師フランソワ・セリエ(Francois Cellier, 1745 - 1785) の刻印があります。左手は右手よりも新しいものです。1959年に修復作業が行われた際、銀の板で被われた聖母の背中に、もともとは小さな窪みが設けられていたことが分かりました。おそらく聖遺物を入れるためであったと思われます。

 ノートル=ダム・ドルシヴァルは玉座に座して、幼子イエズスを膝に乗せ、非常に大きな手でイエズスを包み込むようにしています。ロマネスク様式の聖母子像の常として、ふたりは互いに向き合うことなく、いずれも正面、すなわち礼拝者のほうを直視しています。膝の上のイエズスは本を広げており、ノートル=ダム・ドルシヴァルが「知恵の座」(SEDES SAPIENTIAE) の聖母と呼ばれるタイプの像であることがわかります。オーヴェルニュにおけるこの型の聖母像は、946年にクレルモン司教が発注して作らせた「金の聖母」(Vierge en or) と考えられています。


 ノートル=ダム・ドルシヴァルはノートル=ダム・ド・デリヴランス(Notre-Dame de Délivrance 解放の聖母)としても崇敬を受けており、聖堂にはノートル=ダム・ドルシヴァルの執り成しによって解放された囚人のエクス・ヴォートー(ex-voto 感謝の奉献物)である鎖が飾られています。




 ノートル=ダム・ドルシヴァルは 1894年5月3日に戴冠しました。年に一度、聖母被昇天の祝日に聖母の行列が行なわれる際、聖母子は冠とガウンを身につけます。


【ノートル=ダム・ドルシヴァルのバシリカの歴史】

 六角形のフランス国土の西北端、英仏海峡に面するブルターニュ半島の町ポン=ラベ(Pont-l'Abbe ブルターニュ地域圏フィニステール県)にあった聖母マリアの聖遺物が、ノルマン人による略奪を避けるために、878年、遠く離れたオルシヴァルに運ばれ、この地に巡礼者が集まるようになりました。

 ノートル=ダム・ドルシヴァルの聖堂建設は12世紀初頭に始まりました。聖堂の立地は谷の斜面で、西側の山肌を削り、東側に土盛りをする大工事でしたが、聖堂全体の建築様式に統一性があるので、工事は速やかに進捗したことがわかります。

 この聖堂が文献に初出するのは1166年で、この年、ラ・シェーズ=デュ(La Chaise-Dieu オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県ブリウード郡)の修道院がその所領を管理するために、オルシヴァルに小修道院を設置するにあたり、オーヴェルニュ伯ギュイヨーム7世 (Guillaume VII, comte d'Auvergne, + 1169) とその封臣マチュ (Matthieu) が、聖堂を寄進した記録が残っています。最後に建設されたのは聖堂の鐘楼で、その様式から12世紀末のものと考えられています。

 1170年頃にはノートル=ダム・ドルシヴァル(Notre-Dame d'Orcival オルシヴァルの聖母)が製作され、1245年には聖母の名を冠した聖堂参事会が組織されました。この頃の聖堂参事会員は24人を数えています。

 15世紀に地震で鐘楼の尖塔が損壊した際に補修が行われ、また16世紀に火災で屋根が損傷し、瓦葺きから石板葺きに変わりました。聖堂の下部は創建時の姿を保っています。

 聖堂内部には特に17世紀以降、後陣のタピスリー(壁掛け飾り)や金銀の細工もの、エクス・ヴォートーなど、さまざまな装飾が付け加えられました。しかしながらそのほとんどはフランス革命期に散逸してしまいました。

 19世紀になってロマネスク建築が注目されるようになるとオルシヴァルの聖堂の評価も高まり、1840年には文化財 (monument historique) に指定されました。オルシヴァルの聖堂は 1894年に小バシリカとなり、その後修復工事が行われて、1958年に新たに献堂式が行われました。


【ノートル=ダム・ドルシヴァルの聖堂建築】

 上でも述べたようにノートル=ダム・ドルシヴァル聖堂の立地は谷の斜面で、西側の山肌を削り、東側に土盛りをして建てられています。聖堂西側は半地下になっているために、入り口は翼廊の南北端に設けられています。




 通常のロマネスク建築において、西構えと身廊の間には構造的な断絶がありますが、ノートル=ダム・ドルシヴァル聖堂の西側には塔が無く、西構えと身廊は少なくとも上層部においては連続した構造になっています。屋根も身廊から西側の切妻まで一続きに葺かれています。


 東側において、外部の構造は内部の構造をそのまま反映しています。すなわちクリプト(地下聖堂)の東側は地上に露出していますし、周歩廊を囲む四つの小祭室 (absidioles) の形状、内陣 (chœur) と後陣 (abside) の区別も外観から見てとることができます。交差部に設けられた鐘楼は、聖堂の他の部分とバランスが取れていてたいへん美しく、技術面においてもロマネスク建築の傑作ということができます。この鐘楼はフランス革命期にも破壊を免れ、19世紀に尖塔が改築されて現在に至っています。

 半地下のクリプトは半円形で、四つの放射状祭室を有します。クリプトの天井は交差穹窿ですが、周歩廊の天井は平たい石板となっています。




 クリプトの真上にあたる地上部分の構造はクリプトと同様で、ベイひとつぶんの方形の内陣に半円形の後陣が接し、その外側に周歩廊と四つの放射状祭室が設けられています。






註1 ガロ=ロマン期のガリア住民(ケルト人)は400ないし500の部族に分かれ、それらが「キヴィタース」と呼ばれる50ほどの連合体にわかれていました。後代の司教区や行政区の多くは、このキヴィタースにしたがって設けられています。

註2 「西構え」(仏 massif occidentale, massif anterieure 独 Westwerk 英 westwork)とはカロリング期からロマネスク期にかけての聖堂にみられる西側正面の構造で、二基の塔を置き、内部には拝廊 (vestibule) と礼拝堂に加えて、身廊を見下ろす多層のギャラリーを設けます。



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