ブリュージュの尊き御血のバシリカ
De Heilig-Bloedbasiliek, La Basilique du Saint-Sang de Bruges
ブリュージュの尊き御血のバシリカ (De Heilig-Bloedbasiliek, La Basilique du Saint-Sang
de Bruges) はフランドル伯ティエリ (Thierry d'Alsace, Diederik van de Elzas, c. 1099
- 1168) が城内に建てた礼拝堂を起源とし、伯が聖地からもたらしたとされる聖遺物「イエズス・キリストの御血」を安置していることで知られています。
尊き御血のバシリカは、建築時期が異なるふたつの礼拝堂、サン=バジル礼拝堂と尊き御血の礼拝堂に分かれています。これらふたつの礼拝堂は、1923年、ともに小
バシリカとされました。
【サン=バジル礼拝堂】
最初に建てられたのはサン=バジル礼拝堂あるいは下の礼拝堂 (la chapelle Saint-Basile, ou chapelle basse)
と呼ばれる部分で、フランドル伯ティエリにより、1134年から 1149年にかけて建設されました。サン=バジル礼拝堂は半円形祭室を備えた三廊のバシリカ式建築で、ウェスト=フランデレン州唯一のロマネスク聖堂です。現在でも建築当初の状態をよく保っています。
この礼拝堂にはカイサリアの聖バシレイオス (St. Basilius Caesariensis, c. 330 - 379) の聖遺物が安置されています。この聖遺物は、第一回十字軍(1095 - 1099年)に参加したフランドル伯ロベール2世 (Robert Ie Hierosolymitain, Robrecht II van Jeruzalem, c. 1065 - 1111) によって東方からもたらされたものです。
【「尊き御血の礼拝堂」と、聖遺物「キリストの御血」】
サン=バジル礼拝堂の階上には「尊き御血の礼拝堂」があり、聖遺物「キリストの尊き御血」が安置されています。これはもともと13世紀にロマネスク様式で建造された礼拝堂ですが、15世紀末にゴシック様式による改築が行われました。フランス革命の際に破壊されましたが、1823年にネオ・ゴシック様式によって再建されました。
聖遺物「キリストの御血」は、ニコデモとともにイエズス・キリストを埋葬したアリマタヤのユセフが、キリストの遺体から滲み出た血を保存していたものとされており、もともとコンスタンティノープルの東ローマ皇室が所蔵していました。
聖遺物は金の糸と赤い封蝋で封印されたロック・クリスタル(無色の水晶)製の香水瓶に入れられ、さらにガラス製円筒に収納されています。ガラス製円筒の両側は王冠の形をした宝石付きの金の蓋で閉じられ、1388年3月3日の日付が刻まれています。
キリストの血はふだん凝固していますが、キリスト昇天の祝日には液体に戻るとされており、毎年この日に行われる大規模な宗教行事「尊き御血の行列」において巡礼者に顕示されます。行列の際に使われる聖遺物の顕示台は、ブリュージュの金細工師ヤン・クラッベ
(Jan Crabbe) が3年がかりで製作した1617年の作品で、30キログラム以上の金銀と100個以上の宝石が使用されています。
この「キリストの御血」は、伝承によると、フランドル伯ティエリがエルサレムからもたらしたということになっています。
フランドル伯ティエリは生涯に4度、聖地を訪れています。2度目に訪れたのは第二回十字軍 (1147 - 1149年)に参加してのことでした。このときティエリはエルサレム王ボードワン3世
(Baudouin III de Jerusalem, 1131 - 1143 - 1162) によるダマスクス攻略戦に参加しました。
ダマスクス攻略戦において、ボードワン3世軍はわずか4日で敗走し、結局ダマスクスを攻略することはできませんでした。しかしティエリはこの戦いでの武勇を認められて、エルサレム総主教の承認の下、ボードワン3世から「イエズス・キリストの御血」を与えられました。聖遺物はこのような経緯で
1150年4月7日にブリュージュにもたらされたといわれています。
しかしながらブリュージュの聖遺物「イエズス・キリストの御血」に関する記録は 1256年よりも以前に遡ることができません。それゆえこの聖遺物がブリュージュにもたらされたのは第二回十字軍のときではなく、第四回十字軍(1202
- 1204年)のときであろうと考えられています。
第四回十字軍によりラテン帝国が建国された当時、コンスタンティノープルのブラケルナイ (Blachernae) 宮殿内にあった生神女礼拝堂 (Theotokos
ton Blachernon) には聖遺物「キリストの御血」が安置されていました。フランドル伯ボードワン9世 (Baudouin IX, 1172
- 1206) は初代ラテン帝国皇帝に選ばれ、ボードワン1世(在位 1204 - 1206)を名乗りましたが、ラテン皇帝となったボードワン1世が、当初ブリュージュに残してきた妻マリ、あるいは最後までブリュージュに残って彼の代わりに伯領を治めることになる二人の娘ジャンヌ
(Jeanne de Constantinople, Comtesse de Flandre et Hainaut, 1199 - 1244)
とマルグリット (Marguerite de Constantinople, comtesse de Flandre et de Hainaut,
1202 - 1280) のもとにこの聖遺物を送ったことは、十分にありえます。事実、キリストの御血の聖遺物容器はコンスタンティノープルで製作されたものです。
ちなみにコンスタンティノープルのブーコレオン (Boucoleon) 宮殿内にあったパロス (Pharos) 礼拝堂にも、キリストの聖遺物が多数安置されていました。これはキリスト教世界最大のコレクションで、キリストの衣、サンダル、弟子の足を拭いた布、汗をぬぐった布、キリスト受難の鞭、十字架の破片、釘、茨の冠、海綿、槍、キリストの血、遺体を包んだ布、聖墳墓の岩石片、キリストの顔が写った布(マンデュリオン
Mandylion)、マンデュリオンから奇跡により顔が転写された陶片(ケラミオン Keramion)の他、聖母マリアのヴェールと洗礼者ヨハネの首を含んでいました。
パロス礼拝堂の聖遺物は大切に秘蔵されていたので、コンスタンティノープルの陥落後もしばらくの間無事でしたが、第6代ラテン帝国皇帝ボードワン2世
(Baudouin II, 1217 - 1273 在位 1228 - 1261) は、1239年から 1242年の間に、これらのうち 22点を、自身の親類であり聖遺物収集に熱心であった
フランス王ルイ9世 (Louis IX, 1214 - 1226 - 1270) に送っています。(註) この例からも、現在西ヨーロッパにある聖遺物には、第四回十字軍当時にコンスタンティノープルから持ち出されたものが多数含まれることがわかります。
ブリュージュの「尊き御血のバシリカ」に安置されているキリストの血は、毎週金曜日のミサの前後、及びキリスト昇天の祝日(復活祭の4日後)の2週間前から毎日開帳されます。キリスト昇天の祝日に、キリストの血は液体に戻るとされており、この日は3000人以上が参加する宗教行事「尊き御血の行列」が行われます。「尊き御血の行列」には毎年5万人もの巡礼者が訪れます。
註 サント・シャペルに安置されていたこれらの聖遺物は、フランス革命の時に大部分が破壊されましたが、ルイ9世が各地の教会に贈った物は現在も残っています。
たとえばトレド司教座聖堂には聖母の乳汁、幼子イエズスのおしめの細片、弟子たちの足を拭った布の細片、十字架の細片、茨の冠の細片、紫色の外套の細片、キリストの遺体を包んだ布の細片が贈られました。
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