極稀少品 ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートとサン・ベニト 「モンセラートの聖母」戴冠記念メダイユ 大型の作例 直径 34.0 mm


突出部分を除く直径 34.0 mm  突出部分を除くおおよその厚さ 3 - 4 mm  重量 16.2 g

スペイン  1861年



 スペイン南東端のカタルニャ(カタロニア)自治州、バルセロナの北西40キロメートル足らずに、モンセラートの山塊があります。モンセラート (Montserrat) とは「鋸歯状の山」の意味で、その名の通り切り立った多数の奇岩が海抜720メートルの山塊を為しています。

 この場所にあるベネディクト会修道院サンタ・マリア・デ・モンセラート(西 El Monasterio de Santa María de Montserrat)は、有名な黒い聖母「ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラート」(Nuestra-Señora de Montserrat モンセラートの聖母)を安置しています。サンタ・マリア・デ・モンセラートはカタロニアで最も有名な巡礼地のひとつであり、フランスのルルドの聖地、サラゴサのエル・ピラル聖堂、及びホセマリア・エスクリバ (San Josemaría Escrivá de Balaguer, 1902 - 1975) が建てたトレシウダ(Torreciudad アラゴン州ウエスカ県)の聖堂とともに、いわゆる「ルタ・マリアナ」(La Ruta Mariana マリアの道)を構成します。


 モンセラート修道院


 1811年及び1812年、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院は、スペイン独立戦争に際して侵入してきたナポレオン軍によって火災の被害に遭いました。また1835年の永代所有財産解放令 (Desamortización Ecclesiástica de Mendizábal) によって、サンタ・マリア・デ・モンセラートの修道士たちは修道院を放棄することを余儀なくされました。修道院の閉鎖は長く続かず、修道士たちは1844年に戻ってきましたが、この間修道院は掠奪・放火されて廃墟となっており、すべてを新しく建てなおす必要がありました。

 それからおよそ九十年後にあたる 1936年、修道院は再び試練にさらされます。この年から 1939年まで続いたスペイン内戦の際、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院は再び閉鎖され、左翼政治家リュイス・コンパニス・イ・ジョベ (Lluis Companys i Jover, 1882 - 1940) が牛耳るカタルニャ自治政府の管理下に置かれました。内戦の四年間に、サンタ・マリア・デ・モンセラートの修道士たちは開山以来最も苛烈な迫害を受け、二十三名の殉教者を出しました。修道院内にある礼拝堂の一つは、この殉教者たちに捧げられています。



 本品は直径三十四ミリメートルという大きなサイズのブロンズ製メダイで、突出部分を除くメダイユの本体は三ないし四ミリメートルの厚さがあります。重量は十六グラム強で、これは五百円硬貨二枚分を超えます。本品の上部は近年のメダイに比べて大きく突出し、また孔の開いている方向が九十度ずれていますが、これは十九世紀半ばまでに制作されたメダイの特徴です。





 一方の面には、モンセラートの峩々たる山並みを背景に、聖母子像と、それを取り巻く大勢の人々が浮き彫りにされています。メダイの上半分を取り巻くように、カスティリヤ語(標準スペイン語)で「ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラート」(西 Nuestra-Señora de Montserrat モンセラートの聖母)と記されています。

 ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは十二世紀に制作されたポプラ材の木像です。像の高さはおよそ九十五センチメートルで、それほど大きな像ではないのですが、本品においては周囲の人々と比べて非常に大きな姿に造形されています。


 モンセラートの聖母


 上の写真でもご覧いただけるように、現在のヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは豪華な衣装を着けることもなく、簡素な姿でモンセラート修道院付属聖堂の主祭壇上に安置されています。しかしながら本品に浮き彫りにされたヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは膝の幼子と共に豪華な衣装を着て、肩にはマントを羽織り、頭上に大きな冠を戴いています。現在の聖母像は右手に球体を載せていますが、本品の浮き彫りでは女王の笏を持っているように見えます。





 ヌエストラ=セニョラ・デ・モンセラートは、1861年、スペインの聖母像としてはじめて正式に戴冠しました。本品が制作されたのはおそらくこのときで、1844年以来少しずつ復興を果たしたモンセラート修道院の誇りと喜びが感じられる立派な作品に仕上がっています。





 もう一方の面には、多数の小さな十字架を背景に、ヌルシアの聖ベネディクトゥス(西 San Benito de Nursia, 480 - 547)の全身像を浮き彫りにしています。メダイ上部を取り巻くように、古風なカスティリヤ語で「サント・ベニト・フンダドル」(西 Santo Benito Fundador 創始者なる聖ベネディクトゥス)と書かれています。

 ヌルシア(羅 NURSIA)とは、イタリア半島のちょうど真ん中、アペニンの山中にある町ノルチャ(伊 Norcia ウンブリア州ペルージャ県)のことです。聖ベネディクトゥスはカタロニアを訪れたこともないし、サンタ・マリア・デ・モンセラート修道院が創始するより数百年前の人ですが、この修道院はベネディクト会に属するゆえに、修道会の創始者として本品に姿が刻まれています。

 剃髪し修道衣を着た修道院長聖ベネディクトゥスは堂々たる体躯の威厳ある人物として表され、あたかも天地を繋ぐように、メダイの上下いっぱいに、両足をしっかりと踏みしめて立っています。聖ベネディクトゥスは六世紀、すなわち千数百年前に生きた人であり、どのような容姿の人物であったのかが分かる肖像画等は残っていません。実際のところは小柄な人物であったかもしれませんし、厳しい戒律にしたがって生きた修道士ですから、きっと痩せていたことでしょう。それにもかかわらず聖ベネディクトゥスは、その後の西ヨーロッパ史に深い影響を及ぼした精神的巨人であるゆえに、この作品において堂々とした人物に描かれています。





 聖人の右側(向かって左側)には、毒入りパンを咥えたカラスが刻まれています。伝説によると、聖人を妬む者が聖人のパンに毒を入れましたが、烏がそれを咥えて遠くに捨てたことで、聖人は難を逃れました。

 聖人の左側(向かって右側)には、楯のように大きなサイズで、「聖ベネディクトゥスのメダイ」が刻まれています。このメダイに書かれた文字が何を表すのか、長い間謎でしたが、1415年の写本が1647年にバイエルンのメッテン修道院で発見され、その意味が明らかになりました。十字架上のイニシアル九文字は次の言葉を表しています。

  CRUX SACRA SIT MIHI LUX. NUNQUAM DRACO SIT MIHI DUX.  聖なる十字架が我が光であるように。ドラゴン(悪魔)が我が導き手となることが決して無きように。

 十字架の背景にある4文字のイニシアル C. S. P. B. は「聖なる師父ベネディクトの十字架」(CRUX SANCTI PATRIS BENEDICTI) を表します。メダイの上部のギリシア文字「イオタ・エータ・シグマ」(IHS) は、ギリシア語「イエースース」(Ἰησοῦς イエス)を表します。周囲のイニシアルが表すのは次の言葉です。まず向かって右側は上から下に

  VADE RETRO SATANA. NUNQUAM SUADE MIHI VANA.  退けサタン。虚しき事で我を誘うな。

 向かって左側は下から上に

  SUNT MALA QUAE LIBAS. IPSE VENENA BIBAS.  汝が我に与うるは悪しき物なり。汝自身が毒を飲め。





 本品は百五十年以上前、わが国で言えば幕末期に制作された真正のアンティーク品ですが、古い品物にもかかわらず、保存状態は良好です。突出部分に軽度の磨滅がありますが、細部まで良く残っており、特筆すべき瑕疵(かし 欠点)は何もありません。長い歳月をかけて得られたパティナ(古色)が、アンティーク品ならではの美を本品に与えています。

 十九世紀半ばは世界史が近代から現代に移り変わろうとしていた時代であり、その大波は極東の我が国にも及びました。カタロニアはその同じ波をユーラシアの西端で経験しました。この時代に制作された本品は、優れた美術品であるだけでなく、カタロニア近現代史の実物資料としてもたいへん貴重な作例です。





本体価格 22,800円 販売終了 SOLD

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