「私はイエスの愛が心に入るのを感じました」 少女テレーズのコンヴェルシオン エリオグラヴュールによる小聖画 リジュー、カルメル会修道院 1930年代


額のサイズ 縦 180 x 横 135ミリメートル  厚み 15ミリメートル

小聖画のサイズ 縦 120 x 横 65ミリメートル


発行 リジュー、カルメル会修道院



  小さきイエスの聖テレジア(Sainte Thérèse de l'Enfant-Jésus, 1873.1.2 - 1897.9.30)が修道生活を送った修道院、リジューのカルメル会で制作された小聖画。 1886年2月に十三歳の少女テレーズ・マルタンを撮影した写真を、エリオグラヴュールで再現しています。写真のオリジナルは 28.7 x 35.2ミリメートルとごく小さなサイズですが、この聖画においては大きく引き伸ばされています。あどけなさが残るテレーズは、口許に穏やかなほほえみを浮かべています。少女の眼差しには生来の優しい性格が現れています。

 聖画の下部には次の言葉が書かれています。長文の部分は手稿のファクシミリ版で、テレーズ自身の筆跡を再現しています。

      Je sentis la charité entrer dans mon cœur, le besoin de m'oublier pour faire plaisir et depuis lors je fus heureuse !     私は愛が心に入るのを感じ、神と人を喜ばせるには自分を忘れる必要があることを感じた。その時以来、私は幸福な者となったのだ。
     Ste Thérèse de l'Enfant-Jésus    幼きイエスの聖テレジア
         
     Office Carmel de Lisieux  v 3 a    リジュー、カルメル会 v 3 a
     Reproduction interdite    不許複製





 テレーズの自叙伝「ある魂の物語」("Histoire d'une Âme")は、1895年1月頃に著述された全八十六葉の「手稿 A」に基づきます。小聖画下部の引用は「ある魂の物語」の一部で、原テクストは「手稿 A」第四十五葉裏面にあります。

 「手稿 A」第四十五葉に書かれているのは、テレーズが十三歳であった1886年のノエル(クリスマス)の出来事です。小聖画に引用されている文のコンテクストが分かるように、「手稿 A」第四十五葉の両面に書かれたフランス語の原文を示し、日本語に全訳します。日本語訳は筆者(広川)によります。分かりやすさのために補った語句は、ブラケット [ ] で示しました。

     Manuscrit A Folio 45 Recto.    「手稿 A」 第四十五葉 表面
     Ce fut le 25 décembre 1886 que je reçus la grâce de sortir de l'enfance, en un mot la grâce de ma complète conversion. Nous revenions de la messe de minuit où j'avais eu le bonheur de recevoir le Dieu fort et puissant.    子供時代を完全に抜け出すという恵み、一言で言えば余すところなきコンヴェルシオンという恵みを私が受けたのは、1886年12月25日のことだった。私たちは真夜中のミサから帰って来た。ミサで私は強く力ある神を受ける幸いに与(あずか)った。
     En arrivant aux Buissonnets je me réjouissais d'aller prendre mes souliers dans la cheminée, cet antique usage nous avait causé tant de joie pendant notre enfance que Céline voulait continuer à me traiter comme un bébé puisque j'étais la plus petite de la famille..Papa aimait à voir mon bonheur, à entendre mes cris de joie en tirant chaque surprise des souliers enchantés, et la gaîté de mon Roi chéri augmentait beaucoup mon bonheur,    ビュイソネ(訳注 マルタン一家が当時住んでいた家)に着くと、私は煙突のところに置かれている靴を、喜び勇んで取りに行った。昔からのこのしきたりのお蔭で、私たちは子供時代に大きな喜びを味わっていた。私は家族でいちばん年下であったので、セリーヌ(訳注 テレーズのすぐ上の姉)は私を幼児のように扱い、子供時代を続けさせたがっていた。魔法の靴からプレゼントを取り出すたび、私は幸せであり、喜びの声を挙げたものだ。パパも私の様子を見、声を聞くことが好きだった。
     mais Jésus voulant me montrer que je devais me défaire des défauts de l'enfance m'en retira aussi les innocentes joies ; il permit que Papa, fatigué de la messe de minuit, éprouvât de l'ennui en voyant mes souliers dans la cheminée et qu'il dît ces paroles qui me percèrent le cœur : " Enfin, heureusement que c'est la dernière année !... "    しかし子供時代の欠点は取り除かなければならない。イエスはそのことを私に示そうと望み給い、無垢な喜びを私から取り上げ給うた。これはイエスの許しがあって起きた出来事なのだが、パパは真夜中のミサで疲れていて、煙突のところに私の靴があるのを見ると不機嫌になった。そして私の心を貫く言葉を口にした。「やれやれ。こんなことも今年で終わりだ」と。
     Je montais alors l'escalier pour aller défaire mon chapeau, Céline connaissant ma sensibilité et voyant des larmes briller dans mes yeux eut aussi bien envie d'en verser, car elle m'aimait beaucoup et comprenait mon chagrin : " O Thérèse ! me dit-elle, ne descends pas, cela te ferait trop de peine de regarder tout de suite dans tes souliers. "    私は帽子を脱ぐために階段を昇った。セリーヌは私の感受性の強さを知っており、私の目に涙が光るのを見て、自分も涙を流しそうになった。姉は私をたいへん愛していたから、私の悲しみがわかったのだ。セリーヌは私に言った。「ああ、テレーズ。下の部屋に降りちゃだめよ。すぐに靴の中を見るのは辛すぎるわ。」
     Mais Thérèse n'était plus la même, Jésus avait changé son cœur ! Refoulant mes larmes, je descendis rapidement l'escalier et comprimant les battements de mon cœur, je pris mes souliers et les posant devant Papa, je tirai joyeusement tous les objets, ayant l'air heureuse comme une reine. Papa riait, il était aussi redevenu joyeux et Céline croyait rêver !... Heureusement c'était une douce réalité, la petite Thérèse avait retrouvé la force d'âme qu'elle avait perdue à quatre ans et demi et c'était pour toujours qu'elle devait la conserver !...    しかしテレーズはもはや同じテレーズではなかった。イエスがテレーズの心を変え給うたのだ。私は涙を押しとどめて階段を駆け降り、どきどきしながら靴を取った。そして靴をパパの前に置くと、中に入っているあらゆる品物を、女王のように幸せに、喜びながら引き出した。パパは笑い、幸せな気分に戻っていた。セリーヌは夢を見ているようだった。でも夢ではない。幸福な現実だ。四歳半のとき(訳注 母が死去したとき)に失くした魂の力を、小さなテレーズは取り戻したのだ。この魂の力を、テレーズはずっと持ち続けることになった。
         
     Manuscrit A Folio 45 Verso.    「手稿 A」 第四十五葉 裏面
     En cette nuit de lumière commença la troisième période de ma vie, la plus belle de toutes, la plus remplie des grâces du Ciel... En un instant l'ouvrage que je n'avais pu faire en dix ans, Jésus le fit se contentant de ma bonne volonté qui jamais ne me fit défaut. Comme ses apôtres, je pouvais Lui dire : " Seigneur, j'ai pêché toute la nuit sans rien prendre. "    この光の夜から、わが生涯の第三期が始まった。すべての中で最も美しい時期、天なる神の恵みに最も満たされた時期だ。[余すところなきコンヴェルシオンに与(あずか)りたいという]善き意図を、私は常に持っていたのだが、十年かけてもコンヴェルシオンを実現できなかった。イエスはその働きを、一瞬で成し遂げ給うたのだ。使徒たちは「主よ、私は夜通し苦労しましたが、何も捕れませんでした」と言ったが(訳注 「ルカによる福音書」 5:5)、私も主に向かって彼らと同じことを言える状況だったのだ。
     Plus miséricordieux encore pour moi qu'Il ne le fut pour ses disciples, Jésus prit Lui-même le filet, le jeta et le retira rempli de poissons... Il fit de moi un pêcheur d'âmes, je sentis un grand désir de travailler à la conversion des pécheurs, désir que je n'avais pas senti aussi vivement... je sentis en un mot la charité entrer dans mon cœur, le besoin de m'oublier pour faire plaisir et depuis lors je fus heureuse !...    御弟子たちにもまして私を憐れみ給うたイエスは、おん自ら網を手にし、その網を投げ、魚でいっぱいにして引き寄せ給うた。イエスは私を「魂を漁(すなど)る者」とし給うた。私は罪びとたちのコンヴェルシオンのために働きたいと強く願った。この願いをこれほど活き活きと感じたことは、それまで一度も無かった。一言で言えば、私は愛が心に入るのを感じ、神と人を喜ばせるには自分を忘れる必要があることを感じた。その時以来、私は幸福な者となったのだ。
     Un Dimanche en regardant une photographie de Notre-Seigneur en Croix, je fus frappée par le sang qui tombait d'une de ses mains Divines, j'éprouvai une grande peine en pensant que ce sang tombait à terre sans que personne ne s'empresse de le recueillir, et je résolus de me tenir en esprit au pied de (la) Croix pour recevoir la Divine rosée qui en découlait, comprenant qu'il me faudrait ensuite la répandre sur les âmes...    ある日曜日、十字架に架かり給う主の写真を見たとき、御手から落ちる血に心を打たれた。御血を集めようと駆け付ける者もいないまま、主の御血が地に落ちたことを思い、私はひどく苦しんだ。私は精神において十字架の根元をつかみ、十字架から滴る神の露を受け、そうしてその露を人々の魂の上に撒こうと心に決めた。
     Le cri de Jésus sur la Croix retentissait aussi continuellement dans mon cœur : " J'ai soif ! " Ces paroles allumaient en moi une ardeur inconnue et très vive... Je voulais donner à boire à mon Bien-Aimé et je me sentais moi-même dévorée de la soif des âmes...    十字架上のイエスが発し給うた「わたしは渇く」という叫びも、わが心に繰り返し響き渡った。イエスの言葉は私がそれまで知らなかった熱意をとても活き活きと心の中に燃えたたせた。私は渇きを癒す物を主に差し上げたいと望むとともに、人々の魂を求めて私自身が渇くのを感じた。


 ここでテレーズが書いていることを理解するには、「コンヴェルシオン」という言葉が鍵になります。1886年のノエルに起こった事は、皮相な見方をすれば、ほんの小さな出来事、日常の一コマのようにも思えます。しかしながら「余すところなきコンヴェルシオン」(ma complète conversion)という言葉からも分かるように、この出来事はテレーズの一生を決定的に変えた「コンヴェルシオン」(conversion フランス語で「転位」の意)の体験でした。

 この出来事は、「疲れて不機嫌な父親に無神経な言葉で傷つけられながらも、涙を押し殺して無邪気な子供を演じ、父親の機嫌を直させた」というようなことでは決してありません。テレーズは悲しみを隠して演技したのではなく、全く偽りの無い幸せな気持ちになって、ペール・ノエル(サンタクロース)からのプレゼントを受け取りました。このときテレーズの魂はいわば地上の重力を離れ、地上で悲しむテレーズを超越したのです。そのせいでテレーズは演技ではなく本心から喜び、その喜びが父と姉にも伝わったのでした。

 テレーズはこの出来事を「コンヴェルシオン」と呼んでいます。「コンヴェルシオン」(仏 conversion)は宗教的文脈では「回心」とか「改宗」と訳されますが、この語の原意は「位置や向きを変えること」です。この出来事以前のテレーズは、自分の位置を離れて物事を感じることができませんでした。しかしながら1886年のノエルに、テレーズは自分を忘れ、自分の位置を離れた結果、神に由来する真の喜びを体験したのです。自分の方を向くのを止めて神の方を向いた結果、真の喜びを与えられたのです。

 大人を含む大部分の人たちは、このような経験をしたことが無いでしょう。成熟した人であれば、知性に限定した意味で「自分の位置を離れて考える」ことは可能です。しかしながら「自分の位置を離れて感じる」のは極めて難しいことです。ここでいう「自分の位置を離れて感じる」とは、感情に限定した移入である「同情」とも違います。テレーズが経験したのは父への同情ではなくて、身体は地上にありつつも、魂あるいは全人格が地上の束縛を抜け出して天の高みにあるような、極めて宗教的な体験でした。

 苦しむ人や動物を見ると誰でも同情しますが、大抵の場合、同情の気持ちはその場限りです。単なる同情が持続しないのは、同情の源である人格自体が転位せず、元の位置に留まっているゆえに、いったん他者に移入した感情が、時間が経てば元の位置に戻るからです。しかしながら、テレーズが体験したような全人格的転位(「余すところなきコンヴェルシオン」)は、人を恒久的に変えてしまいます。カルカッタのマザー・テレサは、全人格的転位の結果、その一生を慈善に捧げました。マザーの原動力は一時的な同情でないことはもちろん、繰り返し起こる同情でもないでしょう。マザーが時には信仰の疑問に苦しみつつも、慈善の業を止めることができなかった理由は、マザーの身体が地上にありつつも、その魂は既に天上に住まう者となっていたからに違いありません。テレーズの場合にもこれと同じことが起こったのです。

 上に引用した「手稿 A」では、このすぐ後に続く部分で、アンリ・プランジーニのコンヴェルシオンについて書かれています。アンリ・プランジーニは1887年3月17日、パリのモンテーニュ通十七番地で、ひとりの裕福な売春婦とその家政婦、家政婦の娘である十二歳の少女を惨殺し、金と宝石を奪った凶悪犯です。被害者三人の遺体は半ば斬首された状態で見つかり、当時のフランス社会は大きな衝撃を受けました。テレーズはプランジーニのコンヴェルシオンを願って祈りました。裁判の結果、プランジーニはギロチンで斬首されたのですが、刑の執行直前に回心(コンヴェルシオン)したと言われています。そのことを知ったテレーズは大いに喜び、プランジーニを「モン・プルミエ・アンファン」(mon premier enfant)、すなわち「私の初子(ういご)」と呼びました。

 凡人の目から見るとテレーズは聖女、プランジーニは極悪人で、この二人に共通点など皆無であるように思えます。しかしながらテレーズはプランジーニのために、自分と同じ「コンヴェルシオン」を願って神に祈り、その祈りは聞き届けられました。修道者の務めは、自己と他者の救いのために祈ることです。のちに修道女となる少女テレーズにとって、プランジーニはテレーズ自身のコンヴェルシオン後に、祈りによって救いに導いた最初の魂であり、まさに「初子」だったのです。





 本品は良質な中性紙に刷られており、変色は見られません。聖画の制作年代は 1930年代頃ですが、半世紀以上も前のヴィンテージ品であるにもかかわらず保存状態はきわめて良好です。特筆すべき問題は何もありません。

 商品の価格には聖画、額、マットを含みます。この額は注文制作による一点物で、絵画用の木製の棹(さお フレームの素材)を使い、国内の額装職人が手作りしたものです。マットに張ったベルベットの赤は、愛を象徴する色です。

 マットの色は変更できます。ご注文をいただいた時点で写真の額が在庫していない場合、同等クラスの他の額をご用意いたします。





本体価格 9,500円 販売終了 SOLD

電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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