極稀少品 カトリックの長姉なるフランス 《ローマ共和国とガリバルディを打ち負かす勝利の聖母》 ウルトラモンタニストの銀製メダイ 25.4 x 16.9 mm 1849/1853年


突出部分を含むサイズ 縦 25.4 x 横 16.9 mm

フランス  1849年または 1853年



 「罪人の避け所」(le Refuge des pécheurs)として崇敬を集める聖母子、ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール(Notre-Dame des Victoires 勝利の聖母)のメダイ。十九世紀半ばのフランスで制作された銀無垢の作品です。

 上部に突出した環状部分に、「テト・ド・サングリエ」(tête de sanglier イノシシの頭)が刻印されています。テト・ド・サングリエはパリ造幣局の検質印で、純度八百パーミル(800/1000 八十パーセント)の銀を表します。





 十六世紀半ば、宗教改革に続いて起こったフランス国内の宗教戦争は、1598年に発布されたナント勅令で一応の終結を見ました。しかしながらカトリックであるフランス国王側の勢力と、ユグノー(プロテスタント勢力)の間には、十七世紀に入っても緊張関係が続きました。ルイ十三世の時代、ユグノーの橋頭堡であった港湾都市ラ・ロシェル(La Rochelle ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏シャラント=マリティーム県)では、1627年から1628年にかけて攻囲戦が行われ、激しい戦闘の後に、リシュリュー枢機卿の率いる国王軍が勝利しました。

 一方、この頃パリに三ヘクタールの用地を取得した跣足アウグスチノ会 (Ordo Augustiniensium Discalceatorum, O. A. D.) は、修道院建設費用の寄進をルイ十三世に願い出ました。国王はラ・ロシェル攻囲戦の勝利を記念して、修道院付属聖堂を「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」(仏 Notre-Dame des Victoires 勝利の聖母)と名付けることを条件に、寄進の要請に応じました。このような経緯で、修道院付属聖堂ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール(勝利の聖母教会)が誕生しました。




(上・参考画像) ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール 戴冠記念カニヴェ (ブアス=ルベル 図版番号896) 1853年 当店の販売済み商品


 1670年代になって、聖堂の祭壇には「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」(Notre-Dame de Savone フランス語で「サヴォーナの聖母」)像が安置されました。「サヴォーナの聖母」は 1536年にサヴォーナ近郊の小村に出現した憐みの聖母(マドンナ・デッラ・ミゼリコルディア)で、当時交戦中であったジェノアとサヴォーナの人々に「正義ではなく慈悲」("misericordia e non giustizia")を求めました。

 しかるに「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」像はフランス革命期の 1796年に破壊されてしまいました。破壊された「ノートル=ダム・ド・サヴォーヌ」に代わって 1809年に安置されたのが、聖堂と同名の聖母子像「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」です。聖母子像「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」はイタリア人彫刻家の作品で、世界球上の幼子イエスの傍らに、優しい表情の聖母が立っています。聖母は幼子イエスを両腕で抱き、優しく寄り添っています。


 「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」は、十九世紀のフランス教会史において大きな役割を果たしました。その影響力は日本にも及び、幕末から明治初年にかけての取り締まりで浦上キリシタンから没収されたノートル=ダム=デ=ヴィクトワール像が、東京国立博物館に収蔵されています。




(上) 東京国立博物館収蔵のノートル=ダム・デ・ヴィクトワール 高さ九十四ミリメートルの石膏製小像


 このように有名な聖母子像であるにもかかわらず、「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」のメダイは数が少なく、滅多に手に入りません。また筆者(広川)がこれまでに手にした数点は、メダイの浮き彫りがすべて実際の聖母子像を模(かたど)っています。しかしながら本品のノートル=ダム・デ・ヴィクトワールは歩く姿で表現されており、異例中の異例といえる作例です。

 本品の聖母の背景には、アペニン山中の町の風景が浮き彫りにされています。聖母は右手に女王の笏を持ち、幼子を左腕に軽々と抱きあげています。幼子が抱えているのは、勝利の象徴であるナツメヤシの葉と、聖母を象徴する百合であり、これら二つの植物の組み合わせは、聖母の勝利と栄光を表します。

 聖母は盾と数本の軍旗を踏みつけ、あたかも軍人のように力強い足取りで歩んでいます。これに対して幼子はあたかもプット(童形のケルブ)のようで、この浮き彫りにおいては添え物でしかないように見えます。





 聖母が踏みつけている盾と軍旗は、ローマ教皇に敵対する勢力の象徴です。これに対する聖母は、「勝利の聖母」自身であるとともに、聖母の加護を受けた百合(フルール・ド・リス)の国、カトリックの長姉であるフランスを象徴します。

 上の写真に写っている定規のひと目盛りは、一ミリメートルです。突出部分の細部が摩滅により失われていますが、本品は聖母子の持ち物や足元の盾と軍旗、背景の丘や建物群などの細部が手を抜かずに表現されており、浮き彫りの細密性がよくわかります。


 1820年代頃から1860年代頃まで、イタリアではリソルジメント(国家統一)に伴う戦争と混乱が続きました。1848年11月15日、教皇領で首相ペレグリーノ・ロッシ(Pellegrino Rossi, 1787 - 1848)が暗殺され、その九日後に教皇ピウス九世 (Pius IX, 1792 - 1846 - 1878) は一司祭の姿に変装してローマを脱出し、当時両シチリア王国領であったガエタ(Gaeta 現在のラツィオ州ラティナ県)に避難しました。ピウス九世がいなくなった教皇領には、1848年2月9日、ローマ共和国 (la Repubblica Romana) が成立し、信教の自由をはじめとする急進的な政策を実施しました。

 いっぽうフランスでは 1848年2月23日に二月革命が起こり、七月王政が倒れました。同年12月10日に行われた直接選挙では、ナポレオン一世の甥であるルイ=ナポレオン・ボナパルト(Louis-Napoléon Bonaparte, 1808 - 1873)、後の皇帝ナポレオン三世が、七十五パーセントという驚異的な得票を得て、フランス第二共和政の初代首相に選ばれました。






 ガエタに亡命中の教皇ピウス九世は、ローマ共和国を倒して教皇領を回復すべく、ルイ=ナポレオン・ボナパルトに救援を要請します。ルイ=ナポレオン・ボナパルトはかつて教皇領で反乱が起こった際に自由主義側(反教皇側)に味方していましたが、1848年の時点では、ローマとつながりが深いカトリック聖職者(ウルトラモンタニスト)の協力によって選挙に勝利していたために、教皇の救援要請を断り切れず、ローマに出兵しました。ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi, 1807 - 1882)に率いられたローマ共和国軍は勇敢に戦いましたが、1849年7月3日、フランス軍に降伏しました。

 このときガリバルディは四千七百人の兵士を率いてローマから脱出しましたが、三千名以上の兵士がウルグアイに向かい、ガリバルディは千五百人の兵士を連れて、他国軍との直接戦闘を避けつつアペニン山脈を横断しました。サン・マリノに逃げ込んだガリバルディ軍は武装を解除し、イタリア統一を目指すローマの戦いが敗北に終わったことを認めました。

 教皇ピウス九世はフランスに感謝して、「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」を戴冠させるように命じます。「ノートル=ダム=デ=ヴィクトワール」像は、1853年7月9日、ペッチ枢機卿 (Mgr. Gioacchino Vincenzo Pecci, 1810 - 1903) により戴冠しました。この二十五年後、ペッチ枢機卿はピウス九世の死去に伴い、教皇レオ十三世として即位することになります。


 本品に浮き彫りにされた聖母子は、以上に述べたイタリアとフランスの政治情勢を反映しています。本品の制作年代は、フランス軍がローマ共和国を陥落させた 1849年、あるいはピウス九世の命によってノートル=ダム・デ・ヴィクトワールが戴冠した 1853年です。





 メダイの裏面には悲しみの矢に貫かれた聖母の汚れなき御心が大きく打刻されています。聖母に執り成しを求めるフランス語の祈りが、御心を取り巻くように記されています。

  Sainte Marie, Refuge des pécheurs, priez pour nous.  聖なるマリア、罪びとたちの避け所なる御身よ。我らのために祈り給え。


 本品に打刻された聖母の御心は、神とキリストに対する聖母の愛を象徴します。その一方で、御心の周囲に打刻された罪びとたちの祈りは、慈悲の聖母に庇護を求める者たちが、聖母と心を合わせて祈ることを意味します。それゆえ本品に刻まれた聖母の御心はフランスの信仰心の象徴であり、ひいては「カトリックの長姉」たるフランスそのものの象徴でもあります。

 もう一方の面において盾と軍旗を踏みつつ歩む聖母は、聖母に祝福され、教皇領の救援に向かうフランスの象徴です。このコンテクストで本品の図像を解釈すれば、聖母の左腕に抱かれた幼子はイエスではなく、むしろルイ十四世かもしれません。イエスとルイ十四世が重層的に表現されていると考えることも可能です。下に引用する修道院の記録には、本品の浮き彫りとそっくりの聖母が幻視されたと書かれています。





 すなわち、パリではルイ十三世の寄進によって跣足アウグスチノ会修道院か建設されたわけですが、この修道院に住むフィアクルという名前の修道士(Fr. Fiacre de Sainte-Marguerite, Denis Antheaume, O. A. D. 1609 - 1684)が、1637年10月27日、早朝一時から四時まで四回の祈りのたびごとに、聖母を幻視しました。現在は国立公文書館に保管されている修道院の文書によると、赤ん坊の泣き声を聞いたフィアクル修道士が振り向くと、美しい光に包まれた聖母が一人の男の子を腕に抱いて、椅子に座っていました。聖母は星をちりばめた青いローブを着、頭に三重の冠を被っていました。聖母の髪は肩に掛かっていました。聖母が修道士に向かって「子よ。恐れることはありません。わたしは神の母です」と言いました。修道士は聖母が抱いている男の子が幼子イエスであると思い、ひれ伏して礼拝しようとしましたが、聖母は「子よ。これはわたしの息子ではありません。神がフランスに与えることを望み給う子供です」と言いました。

 当時、国王ルイ十三世と王妃アンヌ・ドートリシュ(Anne d'Autriche, 1601 - 1666)は結婚二十二年目を迎えていましたが、いまだに跡継ぎの息子が無く、王子の誕生が強く願われていました。フィアクル修道士の幻視を知らされた国王ルイ十三世は、1638年2月10日、王子が生まれればフランスを聖母に捧げ、またパリ司教座聖堂(ノートル=ダム・ド・パリ)にピエタの絵、ならびに新しい主祭壇と一群の彫刻を寄進することを誓いました。また同年8月15日、聖母被昇天の祝日には、パリ司教座聖堂まで祈願の行列が行われました。翌月9月5日、王妃アンヌ・ドートリシュは待望の王子を出産し、ルイ十三世はフランスを聖母に捧げました。このとき生まれた王子はルイ・ディユドネ(Louis, Dieudonné フランス語で「神が与え給うたルイ」の意)と呼ばれました。後にヨーロッパ最強の君主となるルイ十四世(太陽王)です。




(上) Henri-Paul Motte, "Richelieu sur la digue de La Rochelle" (Le Siège de La Rochelle), 1881, huile sur toile, 110 x 140 cm, Musée d'Orbigny Bernon, La Rochelle


 本品は銀の輝きがたいへん美しい反面、戦争に明け暮れた近世ヨーロッパの悲惨な歴史を思い出させます。

 修道院付属聖堂ノートル=ダム・デ・ヴィクトワールの名の由来であるラ・ロシェルの攻囲戦において、リシュリュー枢機卿率いるカトリック軍は、プロテスタント国イングランドの船団がラ・ロシェルに接近できないように、海岸に防壁を築きました。イングランドからの補給が望めなくなったユグノーたちは、戦闘に参加できない人々を城外に出しましたが、カトリック軍は何のためらいも無く発砲し、老人、女性、子供たちを皆殺しにしました。城壁内の状況も飢餓と疫病で悲惨を極めました。攻囲戦の開始時、ラ・ロシェルには 27,000人の人口がありましたが、リシュリュー枢機卿に降伏した時にはわずか 5,000人になっていました。


 ルイ十三世はこの戦闘での勝利を聖母に感謝するために、跣足アウグスチノ修道会の付属聖堂を「ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール」(勝利の聖母)と名付けました。しかしながら神と聖母がこのような戦闘を嘉(よみ)し給うはずはありません。

 同修道会のフィアクル修道士は、イタリアを訪問した際にサヴォーナの聖母を知り、パリに戻った後、ルイ十四世(Louis XIV, 1638 - 1715)の寄進により、修道院付属聖堂ノートル=ダム・デ・ヴィクトワール内に、サヴォーナの聖母に捧げた礼拝堂を作りました。このサヴォーナの聖母はマドンナ・デッラ・ミゼリコルディア、すなわちすべての罪びとをマントの下に匿う慈悲の聖母です。この聖母は 1536年、サヴォーナ近くの村に出現した際、当時交戦中であったジェノアとサヴォーナの人々に、「正義ではなく慈悲」(misericordia e non giustizia)を求めたことを忘れてはなりません。

 宗教や国籍などの立場が異なるにつれ、地上には様々の相容れない「正義」が存在します。地上にある人間の知性にとって、「正義」と「愛」は相容れず、むしろ尖鋭に対立します。しかし神の正義は唯一にして不易であり、地上の正義とは違って「慈悲」と両立するのです。

 「愛」と一体にして不可分である「神の正義」を、我々の知性は理解できません。それゆえ次善の策を取るならば、我々は「正義ではなく慈悲」を優先しなければならないのです。我々に理解可能な正義を神の正義と同一視するのは、神の正義の恐るべき矮小化であり、神はそのことをお許しにならないのです。





 上の写真は本品を男性店主の手に乗せています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真よりもひと回り大きなサイズに感じられます。

 純度八百パーミル(八十パーセント)の銀は、フランスのアンティーク・メダイに使用される最も高級な素材です。本品が制作された十九世紀半ばのヨーロッパでは、富の大半が富裕層に集中し、一部の富裕層以外は、全員が下層階級と言っても過言でした。それゆえ本品と同時代のメダイは概ねブロンズ製です。銀無垢メダイは皆無ではありませんが、ほとんどの場合は薄く小さく作られています。しかるに本品はブロンズ製メダイと同様のサイズと厚みがあり、ローマ共和国の崩壊、あるいはノートル=ダム・デ・ヴィクトワールの戴冠を、後世に残る画期的慶事と考えて制作されていることが分かります。





 本品はおよそ百八十年前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、十分に良好な保存状態です。メダイの折れ曲がりや環状部分の破断などの重大な問題は何も無く、実物を肉眼で見ると写真よりもずっと美しいことがお分かりいただけます。突出部分が磨滅した浮き彫りは、我々の想像力を聖母像のうちに招き入れます。アンティーク品ならではの摩滅が有する力は、罪びとをマントに匿うマドンナ・デッラ・ミゼリコルディアにも似ています。貴重な歴史記録であるとともに、活きて働く美術品でもある一点です。





本体価格 22,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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