フィリップ・ファイト作 「救い主の御母」 執り成しを求める祈りのカニヴェ (V. メニオル 図版番号20)

MATER SALVATORIS, V. Méniolle, pl. 20



114 x 74 mm

フランス  19世紀中頃



  19世紀中頃のフランスで制作された聖母マリアと幼子イエズスの美麗なカニヴェ。「ナザレ派」の画家フィリップ・ファイト (Philipp Veit, 1793 - 1877) の原画に基づく精緻なミニアチュ-ル版画を、ゴシック聖堂の薔薇窓のような切り紙細工で縁取っています。





 本品の版画において、幼子イエズスは母に見守られ、ベッドの上でぐっすりと眠っています。柔らかな感触を楽しむように清潔なクッションの下に左手を突っ込んで眠る幼子の様子は、普通の家庭に育つ幼児と何ら変わり無く、微笑みを誘います。この絵は19世紀の作品ですので、幼子を見守るマリアをごく普通の母親として描くこともできたはずですが、「ナザレ派」のフィリップ・ファイトは、風俗画への過度の接近を避けるためにマリアに祈りのポーズを取らせ、宗教性溢れる静謐な画面に仕上げています。背景の左奥、台の上に開かれた祈祷書が、宗教的雰囲気を高めています。





 ところで伝統的図像表現における聖母マリアの衣の色は、古い時代の画像では赤、近世以降の多くの画像では白で表されます。聖母のマントの色は、ルネサンス期の画像では青、近世以降の多くの画像でも青です。マントと別に描く場合のヴェールの色は、マントと同じ青、マントよりも淡い青、白が多用されます。私はこの版画の元となったフィリップ・ファイトの原画を目にしたことは無いのですが、版画画面の明暗で判断すると、聖母は赤い衣に青いヴェール、青いマントを着けていると思われます。聖母の服装の古典的な配色には、ルネサンス以前への回帰を目指した「ナザレ派」の特徴がよく表れています。

 この作品の場合、聖母の赤い衣、青いヴェール、青いマントは、ほの暗い背景との鮮やかな対比により、鑑賞者の眼を聖母に惹きつける役割を果たしています。単色の版画になっても事情は同じです。この版画の画面には、マリアの顔と幼子のベッドの二箇所が明るくなっていますが、二箇所の明るい領域を比べると、鑑賞者の視線はマリアの顔により強く惹きつけられます。

 マリアの顔は幼子のベッドよりも明るいわけではなく、聖画の画面に占める面積もベッドより小さいですが、それにもかかわらず鑑賞者の視線を強く惹きつけるのは、暗色の背景に囲まれて光に照らされる「キアロスクーロ」(chiaroscuro イタリア語で「明暗法」)の効果です。愛が光として表象されるならば、その源である幼子イエズスが光に包まれているのは当然ですが、マリアもまた慈母のような愛ゆえに光の存在であり、明るく輝く蝋燭にも比せられる闇の中の導き手、罪人の希望なのです。





 ところでここに描かれた聖母が幼子イエズスに視線を向け、祈りの姿勢を取っていることにご注目ください。鑑賞者の眼はいったん聖母に惹きつけられつつも、鏡に当たった光のように撥ね返されて、聖母が視線を向ける先、すなわち幼子イエズスへと向かいます。その際に鑑賞者の心は祈る聖母に同調し、敬虔な気持ちに聖化されて、知らず知らずのうちに聖母とともに祈りを捧げるのです。

 この聖母子像は特によく知られた作品ではありませんが、人の心を祈りへと導くことこそが宗教美術の存在理由であることを思えば、宗教美術の紛れも無い名画といえましょう。「ナザレ派」は絵画における精神性を重視しましたが、フィリップ・ファイトはこの作品において、ナザレ派の理念を見事に実現させています。

 版画の原画を描いたフィリップ・ファイト (Philipp Veit, 1793 - 1877) は 19世紀プロイセン(ドイツ)の画家で、「ナザレ派」の中心人物のひとりです。「ナザレ派」(die Nazarener) とは19世紀ドイツの画家の一派で、ルネサンスから近代までの美術が表面的な技巧に走り過ぎているとし、中世ドイツの絵を範として、敬虔な宗教性が溢れる古(いにしえ)の画風に立ち還ることを目指しました。中世ドイツの画家たちは、他の職業と同様にツンフト(Zunft 同職者の団体、ギルド)を結成し、福音記者ルカの守護の下で画業に励みましたが、ナザレ派の画家たちも中世のツンフトに倣って共同体を作り、ナポレオン一世によって廃院させられ無住となっていたローマのフランチェスコ会修道院サン・イシドロ (Sant'Isidoro a Capo le Case ナポレオン失脚後に修道院として復活)において、1810年から1820年までの間、あたかも修道者のように祈りの生活を営みながら、敬虔な宗教心に基づく作品群を産み出しました。


(下・参考画像) フィリップ・ファイトによるフレスコ画 「ヨセフとポティファルの妻」 Philip Veit, „Joseph und das Weib des Potiphar”, eine Szene vom Freskenzyklus des Casa Bartholdy in Rom, 1816 - 17, Fresko, Alte Nationalgalerie, Berlin




 本品の聖画はインタリオ(intaglio 凹版)、すなわちグラヴュール(エングレーヴィング)オー・フォルト(エッチング)によります。オー・フォルトは金属板を強酸で腐食させて溝を刻む技法であり、人力で溝を刻むグラヴュールに比して制作が格段に楽な反面、精緻さにおいてグラヴュールに劣りますが、カニヴェのようなミニアチュール版画では線の密度が濃いために、オー・フォルトを多用しても十分に細密な仕上がりとなります。したがってカニヴェにはオー・フォルトを多用した作例が多いのですが、本品は多大な時間と労力を掛けて、全面的にグラヴュールで制作されています。





 上の写真の拡大倍率は実物の面積の50倍、定規のひと目盛りは1ミリメートルです。聖母の目の幅は右目が1ミリメートル、左目が2ミリメートルですが、まぶたの膨らみがまったく自然に表現されています。両端には睫毛(まつげ)があり、瞳孔と虹彩が描き分けられています。美しく整った口許は、柔らかで温かい唇に微かな微笑みが浮かんでいます。緻密な線とスティプル(点描法の点)によって各部分の立体性が見事に表現され、目鼻立ちのバランスも完璧です。

 さらに拡大します。下の写真の拡大倍率は実物の面積の 650倍です。肌の明部には破線のクロスハッチ(斜めに交差した線)、暗部には実線のクロスハッチを施し、線の太さと密度に変化を付けることによって、生身の聖母のような陰翳を実現しています。下の写真にはほとんど写っていませんが、聖母の髪は多い箇所で 1ミリメートルあたり10本以上の線を丁寧に彫って再現されています。





 下の写真は幼子を描いた部分です。拡大倍率は実物の面積の40倍、定規のひと目盛は1ミリメートルです。大人の女性であるマリアの髪とは質感が異なる細くやわらかな幼子の髪や、子供らしい柔らかな肌がよく表現されており、すやすやと安らかな寝息まで聞こえてきそうです。





 幼子の衣は、最も明るい部分を間隔の開いた細い実線で、少し暗い部分を細い実線のクロスハッチで、最も暗い部分を太い実線のクロスハッチで描いています。後方に見えるマリアの衣は線がさらに太く、最暗部はクロスハッチの菱形ひとつひとつの内部に点が打たれています。

 幼子の肌の明部と衣の明部は同等の明度ですので、単位面積当たりに同等の量のインクが使われていますが、二つの領域を比較観察すると、衣の明部が「間隔の開いた細い実線」で表されているのに対して、肌の明部は「間隔の狭い破線」で処理されていることに気付きます。肌は衣よりもきめ細かいゆえに線の密度を高める(線と線の間隔を狭くする)必要がある一方、インクの量を抑えるために実線ではなく破線を使い、繊細な描写を実現しているのです。グラヴュールの彫刻家は、表現しようとする部分の明暗だけでなく、質感の違いによっても、実線と破線を使い分けていることがわかります。





 聖画の左下と右下には、それぞれ次のように彫られています。

  Ph. Veit pinxt  フィリップ・ファイトが(原画を)描いた。

  H. W. sc.  H. W. が(版を)彫った。


 19世紀のグラヴュールにおいては、版画の左下に原画の作者名、右下に版の製作者名を記し、原画の作者名のあとには PINXT を、版の製作者名のあとには SCULPT を付けます。それぞれラテン語で PINXIT(絵の具で描いた)、SCULPSIT(彫った)の意味です。グラヴール(graveur メダイユや版画の彫刻家)が "H. M." とだけ署名して名前を明かしていないのは、この彫刻家にとってこの聖画の制作が、ちょうど18世紀の修道女たちによるカニヴェ制作と同様に、「祈り」の作業であったことをうかがわせます。

 原画の作者名と版の製作者名の間には、版元名と所在地が彫られています。

  V. MENIOLLE Editeur, 7, rue de Sèvres, Paris  V. メニオル版画工房 パリ、セーヴル通り7番地

 その下には聖画の表題等が彫られています。

  MATER SALVATORIS. 20, Collection de St. Luc  「救い主の御母」 コレクシオン・ド・サン・リュク 20

  Propriété Déposée  版権所有


 「コレクシオン・ド・サン・リュク」というのは、福音記者ルカが聖母子の絵を初めて書いた人物とされるゆえに、聖母子の名画を集めてカニヴェとして発行したシリーズをそう名付けたのでしょう。

 このカニヴェはゴシック聖堂の薔薇窓のようなレース状の切り紙細工に囲まれています。レース状の部分はエンボス(型押し)によって立体的に仕上げられています。薔薇は聖母の象徴であり、薔薇窓は聖堂建築におけるマリアの象徴的表現ということができます。それゆえこのカニヴェは切り紙細工においても聖母を表現しているといえましょう。





 裏面は聖母に援けを求める祈りをフランス語で記しています。内容は次の通りです。

MATER SALVATORIS 救い主の御母
..
Nous élevons nos yeux vers vous, ô souveraine des anges et des hommes! O Mère du Sauveur, un jour nous devons tous paraître devant notre juge! Hélas,! chargés comme nous le sommes de tant de péchés, comment oserons-nous paraître devant lui, et qui apaisera sa juste colère?
天使たちの女王にして人の女王でもある御方よ。私たちは御身に眼を挙げます。救い主の御母よ。われわれは皆、いつの日にか、裁きを下し給う方の御前に出なくてはなりません。多くの罪を負うこのような身で、裁く方の御前に罷(まか)り出ることなど、どうしてできましょうか。その方の正しき怒りを、どなたが和らげてくださるでしょうか。
Il n'est personne qui puisse le faire si sincèrement et si effacacement que vous, ô Mère de miséricorde, qui l'avez tant aimé et en avez été si tendrement aimée!
かくも心から、かくも優しく、裁く方の怒りを宥めることがお出来になる方は、御身のほかにはおられません。憐れみ深き御母よ。御身は裁く方をかくも愛し給い、またその方からかくも深く愛され給うたのですから。
Vous n'avez point d'horreur du pécheur, quelque indigne qu'il soit; vous ne le rejetez point s'il soupire vers vous; et si, pénétré de douleur sur ses pécheés, il implore votre protection, vous l'animez même à espérer; vous le soutenez, vous le consolez et vous ne l'abandonnez point que vous ne l'ayez réconcilié enfn avec son juge pour trouver grâce à ses yeux. O Mère du Sauveur, c'est en vous que je mets toute mon espérance! (S. Bernard)
御身はいかに罪深き者をも憎み給わず、御身に向かいて嘆く者を拒み給わず、自らの罪によりて苦しみに貫かれる者が御身の庇護を乞い求めるならば、御身はその者に希望を与え、支え、慰め給う。御身はその者を捨て給わず、彼が裁く方から赦しを得られるまで執り成し給う。救い主の御母よ。私は全ての望みを御身に託します。(聖ベルナール)
.
V. Meniolle, éditeur, 7, rue de Sèvres, Paris
V. メニオル版画工房 パリ、セーヴル通り7番地


 われわれは自らを振り返れば、あまりに罪多き身であることに気付きます。キリストの義なる怒りの前に、われわれはただ打ち震えるのみで、弁明する術(すべ)を持ちません。しかし優しきマリアは、あたかも母がわが子を無条件に愛するように、罪深きわれらのために執り成してくださいます。裏面に書かれた聖ベルナールの祈りは、「怒れるキリストも、愛する母が執り成す者を赦さざるを得ないであろう」と考えて、あたかも父に叱られた子供が母の懐に逃げ込むように、聖母に助けを求めています。

 祈るマリアを描いた本品の聖画について、「鑑賞者の心は祈る聖母に同調し、敬虔な気持ちに聖化されて、知らず知らずのうちに聖母とともに祈りを捧げる」と先に述べましたが、聖画のマリアが幼子に捧げているのは、実はわたしたちのための執り成しの祈りに他ならなかったのです。


 本品は表(おもて)面の下部、「コレクシオン・ド・サン・リュク」と書かれている部分の前に薄いしみがあり、また下の縁に一箇所の小さな欠損がありますが、重大な瑕疵は一切ありません。およそ 150年前のアンティーク品であるにもかかわらず、ぼほ完璧な保存状態です。全面をグラヴュールで制作した聖画のクオリティは、19世紀フランスのミニアチュール版画のなかでも最高の水準に属し、同時代の類品中とりわけ美しい作品のひとつとなっています。





カニヴェの価格 25,800円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。



なお、木製フレームにベルベットを使用した額装を、手頃な価格で承ります。額の種類と料金につきまして、詳しくはこちらをご覧くださいませ。


額装のサンプル写真 壁掛け式・自立式の両様に使える額縁 14,700円 

※ 額の価格にはベルベット張りマットを含みます。ベルベットの色はご希望に応じます。








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