リュドヴィク・ペナン作 ブロンズ製スカプラリオのメダイ 《忘恩と反逆のフランスに回心を求めるイエス いとも尊きロザリオの元后》 悔悛のガリアのキリスト教芸術 直径 32.5 mm


突出部分を除く直径 32.5 mm  最大の厚さ 3.7 mm  重量 12.0 g

フランス  1850 - 60年代



 いまから百五十年以上前、わが国でいえば江戸時代末期に当たる十九世紀半ばのフランスで、高名なメダイユ彫刻家リュドヴィク・ペナンにより制作されたブロンズ製大型メダイユ。わが国で「メダイ」として知られている小さなメダイユと同様に信心具としての側面を持ちつつも、本格的な美術品水準の完成度を誇る名品です。サイズの点でも、突出部分を除く直径が 32.5ミリメートル、最大の厚さが 3.7ミリメートル、重量が 12.0グラムと、かなり大きめです。12グラムの重量は五百円硬貨二枚分に近く、手に取ると心地よい重みを感じます。

 リュドヴィク・ペナン (Ludovic Penin, 1830 - 1868) は十九世紀前半以来四世代にわたってメダイユ彫刻家を輩出したリヨンのペナン家の一員です。豊かな才能を認められ、弱冠34歳であった1864年、当時の教皇ピウス九により、カトリック教会の公式メダイユ彫刻家(仏 graveur pontifical)に任じられましたが、惜しくもその四年後に亡くなってしまいました。





 一方の面には、多数の小さな十字架を背景に、神の愛によって罪人を赦し招くイエス・キリストの上半身を、立体的な浮き彫りで表しています。イエスは左手でサクレ=クール(聖心)を示し、右手を前に差し伸べて罪人を招いています。

 サクレ=クール(仏 le Sacré-Cœur)はフランス語で「聖なる心臓」という意味で、救世主イエスの心臓をこのように呼んでいます。ミクロコスモスの太陽に譬えられる心臓は、生命の座であるとともに、愛の座でもあります。人間は原罪によって生命を失いましたが、生命そのものであられる救世主イエス(ヨハネ 1:4)は、神の愛を以て人を愛し、十字架上に生命を捨てて救世を達成されました。





 救世主の心臓(サクレ=クール、聖心)は、それゆえ、救世主と神の愛の視覚的表現に他なりません。本品の浮き彫りにおいて、聖心はイエスの胸で愛の炎を噴き上げ、強烈な光輝を発しています。聖心は十字架を突き立てられ、茨の冠に取り巻かれ、槍で刺し貫かれています。イエスの両手には痛々しい釘の傷があります。聖心から吹き上がる炎、発出する光、イエスの両手にある釘孔、聖心の傷は、いずれも人智を絶する神の愛を象徴しています。





 本品において、リュドヴィク・ペナンは図像学的伝統を踏襲し、聖心を示すイエスの姿を定型的姿勢で制作していますが、イエスの表情はこの作品独自のものです。聖心を示すイエスは、神々しい威厳を感じさせる表情の作品や、ひたすら柔和な表情の作品など、彫刻家によってさまざまな表現が為されていますが、リュドヴィク・ペナンがこのメダイユに彫ったイエスは、愛に溢れつつも悲しげな表情をしています。

 イエスが悲しみ、落胆し、ときには涙を流されたことは福音書にも記録されています。「ルカによる福音書」十七章十一節から十九節には次のような記述があります。引用は新共同訳によります。

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」





 重い皮膚病は古い訳で癩(らい)病と訳されていますが、これはハンセン氏病を含む多様な疾患のことです。聖書の重い皮膚病とは外見的な症状のみを意味する用語法ですので、なかには伝染しない病気も含まれていたはずですが、医学が未発達であった古代においては、重篤な症状が皮膚に現れる病気は非常に恐れられ、重い皮膚病の患者は社会から厳しく隔離、排除されました。「レビ記」十三章は病気の診断基準と患者に対する措置、同十四章は清めの儀式について記述しています。上の引用箇所にある「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」とのイエスの言葉は、「レビ記」の規定に基づく検査のことを言っています。




(上・参考画像) 「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」 クラウバーによる1740年頃のコッパー・エングレーヴィング 152 x 92 mm アウグスブルク 当店の商品です。


 重い皮膚病に限らず、当時は宗教的な罪がさまざまな病気となって現れると考えられていました。福音書にはイエスがさまざまな病気を癒し給うたことが記録されていますが、それらは単なる病気治療ではなくて、イエスが「罪を赦す権威」を持つことを示していたのです。

 「ルカによる福音書」によると、十人の皮膚病患者が、イエスが通られることを知って駆けつけました。重い皮膚病にかかると一般人の間に住むことができませんでしたから、この10人は村から離れたところで共同生活をしていたのでしょう。十人のうちの一人はサマリア人で、あとの九人はおそらく全員がユダヤ人でした。イエスはこの十人を癒し給いましたが、神を賛美しながらイエスに感謝したのはサマリア人だけでした。神の選民であるはずのユダヤ人は、イエスによって罪を赦されて救いを得たにもかかわらず、その恩を忘れて感謝しなかったのです。




(上・参考画像) 小聖画「街を見て嘆くキリスト」 111 x 71 mm フランス 1925年  同時代(1920年代)のフランスの街並みが描かれています。当店の商品。


 イエスは九人の忘恩に怒って罪の赦しを取り消すことはなさいませんでした。ただ、神への感謝を忘れた選民たちに、ひどく落胆されました。イエスがこのときどのような表情をされたか、ルカは記録していませんが、きっと深い悲しみを表情に表し給うたことでしょう。イエスはこの出来事が起こる少し前、「ルカによる福音書」十三章三十四節において、次のように嘆いておられます。

 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。



リュドヴィク・ペナン作 「聖セシリア」 小さな美術メダイユ 当店の商品です。


 商品説明の冒頭に書いたように、本品メダイはリヨンのメダイユ彫刻家リュドヴィク・ペナンの作品です。早逝の芸術家リュドヴィク・ペナンは1870年代からアール・ヌーヴォーに至る時代を知らずに亡くなったわけですが、リュドヴィク・ペナンの作品は、三歳年上の同郷の芸術家ジャン=バティスト・ポンセ(Jean-Baptiste Poncet, 1827 - 1901)の手によっていわば「現代化」され、1870年代以降においても愛され続けました。ジャン=バティスト・ポンセは画家でもあり、メダイユ彫刻家でもある人で、ペナンに比べて都会風に洗練された典雅な作風が特徴です。ペナンの没後にポンセが手を加えて「現代化」した作品は、信心具としてのメダイによく見られ、"PENIN PONCET", "P P LYON" 等、ふたりの名前が併記されています。





 本品メダイのイエス像はカドリロブ(仏 quadrilobe 四つ葉形)と正方形を組み合わせたゴシックの枠に囲まれていますが、この枠のすぐ外、メダイの下端近くにフランス語で「リヨンのL. ペナン」(仏 L. PENIN à Lyon) とのみ記されています。それゆえ本品はリュドヴィク・ペナンの生前、1860年代頃に制作された物であることが分かります。

 リュドヴィク・ペナンが本品に刻んだイエス像がその表情に愛と悲しみを浮かべている理由を知る鍵となるのは、本品メダイユの制作年代です。




(上) 聖心を示すキリストと、聖マルグリット=マリ。十九世紀のクロモリトグラフィ。当店の商品です。


 1860年代のフランスでは、キリスト教界における大きな出来事として、1864年9月18日、教皇ピウス九世により、マルグリット=マリ(Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690)がローマで列福されたことが挙げられます。この三年後、1867年8月に発行された信心書「イエスの聖心の先触れ」(Le Messager du Sacré Cœur de Jésus) 第十二号において、聖女の第九十八書簡が公表されました。この書簡によって、1689年に聖女に出現したキリストが、聖女の仲立ちにより、当時の国王ルイ十四世に聖心の崇敬を命じたこと、それにもかかわらずフランスはキリストの言葉に従わなかったことが明らかになりました。





 ルイ十四世の父であるルイ十三世は、ルイ十四世が生まれたときにフランスを聖母に捧げました。聖母に捧げられたフランスは、本来は教会の長姉、すなわち神の選民にも比すべきカトリックの守護者であるはずなのに、ルイ十四世のフランスはキリストの言葉に従うことを拒みました。マルグリット=マリに啓示が為されたときからちょうど百年後、1789年の聖心の祝日(6月17日)に、フランスでは第三身分が国民議会を結成し、反キリスト教的、反教会的なフランス革命が本格化しました。大勢の聖職者た修道者たち、さらには国王と王妃までもが処刑されたこの革命で、フランスは大きな混乱に陥りました。

 神は旧約時代に、堕落した人間をノアの洪水で滅ぼし(「創世記」八章から九章)、傲慢になった人間が築いたバベルの塔を崩し給いました(「創世記」十一章一節から八節)。革命をはじめ、フランスを襲った災厄は、ノアの洪水やバベルの塔の故事と同様に、神がフランスを罰し給うたものと、当時の人々の眼には映りました。




(上・参考画像) 稀少品 聖テレ―ズとイエスの聖顔 列聖直後に制作された「悔悛のガリア」のメダイ 直径 16.5 mm フランス 1920年代後半 当店の商品です。


 それゆえ 1860年代のフランスでは、マルグリット=マリへの啓示が公開されたいまこそが、悔悛のときであると思われました。フランスが神への忘恩を悔い改め、国民が犯し続けてきた罪を償うことこそが、フランス国民の務めであると考えられ、イエスへの償いを中心的テーマとする聖顔への崇敬、及びイエスの聖心への信心が盛んになりました。

 威厳に溢れるイエス像でもなく、愛のみを表すイエス像でもなく、愛と悲しみの表情を浮かべたイエス像をリュドヴィク・ペナンが本品に彫ったのには、以上のような時代背景があります。「スカプラリオのメダイ」は多数の彫刻家がさまざまな作例を残していますが、本品のイエス像には、メダイが制作された時代と場所、1860年代フランスの精神状況が色濃く影響しているのです。





 もう一方の面には中央上段に聖母子を、下段の左右にグスマンの聖ドミニコとシエナの聖カタリナを浮き彫りにしています。聖母子はふたりの聖人にロザリオを渡しています。聖母に執り成しを求めるフランス語の祈りが、浮き彫りを取り巻くように刻まれています。

  Reine du Très Saint Rosaire, priez pour nous.  いとも尊きロザリオの元后、われらのために祈りたまえ。


 いとも尊きロザリオの元后(羅 Regina sacratissimi Rosarii 仏 Reine du Très Saint Rosaire)は、ロレトの連祷にある聖母マリアの称号のひとつです。





 聖母子の足下には、聖母を象徴する花である薔薇で編んだ花環が、聖母への捧げものとして置かれています。薔薇の花輪はラテン語でロサーリウム(羅 ROSARIUM)といいますが、ロサーリウムはイタリア語ロザリオ(伊 rosario)、フランス語ロゼール(仏 rosaire)等の語源です。ドイツ語ではロザリオをローゼンクランツ(独 Rosenkranz)といいますが、これも薔薇の花環の意味です。

 いとも尊きロザリオの元后、あるいはロザリオを手渡す聖母子を主題にした絵画の構図には、画家によっていくつものヴァリエーションがあります。いくつかの作品を示します。


(下・参考画像) Albrecht Dürer (1471 - 1528), "Das Rosenkranzfest", 1506, Öl auf Pappelholz, 162 x 194,5 cm, Nationalgalerie Prag




(下・参考画像) Giorgio Vasari (1511 - 1574), "Madonna del Rosario", Cappella Bardi in Santa Maria Novella, Firenze




(下・参考画像) Jacopo Vignali (1592 - 1664), "Madonna del Rosario"




 いとも尊きロザリオの元后の聖地として知られる「ポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカ」(Santuario della Beata Vergine del Rosario di Pompei イタリア、カンパニア州ナポリ県)の有名な聖画は、画面奥の高い所にロザリオを差し出す聖母子を、一段低い位置に聖ドミニコと聖カタリナを描いており、本品にリュドヴィク・ペナンが彫ったのと同様の構図になっています。


(下・参考画像) 「ポンペイの至聖なるロザリオの聖母のバシリカ」にある奇蹟の聖画 《ロザリオの聖母》




 本品メダイの手前、向かって右の人物は、グスマンの聖ドミニコです。聖人はドミニコ会の白い修道衣と黒いマントをまとって跪き、聖母子を仰ぎつつ両腕を広げています。 よく知られた聖ドミニコ伝によると、新生児ドミニコが洗礼を受ける際、その額に星が輝くのを、代母が目にしました。それゆえ聖ドミニコの図像では、額あるいは頭上に星が描かれることが多くあります。本品の浮き彫りにおいても、リュドヴィク・ペナンは輝く星を聖人の頭上に配しています。





 ドミニコはパレンシア(Palencia)で学究生活を送り、六年に亙って自由学芸七科を、四年に亙って神学を修めました。神学研究の最後の年である 1191年にスペインに大飢饉が起こったとき、ドミニコは貧しい人々のために現金、衣服、家具を手放しただけではなく、当時はたいへんな貴重品であった本(羊皮紙の写本)までもすべて売り払いました。学究の徒であるドミニコが本を手放したことに友人たちが驚くと、ドミニコは「人々が飢え死にしつつあるときに、死んだ動物の皮から学べと私に言うのか」と答えました。




(上・参考画像) Lorenzo Lotto, "Madonna de Rosario e Santi", 1539, olio su tela, 384 x 264 cm, Pinacoteca Comunale ''Donatello Stefanucci'', Cingoli


 リュドヴィク・ペナンはこの浮き彫りにおいて、聖人の心の優しさを、穏やかな横顔のうちに余すところなく表現しています。フランスにおけるメダイユ彫刻中興の祖、ダヴィッド・ダンジェ (Pierre-Jean David d'Angers, 1788 - 1856) はリュドヴィク・ペナンよりも少し前の時代の人ですが、モデルの横顔を好んで作品にし、「正面から捉えた顔はわれわれを見据えるが、これに対して横顔は他の物事との関わりのうちにある。正面から捉えた顔にはいくつもの性格が表われるゆえ、これを分析するのは難しい。しかしながら横顔には統一性がある。」と言っています。

 聖ドミニコ単独のメダイや他の諸聖人のメダイにおいて、リュドヴィク・ペナンはほとんどの場合正面向き、あるいは正面向きに近い角度で顔を彫っており、ダヴィッド・ダンジェのように横顔のメダイを多く作ったわけではありません。リュドヴィク・ペナンがこの群像において聖ドミニコの顔を側面から捉えているのは、四人の人物の空間的配置から来る必然的要請のためでしょう。しかしリュドヴィク・ペナンはこの作品において聖ドミニコを側面から捉えることにより、聖人が持つ生来の優しさを、あたかもおのずから滲み出るかのように引き出すことに成功しています。このメダイには四人の群像が彫られていますが、なかでもドミニコの出来栄えは特に秀逸です。





 メダイの手前、向かって左には、ドミニコ会の聖女であるシエナの聖カタリナが跪いています。

 あるときカタリナはキリストを幻視しました。キリストは茨の冠、及び黄金と宝石でできた冠をカタリナに示してどちらかを選ぶように告げ、カタリナは茨の冠を選びました。この出来事ゆえに、カタリナの図像には茨の冠が描かれることが多くあります。本品の浮き彫りにおいても、聖女は茨の冠を被っています。




(上・参考画像) Giovanni Battista Tiepolo, "Hl. Katharina von Siena", zirka 1746, Öl auf Leinwand, 70 x 52 cm, Kunsthistorisches Museum Wien, Gemäldegalerie, Wien


 本品メダイの浮き彫りにおいて、祈る形に合わせたカタリナ両手には、衣に半分隠れつつも釘の傷が見えています。1375年、聖女は両手、両足、脇腹に聖痕を受けました。カタリナが聖痕を受けていたことは、1380年、神秘的結婚による「夫」イエス・キリストと同じ年齢である33歳で聖女が亡くなったとき、初めて明らかになりました。





 本品メダイは十九世紀半ばに制作された作品です。本品と同時代のメダイはほとんどが打刻によって製作された小型の品物であり、民衆のための信心具以上のものではありません。しかしながら本品は例外的に鋳造により、それらよりもはるかに立派なサイズに制作され、美術品レベルのメダイユ彫刻と同様の丁寧さで美しく仕上げられています。同時代の他のメダイと比べて、本品の芸術的水準は群を抜いて優れており、この時代のフランスのカトリック・メダイユ彫刻を代表する秀作のひとつとなっています。





 本品の出来栄えにはメダイユの制作方法も大きく関係しています。

 メダイユの制作方法には打刻と鋳造のふたつがあります。打刻は貨幣のように大量の製造が必要である場合の方法で、凹凸の無い金属片に金属の打ち型をあてがい、強い力で打ちつけることによって金属片に凹凸の文様を付けます。打刻による制作は効率的である半面、浮き彫りの立体性は劣ります。また厚みのある作品や大きな作品を作ることはできません。

 一方、鋳造はまず最初に、蝋や漆喰に浮き彫りを施して、メダイユの表(おもて)面用及び裏面用の原型を制作します。次に原型を元にして、テラコッタやゲッソ(石膏とチョークの混合物)で鋳型を作ります。最後にふたつの鋳型を合わせて、融けた金属を流し込み、金属製メダイユを鋳造します。鋳型から取り出したメダイユは、やすりがけや彫金、薬品による表面処理等の工程を経て、ようやく完成に到ります。





 古代以来の貨幣はほとんどが打刻によって作られたのに対し、美術メダイユの祖と見做されるルネサンス期の芸術家ピザネッロは、鋳造によってメダイユを制作しました。フランスに伝わったメダイユ彫刻は、アンシアン・レジーム期に打刻が大勢を占るようになりましたが、メダイユ芸術を愛好したナポレオン以降、鋳造による美術メダイユの制作が再び盛んになりました。

 このような経緯により、十九世紀のフランスでは鋳造によって立派な美術メダイユが多く制作されました。その一方で信心具としてのメダイユ、いわゆるメダイは、十九世紀においては打刻によるものがほとんどでした。しかしながら信心具としての性格を持ちつつも鋳造によって制作され、充分に芸術の名に値するメダイユが、少数ながら存在します。本品はそのような作品の一つです。





 上の写真は本品を男性店主の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になれば、写真で見るよりもひと回り大きなサイズに感じられます。

 本品は十九世紀半ばのフランスで、鋳造により制作された真正のアンティーク美術品です。およそ百五十年以上前、わが国でいえば江戸時代末期の古い品物にもかかわらず、本品の保存状態は極めて良好で、それほどまでに古いとは俄(にわ)かに信じ難いほどです。突出部分の小さな疵(きず)や摩耗は拡大写真でしか分からない程度で、細部までほぼ完全な状態で残っています。





本体価格 38,800円

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




カルメル山の聖母 スカプラリオのメダイ 商品種別表示インデックスに戻る

各地に出現した聖母のメダイ 一覧表示インデックスに戻る


各地に出現した聖母のメダイ 商品種別表示インデックスに移動する

聖母マリアのメダイ 商品種別インデックスに移動する


メダイ 商品種別インデックスに移動する


キリスト教関連品 商品種別表示インデックスに移動する



アンティークアナスタシア ウェブサイトのトップページに移動する




Ἀναστασία ἡ Οὐτοπία τῶν αἰλούρων ANASTASIA KOBENSIS, ANTIQUARUM RERUM LOCUS NON INVENIENDUS