稀少バンパー・オートマティック アール・デコ様式の金無垢時計 《グリュエン・ヴェリシン・オートワインド ダイヤモンド文字盤》 アメリカ時計最後の輝き 1952 - 53年頃


 1940年代末から 1950年代は、スイス時計の攻勢によってアメリカの時計産業が打撃を受け、消滅への坂道を転がり始めた時代です。第二次世界大戦以前のアメリカは、弱体化したエルジン、ウォルサム、ハミルトンの各社は自社ムーヴメントの製作を停止し、品質を犠牲にしてスイス製、ドイツ製、フランス製、日本製ムーヴメントを採用するとともに、意匠の点でも無難な時計を多く作るようになりました。しかしながらグリュエンだけは正反対の道をたどりました。従来グリュエン社はすべての腕時計用ムーヴメントをビール(Biel スイス北西部ベルン州の町)で作っていたのですが、1949年には初の国産ムーヴメントを製作しましたし、スイスで作った自社製ムーヴメントに関しても品質を落とさず、技術革新にも挑戦し続けました。ケースの意匠や材質に関しても、優れた機種、高級な機種を最後まで開発し続け、1958年に最後のモデルを発表するまで、時計作りに全く手を抜きませんでした。


 1950年代に入っても一切の妥協を排し、先進的な時計作りを継続したグリュエン社は、1952年後半頃、バンパー・オートマティック・ムーヴメントを搭載した本モデルを発表しました。バンパー・オートマティック(英 bumper automatic)は初期の方式による自動巻で、実用に適した巻き上げ効率を有しますが、間もなく開発されたローター・オートマティックは一層優れた巻き上げ効率を有していたゆえに、すぐにこれに取って代わられて姿を消しました。実際のところグリュエン社も、本品と同じ外観の時計に、途中からローター・オートマティック・ムーヴメント、キャリバー 480を採用しています。

 グリュエンに限らず、どのメーカーの時計でも、バンパー・オートマティック・ムーヴメントを搭載した機種は短期間しか作られませんでした。それゆえバンパー・オートマティックの時計は、歴史的価値のある貴重品となっています。





 本品はもともと男性用時計です。近年流行の男性用時計はこれまでの腕時計史になかったほど大きく分厚く作られていますが、本品は突出部分を除くケースの直径が三十ミリメートルで、この時代の他の時計と同様に、五百円硬貨よりもひと回り大きいぐらいのサイズです。本品は自動巻きですので手巻き式に比べてムーヴメントが若干分厚く、またダイヤモンドを嵌め込んだ立体インデックスも背が高いので、ドーム型風防を含めると十一ミリメートルの厚みがあります。それでも昨今流行の大ぶりな時計よりは薄いので、シャツの袖が時計に引っかかることなくスマートに着用でき、スーツやジャケットとの取り合わせにも適しています。

 本品は現代の女性用時計とほぼ同じサイズ、あるいは現代の女性用時計を一回り大きくしたぐらいのサイズですので、女性にもご愛用いただけます。デザインは個性的ですが、ファッション時計のような安っぽさとは無縁で、どのように改まった場でもお使いいただけます。





 時計内部の機械をムーヴメント(英 movement)と呼びます。ムーヴメントを保護する容器、すなわち時計本体の外側に見えている金属製の部分をケース(英 case)と呼びます。ケースの前面、文字盤と風防を取り囲む部分をベゼル(英 bezel)といいます。一般にウォッチ(携帯用時計)のケースはベゼル、胴、裏蓋に分かれますが、1930年代以降の腕時計ではベゼルと胴が一体化しているのが普通で、本品のケースもベゼルと一体化した銅と、裏蓋の二部分に分かれています。

 本品のケースはラウンド型(円形)で、一時半、四時半、七時半、十時半付近の四か所に装飾を設けています。ベゼルの四か所に装飾があるケースは 1950年代のアメリカン・ウォッチの流行ですが(ブローバ社の例 1954年 1959年)、本品ではこの部分が立体的に強調され、紛れもないアール・デコ様式の幾何学的意匠が銀一色のケースに華やぎを与えています。





 ケースの十二時側と六時側には、バンドを付けるための突起が二本ずつ突出しています。この部分をラグ(英 lugs)と呼びます。英語では時計のラグに限らず、突起一般を指してラグと称します。日本語では時計のラグを「あし」(足、脚)、「カン」、「カンあし」と呼びます。カンという時計用語はどの資料でも常にかな表記されていますが、漢字で書けば釬または銲でしょう。釬も銲も意味は同じで、鉾の石突きのこと、あるいは鎧を着た際に上膊部に当てる籠手のことです。

 本品のラグ(あし、カン)はケースと過剰に一体化せず、機能に即したシンプルな突起でありつつも、優美な曲線を描いています。十二時側と六時側のそれぞれにおいて、ラグ間の距離は十八ミリメートルですから、本品に適合するバンド幅は十八ミリメートルということになります。本品に限らずアンティーク時計全般に共通していえることですが、時計のメーカーとバンドのメーカーは別です。アンティーク時計に付いているバンドは、たまたまその時計に取り付けられているだけのことで、時計とバンドの組み合わせに必然性はありません。本品の場合も事情は同じで、バンドの種類や色はお好みに合うものをご用意いたします。

 このページに掲載した商品写真は黒い革バンドを付けて撮影しましたが、幅十八ミリメートルのバンドであれば、赤や青、茶色等に変更する事も出来ますし、金属製バンドに取り換えることもできます。バンドを替えると、ずいぶん雰囲気が変わります。本品はもともと男性用として作られた時計ですが、アンティーク時計は男性用であっても小ぶりですので、女性にも十分にお使いいただけます。





 時計において、時刻を表す刻み目や数字が配置された板状の部品を文字盤(もじばん)または文字板(もじいた)といいます。本品の文字盤は上品な艶消しの白で、疵(きず)がほとんど見られない非常に綺麗な状態ですが、再生処理(リファービッシュ、リダン)を施したものではなく、七十年近く前に本品が製作された当時のオリジナルです。

 文字盤の上部にはグリュエン(GRUEN)のロゴの下にプレシジョン(PRECISION)の文字、下部にはオート=ワインド(AUTO-WIND)の文字が書かれています。プレシジョン(英 precision)は英語で正確、高精度という意味です。グリュエン社では十七石以上のハイ・ジュエルの時計を、プレシジョンというランク名で呼んでいました。


 文字盤の周囲十二か所にある「長針五分ごと、短針一時間ごと」の印をインデックス(英 index)といいます。インデックスの様式には年代ごとの流行があります。大体の傾向として、1940年代以前の時計では、インデックスはすべてアラビア数字で、六時は小秒針の文字盤となっています。1950年代の時計では、十二時、三時、九時のみがアラビア数字で、六時は小秒針の文字盤、他の部分は直線または楔(くさび)形のバー・インデックスです。1960年代の時計はすべてがバー・インデックスです。

 本品は 1950年代の時計なので、通常であれば十二時、三時、九時はアラビア数字が書かれているはずですが、これらは細長い台座に嵌め込んだ三石のダイヤモンドに置き換わっています。通常であればバー・インデックスとなる部分は一石ずつのダイヤモンドに置き換えられ、それぞれのダイヤモンドはピラミッドの底面を円形にした形の台座に嵌め込まれています。





 アメリカのヴィンテージ時計のデザインは、十年ごとに大きく変化します。1940年代と 1960年代には保守的あるいは正統的なデザインが好まれたのに対し、1950年代と 1970年代には非常に個性的なデザインが多く生まれました。1950年代には文字盤に石を嵌め込んだモデルが作られましたが、たいていの場合はラインストーン(ガラス製の模造宝石)を使っていました。

 しかしながら本品の文字盤に嵌め込まれている十七個の石は、すべて真正の天然ダイヤモンドです。ガラスではないし、キュービックジルコニア、チタン酸ストロンチウム、YAG(イットリウム・アルミニウム・ガーネット)、GGG(ガドリニウム・ガリウム・ガーネット)等の模造石でもありません。これら十七石がすべてダイヤモンドであることは、熱伝導率計で検査済みです。

 時計のダイヤモンドはジュエリー用のダイヤモンドとは違い、瑕(きず)がある場合が多いですが、本品は綺麗なダイヤモンドを使っています。ダイヤモンドを嵌め込んだ台座の材質を検査するには文字盤から取り外さなければならないので、これらは検査していませんが、おそらく十四カラット・ホワイト・ゴールドです。


 現代の時計の秒針はセンター・セカンドといって、短針、長針と同様に、時計の中央に取り付けられています。これに対して 1950年代までの時計の秒針は、ごく少数の例外を除き、スモール・セカンドといって、六時の位置に取り付けられています。時計の中央に秒針を取り付ける方式のムーヴメントを制作するのは技術的に困難で、センター・セカンドが普及するのは1960年代です。1950年代までの時計はほとんどすべてスモール・セカンド方式で、本品も例外ではありません。





 本品の風防はガラス製で、極めて良好な状態です。本品の文字盤は立体インデックスの背が高く、長針はそれよりも高いところを回転しています。それゆえ針が風防の内側に当たらないように十分なクリアランスを確保する必要があり、凸レンズのように美しい曲線を描くドーム型風防が採用されています。風防の曲線はベゼルの斜面の延長と完全に一致しており、女性の身体のように官能的なカーヴが、ともすれば無機的になりがちなアール・デコのデザインを和らげています。

 ケースの三時方向から外側に突出するツマミは竜頭(りゅうず)といいます。本品の竜頭にはグリュエン(GRUEN)のロゴが入っています。本品は手巻き時計ですから、一日一回竜頭を回して、ぜんまいを巻き上げます。





 ケースの裏蓋は円形で、十二時側の斜面にグリュエン(GRUEN)、十四カラット・ゴールド(14K GOLD)の文字と、ケースを制作したジョネル社のロゴが刻印されています。裏蓋の内側にもこれらと同じ刻印があります。





 裏蓋に嵌ったムーヴメントを取り去ると、裏蓋の内側に様々な刻印が見えます。「ケイスト・アンド・タイムド・イン・ユーエスエイ・バイ・グリュエン・ウォッチ・カンパニー」(英 cased and timed in U. S. A. by Gruen Watch Company)とは、この時計のムーヴメントが「アメリカ合衆国でグリュエン時計会社によってケースに入れられ、時間調整をされた」という意味です。

 グリュエン社はスイスのビール(Biel ベルン州)に工場を持っており、そこで作ったムーヴメントをスイスからアメリカ合衆国に輸入して、アメリカ国内でケースに入れ、時計を完成していました。外国製ムーヴメントを「アメリカ合衆国でケースに入れ、時間調整をした」と書くのは、時計の完成品を輸入したのではないと強調するためです。時計の完成品を輸入した場合は高率の関税を課されたので、外国製ムーヴメントの時計をアメリカで売る場合は、どの時計会社も完成品を輸入せず、ムーヴメントだけを輸入し、アメリカ製のケースに入れて時計を完成させていました。


 裏蓋裏面の中ほどには、大文字のジェイ(J)を左から右に、槍が貫くマークが刻印されています。これはニューヨーク州ロングアイランドにあった時計ケースのメーカー、ジョネル社(Jonell Watch Case Inc.)の刻印です。ジョネル社は小規模な会社ですが、金無垢ケースをはじめとする高級ケースのメーカーとして知られています。本品のケースはジョネル社が制作し、グリュエン社に納めたものであることがわかります。

 その下にあるのは十四カラット・ゴールド(英 14 karat gold 十四金)の刻印です。金色のヴィンテージ時計(アンティーク時計)のケースは、ほとんどの場合金張りですが、本品のケースは金でできています。このような時計を金無垢(きんむく)時計といいます。十四金はアメリカ合衆国の金無垢製品で使われる標準的な純度です。十四金は十八金よりもずっと丈夫で、変形や摩耗に強いので、時計ケースに適しています。純度が低い金は表面が変色する場合がありますが、十四金が変色することはありません。





 "J35601" は、ケースのシリアル番号で、最初のジェイ(J)はジョネル社を表します。"475" はムーヴメントのモデル名(キャリバー名、型式)です。本品のケースは、全体のサイズと厚み、全体の形状、裏蓋のフランジの形状が、グリュエン・モデル 475にぴったり合うように作られています。"744" は本品のスタイル・ナンバー、すなわちケースの意匠を表す番号です。

 スタイル・ナンバー 744のムーヴメントは、二通りの機種が知られています。一つは本品すなわちモデル 475(バンパー・オートマティック)で、もう一つはモデル 480(ローター・オートマティック)です。叙上のように、バンパー・オートマティックが製作された期間はごく短く、すぐにローター・オートマティックに取って代わらて、それ以降現代までローター・オートマティックの時代が続いています。スタイル・ナンバー 744の時計はどちらの機械が入っていても稀少品ですが、本品にはより希少性が高いバンパー・オートマティック・ムーヴメント、モデル 475が搭載されています。





 上の写真は本品が搭載するムーヴメント、グリュエン・モデル 475を取り出して撮影しています。グリュエン・モデル 475はスイス、ビールの工場で製作されたグリュエンの自社製ムーヴメントです。電池で動くクォーツ式腕時計が普及したのは、1970年代以降のことです。本品が製作された 1952/53年にはクォーツ式腕時計はまだ存在せず、腕時計はすべてぜんまいで動いていました。グリュエン・モデル 475も電池ではなくぜんまいで動く機械式です。

 機械式の時計には、竜頭を回して手動でぜんまいを巻き上げる手巻ムーヴメントと、腕の動きで錘(おもり)を動かし、それによってぜんまいを巻き上げる自動巻ムーヴメントがあります。自動巻ムーヴメントであっても、竜頭を回して手動でぜんまいを巻き上げることは可能です。実際、現代人は昔に比べて腕を動かすことが少なくなり、ただ手首に着けているだけではアンティーク(ヴィンテージ)の自動巻時計のぜんまいが十分に巻き上がらないことが多くあります。特にグリュエン・モデル 475はバンパー・オートマティックといって、錘の動く角度に制限がありますから、ぜんまいの巻き上げを手巻きで補うと良いでしょう。


 秒針があるクォーツ式腕時計を耳に当てると、秒針を動かすステップ・モーターの音が一秒ごとにチッ、チッ、チッ… と聞こえます。デジタル式など秒針が無いクォーツ式腕時計を耳に当てると、何の音も聞こえません。これに対して機械式時計、すなわち本品のようにぜんまいで動く腕時計や懐中時計を耳に当てると、小人が鈴を振っているような小さく可愛らしい音が、チクタクチクタクチクタク… と連続して聞こえてきます。





 上の写真はムーヴメントを裏蓋から外すと見える側で、文字盤の反対側に当たります。アンカー(錨)状、あるいは弧が左右に伸びた扇状の大きな部品が手前に写っていますが、これは自動巻の錘(おもり)です。錘はムーヴメントの中心を軸にして、自由に動くように留められています。時計を手首に装着して日常生活を送ると、手首の動きに連動して、錘は左右に揺れるように回転し、その力でぜんまいを巻き上げます。自動巻機構とは人間が手首を動かす運動エネルギーからその一部を取り出し、ぜんまいに蓄える仕組みであるといえます。

 現代の時計の自動巻機構では、錘は三百六十度自由に回転します。これに対して本品では、錘が揺れる範囲はおよそ九十度に限られます。ムーヴメントの五時ないし六時の付近、上の写真で言えばいちばん奥から少し右寄りに、二つのバネが設置されています。およそ九十度の可動範囲を振り切ると、錘の端はバネに当たって跳ね返ります。バネは錘が当たる際の衝撃を緩和するとともに、錘に反対方向の運動エネルギーを与える働きをしています。この仕組みをバンパー・オートマチック(英 bumper automatic)といいます。

 バンパー・オートマチックの時計は、1940年代後半から 1950年代前半のごく限られた期間のみに製作されました。現在まで良い状態で残っている機械は少なく、本品は貴重な品物です。





 本品のムーヴメントにはグリュエン・ウォッチ・カンパニー(GRUEN WATCH Co グリュエン時計会社)、プレシジョン(PRECISION)、スウィツァーランド(SWITZERLAND スイス)、セヴンティーン・ジュエルズ(SEVENTEEN 17JEWELS 十七石)の文字に加え、本機ムーヴメントの型式(475)と、グリュエン社の商標名「オートワインド ヴェリ=シン 特許取得済」(AUTOWIND VERI-THIN PATENTED)の文字が刻まれています。バンパー・オートマチックのバネ二本は、奥の右寄りに見えています。


 手前の大きな車は香箱の上にある角穴車で、脇にムーヴメントのシリアル番号とアナジャステッド(英 UNADJUSTED 未調整)の文字が彫られています。ムーヴメントの歩度(時間の進み具合)が未調整であれば時計は使えませんから、アナジャステッド(未調整)と彫られているのは、もちろん嘘です。嘘と言う表現が直接的すぎるなら、建前といっても構いません。ムーヴメントにアナジャステッドと彫り付けることで、スイスから輸入されるムーヴメントが、関税のかからない部品あるいは未完成品であることを強調したのです。

 グリュエン社はシンシナチの本社に立派な時計工場を持っていたので、未完成の部品として輸入したムーヴメントを自社で完成させることも可能でした。しかしながら実際には、ビールの自社工場から出荷される時点で、ムーヴメントは完成されていたであろうと思います。それでもムーヴメントにはアナジャステッド(未調整)の文字が彫られ、完成した時計の輸入でないことが強調されました。

 アメリカにはエタブリスールと呼ばれる時計会社も多くありました。エタブリスール(仏 établisseurs)とはフランス語で「組み合わせ会社」という意味です。エタブリスールはグリュエン社のような自社工場を持たず、スイスから輸入したムーヴメントを、別メーカーから買ったケースと組み合わせるだけの時計メーカーでした。この場合、ムーヴメントは当然のことながらスイスにおいて調整済みでなければなりませんが、調整済みであるはずのムーヴメントにはアナジャステッド(未調整)と彫られていました。

 要するに、スリー・ポジションズ・アジャステッド(3 POS. ADJD.)、ファイヴ・ポジションズ・アジャステッド(5 POS. ADJD.)等の文字が刻まれている国産ムーヴメント(アメリカ合衆国製ムーヴメント)に比べると、アナジャステッドと彫られたスイス製ムーヴメントは品質が落ちるように思えるかもしれませんが、実際にはスイス製ムーヴメントであっても調整済みですので、まったく心配は要りません。





 良質の機械式腕時計、懐中時計には、摩耗してはいけない部分にルビーを使います。ルビーはモース硬度 9 と非常に硬い鉱物(コランダム Al2O3)ですので、時計の部品として使用されるのです。本品のムーヴメントには十七個のルビーが使用され、セヴンティーン・ジュエルズと表示されています。機械式ムーヴメントにおいて、摩耗してはならない箇所のすべてにルビーを使用すると、十七個のルビーを使った十七石(じゅうななせき)の高級品となり、ハイ・ジュエル・ムーヴメント(英 high jewel movement)と呼ばれます。

 本品グリュエン 475は十七石のハイ・ジュエル機です。上の写真に赤く写っているのがルビーです。ルビーは二個しか見当たりませんが、あとの十五個はムーヴメントのこちら側の表面から見えない所に使われています。本品グリュエン 475はオートマチックであるゆえに、ムーヴメントの主要部分が自動巻機構に覆われて見えにくいですが、必要な箇所には漏れなくルビーが使われていますので、ご安心ください。


 ムーヴメントの九時付近、上の写真でいえば右側の中ほど上に、高速で回転する環状の部品が写っています。これはウォッチ(携帯用時計、すなわち懐中時計及び腕時計)において振子の役割をする部品で、天符(てんぷ)といいます。時計のムーヴメントを人間の体に譬えれば、天符は脳や心臓に相当します。天符の中心軸を天真(てんしん)といいます。天真の両端をホゾといいます。腕時計の天真は、ホゾの直径が 0.08ミリメートルほどしかなく、非常にデリケートです。天真は鋼鉄でできています。鋼鉄は硬く、引っ掻きや摩耗に対しては強い素材ですが、衝撃に対しては脆弱(ぜいじゃく)で、時計を誤って落下させる等の衝撃を与えると簡単に折れてしまいます。天真のホゾが折れると天符の動きが止まり、時計が停止します。それゆえ天真のホゾ折れは、人間に譬えれば脳死や心停止のように重大な故障です。

 この故障を起きにくくするために、本品のムーヴメントは耐衝撃装置を備えています。写真を見ると、江戸時代の分銅に似た形の板バネが、天符の受け石(天符の中心に見えるルビー)を押さえています。これはインカブロック(Incabloc)と呼ばれる耐衝撃装置で、ムーヴメントに強い慣性が働いたとき、天符の穴石と受け石にわずかな動きを許すことにより、天真のホゾに加わる衝撃を低減します。

 なお耐衝撃装置が付いていても、衝撃が加わる方向によっては、耐衝撃機能がほとんど働きません。したがって耐衝撃装置の有無にかかわらず、機械式時計は乱暴に扱うべきではありません。そういう意味では、耐衝撃装置が付いたからといって使い勝手が良くなるわけでもないのですが、万一の事故を考えると、耐衝撃装置が付いているほうが一層安心できます。





 本機グリュエン 475には、スピラル・ブレゲ(仏 spiral Breguet)という部品が使われています。スピラル・ブレゲを日本語で言うとブレゲひげぜんまいですが、ブレゲひげ、巻き上げひげとも言います。フランス革命で処刑されたルイ十五世時代のフランスに、アブラアン・ブレゲという物理学者がいました。アブラアン・ブレゲは優秀な時計師でもあり、マリー・アントワネットの懐中時計を作ったことでも知られています。スピラル・ブレゲはこの人が考案した仕組みで、ひげぜんまいという部品の特殊な形状を指しています。スピラル・ブレゲは制作するのが難しいので、高級時計にのみ使われています。

 スイス製ムーヴメントのサイズはリーニュ(仏 ligne)という単位で表します。リーニュは日本語で「型」と訳しています。グリュエン社が作ったバンパー・オートマティック・ムーブメントはモデル 460が最初の機種で、サイズは 11 1/2 x 11 1/2リーニュ、振動数は f = 18,000 A/h、パワー・リザーヴは三十四時間でした。モデル 460系統のムーヴメントには 460, 462, 470, 475があり、本品モデル 475は最も進化した機械です。 460, 462, 470のサイズはいずれも 11 1/2 x 11 1/2リーニュですが、モデル 475は振動数 f = 18,000 A/h、パワー・リザーヴ三十四時間の性能を全く落とすことなく、10 3/4 x 10 3/4リーニュへの小型化を実現しています。機械は小さく作るほうが難しいですから、性能を犠牲にせずに小型化を実現したことは、グリュエン社の技術力を証明しています。

 なお金無垢時計はケースにコストがかかるため小ぶりであることも多いですが、本品は 1950年代の男性用腕時計としては標準的なサイズです。ムーヴメントが小型化したのは、自動巻ムーヴメントの研究開発が進んで技術が進歩したためであり、ケースの金を節約するために小さなムーヴメントを入れたわけではありません。





 裏蓋の刻印で分かるように、本品のケースはジョネル社製です。「槍に貫かれた "J"」のマークをジョネル社が商標登録したのは、1952年5月18日です。一方、本品のようなダイヤモンド文字盤の男性用時計は限られた時期にアメリカで流行しました。その時期とは 1950年から 1953年です。したがって本品の製作年代は 1952年後半から 1953年とみて間違いないでしょう。1954年以降ではないはずです。

 創業者ディートリヒ・グリュエンの息子であるショージ・グリュエンが 1952年に亡くなると、翌 1953年、グリュエン家はすべての株式を売却して経営から手を引きました。当時グリュエンの社長はベンジャミン・カッツで、この人は 1935年から同社の社長でした。グリュエン家が経営から退いた時点で、グリュエン社には体力が残っていましたが、1953年、ベンジャミン・カッツが社長を辞任すると、同社の経営状態は急速に悪化し、1958年に操業を停止しました。したがって本品は、グリュエン時計会社が歴史の終わりに全力を挙げて完成した作品であることがわかります。


 筆者(広川)は長年に亙ってアンティーク時計を扱ってきましたが、本品はユニークな時計が多いグリュエンの中でも飛び抜けて珍しいモデルで、入手はほぼ不可能です。当店ではオーナー(筆者)が気に入った物であっても、非売品にすることは極力避けています。そもそも気に入った品物のみを仕入れているので、気に入った物は売らないと言い始めると、売る物が無くなるからです。

 しかしながら本品はあまりにも美しく稀少な時計であるので、筆者は十数年のあいだこれを手許にとどめておりました。その間に二個目が見つからないかと探しましたが、見つかりませんでした。時計は長く持っていても傷むわけではありませんが、アンティーク時計店である以上は商品を売らずに持ち続けるわけにもいかないので、このたびウェブサイトにアップロードすることに決めました。




(上) チャールズ・クリーヴズ氏の講演「グリュエンのヴィンテージ時計蒐集」 NAWCC の 2003年6月号会報に掲載された音声反訳の一部。


 筆者は 1950年代の時計の広告を資料として蒐集していますし、グリュエンに関しては多数のモデル名が掲載された資料、マイク・バーネット氏の「グリュエン・ウォッチ・モデル・アイデンティフィケイション・ガイド」(Mike Barnett, "Gruen Watch Model Identification Guide")も持っていますが、本品はどの広告、どのカタログにも載っておらず、モデル名は不明です。2001年にケンタッキー州コヴィントンでNAWCC(National Association of Watch and Clock Collectors 全米時計収集家協会)のセミナーが開かれ、マイク・バーネット氏と並んで名前が知られるグリュエンのコレクター、チャールズ・クリーヴズ氏が、「グリュエンのヴィンテージ時計蒐集」と題する講演を行っています。この講演はビデオテープから音声反訳されて、NAWCC の 2003年6月号会報に掲載されています。この講演において、チャールズ・クリーヴズ氏は本品のモデルに言及し、次のように語っています。

 Figure 15 shows a pretty 14K gold automatic with a diamond dial. It's just such a stunning watch. This is another of my favorites out of all the Gruens that I have. It's a showy watch, but it's a beautiful design. The picture really doesn't do it justice.  写真 15.は十四金の可愛らしい自動巻で、文字盤にダイヤモンドが嵌っています。この時計はとにかく見事の一言に尽きます。わたしが所有するすべてのグリュエンの中で、これは最も気に入っているものの一つです。目立つ作りですが、デザインが美しいのです。この時計の素晴らしさは、写真では全く伝わりません。
Vintage Gruen Wristwatch Collecting by Charles Cleves チャールズ・クリーヴズ 「グリュエンのヴィンテージ時計蒐集」
NAWCC bulletin, June 2003 NAWCC会報 2003年6月号






 古代ギリシアの哲学者プラトンは、処刑前日のソクラテスを描いた対話篇「パイドン」においてソクラテスとシミアスの対話を記していますが、従容(しょうよう)として死に臨むソクラテスは自らを白鳥になぞらえ、次の内容の言葉を語っています。「白鳥はアポロンの僕(しもべ)であるから予言の能力を持っている。白鳥は死期を迎えたことを悟ると、神の許へ行けることを喜んで、生涯で最も美しい歌を歌うのだ。」人が最後に作り出す最高傑作は、この故事にちなんで、「白鳥の歌」と呼ばれます。グリュエン時計会社にとって、本品はまさに「白鳥の歌」です。




(上) グリュエン 《カルトゥーシュ》 アール・デコ様式による最初期の女性用腕時計 1922年 グリュエン 833(ロレックス 250)を搭載。当店の商品です。


 グリュエン社のスイスの工場はロレックス社に買い取られ、現在はロレックスの本社となっています。およそ六十年前、グリュエン社があのように唐突に消滅せず、現在まで存続していれば、どれほど素晴らしい時計が世に送り出されたかと想像すると残念でなりません。グリュエン社とロレックス社は以前から密接な関係にあって、たびたび共通のムーヴメントを使っていました。筆者はロレックス社がグリュエン社の工場を買い取った詳しい経緯を知りませんが、グリュエン社工場の設備や職人はロレックス社が自社ブランドの時計を製作するのにそのまま役立ったはずで、工場買収はちょうど都合がよかったのでしょう、





 本品のムーヴメントは天符の振り角も大きく、良好な状態です。オシドリの嵌まる竜真の窪み、キチ車と鼓車の噛み合わせ部分、裏押さえの腕部分等、消耗しやすい部分にも異常はありません。アンティーク時計(ヴィンテージ時計)はどこの店でもほぼ現状売りで、修理にはなかなか対応してもらえませんが、当店ではアンティーク時計の修理に対応しています。

 アンティーク時計はどこの店でも修理に対応しない「現状売り」が普通ですが、当店ではアンティーク時計の修理が可能です。本品に関しても、当店では修理が必要となった場合に備え、貴重な部品を保管し、きちんと管理しています。アンティーク時計の修理等、当店が取り扱う時計につきましては、こちらをご覧ください。

 当店の時計は現金一括払い、ご来店時のクレジットカード払いのほか、現金の分割払い(三回払い、六回払い、十二回払い、二十四回払いなど。利息手数料なし)でもご購入いただけます。当店ではお客様のご希望に出来る限り柔軟に対応しております。ご遠慮なくご相談くださいませ。





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