聖母マリアの大巡礼地、オーヴェルニュのル・ピュイ=アン=ヴレにある黒い聖母子像、ノートル=ダム・デュ・ピュイ(ル・ピュイの聖母)のメダイ。高級品である銀製メダイは小さいものが多いですが、本品はおよそ3センチメートルX2センチメートルと大きめのサイズで、流麗なアール・ヌーヴォー様式の枠に囲まれ、見ごたえのある工芸品に仕上がっています。
メダイの表(おもて)面には、ル・ピュイ司教座聖堂に安置されている17世紀の黒い聖母、ノートル=ダム・デュ・ピュイが浮き彫りにされています。聖母は幼子イエズスを膝の上に抱いていますが、母子は互いに見つめ合うことなく、正面すなわち像を見る者を直視して、その魂を救いへと導いています。このように正面を直視する様式はロマネスクの聖像の特徴です。
聖王ルイ9世 (Louis IX, 1214 - 1270) が寄進した黒い聖母は、フランス革命の際に焼却されましたが、司教座聖堂に現在安置されている17世紀のノートル=ダム・デュ・ピュイも、ロマネスク彫刻の流れを汲んでいるということができます。
聖母と幼子イエズスは共に戴冠し、愛に燃える聖心が聖母の首に掛けられています。聖母子の一体性を強調する様式の衣は、聖母の象徴でもありフランスの象徴でもあるフルール=ド=リス(fleurs-de-lys 百合文あるいはアヤメ文)の豪華な刺繍で埋め尽くされ、天の元后(羅 REGINA CAELI レーギーナ・カエリー、レジナ・チェリ)たる聖母にふさわしい装いです。聖母子の足下に表された雲は、ふたりが天上に上げられて栄光のうちにあることを示します。
聖母子が浮き彫りにされた画面を、植物をモティーフにしたアール・ヌーヴォー様式の流れるような枠が取り囲んでいます。枠の両側には、聖母を象徴する大輪の白百合が咲き誇ります。百合が聖母の象徴とされるのは、旧約聖書の恋の歌「雅歌」にある下の聖句(2章2節)によります。
Sicut lilium inter spinas, sic amica mea inter filias. (Nova Vulgata) おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。
(新共同訳)
百合の花の上方には、二輪のすずらんが咲いています。すずらんは純潔と優しさの象徴、また戻ってきた幸福の象徴として知られ、その薬効ゆえに「天への梯子」という別名もあります。キリスト教文化圏においては、イエズスの受難のとき、聖母が十字架のもとに流した涙から咲き出たという伝承ゆえに、「聖母の涙」(larmes
de Sainte Marie) とも呼ばれています。上部の環の付け根に、800シルバー(純度80%のシルバー)を示すフランスのホールマークが刻印されています。
裏面には次の言葉がフランス語で刻まれています。
Souvenir de Notre-Dame du Puy ノートル=ダム・デュ・ピュイ(ル・ピュイの聖母)巡礼記念
ル・ピュイ=アン=ヴレは中世には大巡礼地でしたが、近世になって巡礼は衰微しました。聖母マリアの巡礼地として往時の勢いを取り戻したのは 19世紀半ばで、1856年2月11日、教皇ピウス9世によって司教座聖堂ノートル=ダム=ド=ラノンシアシオンが小バシリカとされ、さらに
1856年6月8日、教皇ピウス9世の代理であるル・ピュイ司教によってノートル=ダム・デュ・ピュイが 戴冠されたこと、さらにノートル=ダム・ド・フランスの像が建てられたことがきっかけでした。
教皇ヨハネス15世 (Ioannes XV, + 996) の布告以来、聖金曜日が受胎告知の祝日と一致する年はル・ピュイ巡礼において特別な年とされています。このメダイは19世紀末から20世紀初頭のアール・ヌーヴォー期のものですが、シルバーのメダイは特別な高級品であることから、上記の期間内に含まれるル・ピュイの聖年に製作されたされたものであろうと思われます。
メダイのコンディションは、表(おもて)面で最も突出している幼子イエズスの頭部に磨滅があって表情が判別できませんが、全体的な摩耗はごく軽微です。およそ100年前に製作された非常に古いメダイとしては、たいへん良い保存状態といえます。