2月9日 金曜日

 スタッフの近況です。




 やよいちゃんが図書室で昼寝をしています。調べ物をしていて眠くなったようですが、頭に血が昇らないのでしょうか。






 1922年に出版された「論理学=哲学論文」(Tractatus Logico-Philosophicus)において、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは次のように書いています。

      Was sich überhaupt sagen lässt, lässt sich klar sagen; und wovon man nicht reden kann, darüber muss man schweigen.     ある事柄がそもそも言表され得るとすれば、明瞭に言表されるべきである。一方、語り得ない事柄については、ただ沈黙せねばならない。(広川訳)


 この言葉を思い出したのは、十字架の聖ヨハネの「エル・カント・エスピリトゥアル B」(ハエン写本)の和訳を試みたせいです。四十連ほどの短い詩ですし、カスティジャ語にはある程度の自信があったので、簡単に訳せると思って取り掛かったのですが、詩的表現の解釈が難しく、たっぷり一週間のあいだ格闘することになりました。私にスペイン語を教えてくださった近松洋男先生は、翻訳作業が創作よりも困難であることを語っておられましたが、全く先生のおっしゃる通りです。「エル・カント・エスピリトゥアル B」についても、一週間かかって一応訳し終えましたが、解釈に自信を持てない部分が何か所もあります。「エル・カント・エスピリトゥアル B」を翻訳するあいだ、詩の言葉が持つ曖昧さに苦しみながら思い浮かべたのが「論理学=哲学論文」の言葉でした。デカルトの言葉を借りれば、「クレール・エ・ディスタンクト」(clair et distinct 明晰判明)に語ってほしいものだと思いました。

 しかしながら「エル・カント・エスピリトゥアル」を苦しみつつ訳し終えた今、この作品の分かりにくさは、作品の本質上やむを得ないものであると気付きました。トマス・アクィナス、デカルト、カント、ヴィトゲンシュタインの思想がいずれも分かりやすいのは、彼らがいずれも自然理性の本性的能力に基づいて、その能力で捉え得る範囲のことのみについて論じているからです。この範囲を超える事柄は「語り得ない事柄」(wovon man nicht reden kann)であって、それらについてはまさにただ沈黙しています。

 しかるに十字架の聖ヨハネは、人間の理性が有する自然本性的能力によって捉え得ない事柄について、沈黙せずに語ろうと試みています。自然言語の限界を超えた事柄に、詩という形式によって何とか接近しようとしているのです。このような試みに、言語は必然的に敗北します。それにもかかわらず、敗北を覚悟したうえで、ヨハネは神の表現に挑んでいるのです。そのことに思い至った一週間の翻訳作業でした。




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