ギョーシェ彫り、金銀の花に淡い瑠璃色のエマイユ アール・ヌーヴォー様式の銀無垢トランジショナル・ウォッチ


ケースの直径 28 8 mm (突出部分を除く)


スターリング・シルバー製 蝶番(ちょうつがい)式ケース

白色琺瑯(ほうろう、不透明エマイユ)文字盤に、黒と赤でアラビア数字を手書き

ダボ押し式時刻合わせ機構

10個のルビーを使用した「シリンダー式」手巻きムーヴメント


1911 - 1912年頃



 リスト・ウォッチというものがまさに生まれようとしている時代に製作された最初期の腕時計。いまからおよそ百年前の 1912年、わが国で言えば明治の末にスイスで作られ、イギリスに輸入された「機械式時計」で、電池ではなくぜんまいで動きます。一日一回、ぜんまいを巻いてください。

 本品は高級品である銀無垢ケースに銀無垢のバンドを取り付けています。ケースのベゼル部分にはギョーシェ彫りを施した上に金銀箔の小さな植物を置き、瑠璃色のガラス・エマイユを掛けています。


【機械式時計の歴史と、腕時計の誕生】

 時計には、電池で動く「クォーツ式」時計と、ぜんまいで動く「機械式」時計の二種類があります。「クォーツ式」時計は1970年代に普及し始めたもので、それ以前の時計はすべてぜんまいで動く「機械式」時計でした。

 機械式時計はガリレオ・ガリレイが発見した「振り子の等時性」を利用して時を測るもので、基本の形態は「振り子時計」です。振り子は教会の大時計や家庭の柱時計、置時計に付いています。

 しかし振り子時計は傾けることができません。時計を傾けると、振り子の動きが止まってしまうからです。したがって携帯用時計(ウォッチ)では、振り子は「天符(てんぷ balance)」という部品に置き換えられています。天符はあたかも振り子が往復するように、一定の周期で方向を切り替えて回転します。

 天符


 振り子の代わりに天符を採用することで、時計を自由な角度に傾けることができるようになり、携帯用時計が実現しました。最初の携帯用時計は懐中時計です。現代人は「ウォッチ」という言葉で腕時計を思い浮かべますが、「ウォッチ」は本来は懐中時計(ポケット・ウォッチ)のことでした。

 最初の懐中時計はボールのように丸く厚みがありましたが、技術の進歩に伴って薄型化・小型化しました。特に女性用の懐中時計は男性用よりも小さくデザインされ、20世紀初頭頃には手首に装着できる程度の大きさになりました。こうして誕生したのが腕時計です。

 当初、腕時計は女性専用のものであり、男性は大きな懐中時計を使っていました。男性の間で腕時計が使われるようになるのは、ようやく1920年代の半ば以降のことです。


【トランジショナル・ウォッチ】

 本品は懐中時計から腕時計が生まれようとする時代に製作された女性用時計です。バンドを取り付けた腕時計ではありますが、機械やケースの作りは懐中時計の面影を強くとどめており、懐中時計にバンドを付けたもの、といっても過言ではありません。1900 - 1910年代に製作されたこのような時計を、「トランジショナル・ウォッチ」、すなわち移行期の時計と呼んでいます。



 本品には現代の時計と異なるいくつかの特徴があります。

 文字盤は懐中時計の様式で、真っ白な琺瑯(ほうろう)、すなわち不透明の白色ガラスによるエマイユ(七宝)に、アラビア数字によるインデックスを手書きしてあります。インデックスの12時のみが赤色になっているのも、懐中時計によく見られる様式です。

 一分ごとの刻み目は、金のドット(点)で表しています。数字の外側のドットは濃いイエローゴールドによる小さな四角錐、数字の間のドットはシャンパン・ゴールドの小半球となっています。



 琺瑯(エマイユ、七宝)は、銅等の金属板上に色ガラスのフリット(粉末)を塗布して焼成し、高温で融解したガラスを金属板に接合させる(張り付かせる)技法です。金属とガラスを接合するには両者の熱膨張係数(温度変化に伴う伸び縮みの割合)が一致していなければなりませんが、金属の熱膨張係数はガラスよりも大きいため、長い年月のうちにはひずみが大きくなる機会があって、ガラス層の表面にヘアライン(非常に細い亀裂)が生じがちです。

 本品においても文字盤中央から5時にかけて微かなヘアライン(亀裂)がありますが、ヘアラインはこの一本だけで、エマイユの剥落はありません。またこのヘアラインは非常に見えにくく、写真に撮ろうと頑張りましたが、成功しませんでした。要するに本品の文字盤には目に見える瑕疵(かし 欠点)が無く、たいへん綺麗な状態です。



 針は真正のブルー・スティール(青焼き)で、懐中時計に多用されたスペード形です。スペード形の針は古き良き時代を偲ばせる優雅な形状ですが、本格的な腕時計の時代が始まると、まったく使われなくなります。本品はスペード形の針を使用した最後の世代の時計です。

 時刻合わせはアンティーク懐中時計によく見られる「ネイル・セット」(nail set ダボ押し式)によります。すなわち竜頭(りゅうず)を引き出さず、4時頃の位置にある突起を爪の先で押し込みながら竜頭を回すことにより、時刻を合わせます。ぜんまいを巻くときは、突起を押し込まずに竜頭を回します。

 腕時計の竜頭には側面のみに刻み目があるのが普通ですが、本品では竜頭全体が刻み目に被われています。これは懐中時計の竜頭に見られる特徴です。なお手巻き式時計はぜんまいを毎日巻くので、クォーツ時計(電池で動く時計)に比べて竜頭がすり減りやすく、この時計も1930年代以降のものと思われる腕時計用竜頭に取り換えられた状態で入手いたしました。写真に写っている竜頭は、新品のまま残っていた懐中時計用の竜頭を当店で取り付けたものです。






 ケースの裏蓋は、懐中時計と同様に、ちょうつがい式になっています。ちょうつがいに緩みはなく、ちょうど90度に開きます。裏蓋の内側には次のホールマークがあります。


・ロンドンの商社ストックウェル (Stockwell & Co, 16/18 Finsbury Street, London) のスポンサー・マーク、「上部に突起のある長方形内に GS」。ここで「スポンサー」(sponsor) というのは、検質(純度を検査すること)されるべき貴金属製品を、王立の貴金属検査所に持ち込む許可を得ている輸入業者のことです。ストックウェル社はロンドンの輸入業者ジョージ・ストックウェル氏 (George Stockwell) が 1907年頃に設立し、1930年頃まで事業を継続していた会社で、時計ケース、小箱、化粧用品セット(鏡、櫛、マニキュア用品など)等の銀製品、ジョージ・ジェンセンの銀製ジュエリーを輸入していました。

・数字 "88525" は、スイスでケースを制作したメーカーが刻印したケースのシリアル番号です。いちばん下の "M" "1" もケースのメーカーによる刻印です。本品のケースを制作、検査した担当者の記号でしょうか。なおケースのメーカーとムーヴメントのメーカーは通常異なります。

・スターリング・シルバー(純度 925/1000の銀)のスタンダード・マーク(純度の刻印)である "925"。

・ロンドンのゴールドスミス・ホール(すなわちロンドン・アセイ・オフィス)が検質した輸入銀製品に刻印されるタウン・マーク、「十字架上に獅子座の印」。

・ロンドンのゴールドスミス・ホールが 1912年5月29日から 1913年5月28日までの間に検質したことを示すアセイヤーズ・マーク(デイト・マーク)、"r"。なお5月29日はイングランド国王チャールズ2世 (Charles II of England, 1630 - 1660 - 1685) の誕生日です。チャールズ2世が即位した 1660年から 1973年までは、この国王の誕生日である5月29日が、ロンドンのゴールドスミス・ホールにおけるアセイヤーズ・マークの更新日とされていました。


 写真にうまく写っていませんが、裏蓋の内側には他にも多数の手書き文字が彫り込まれています。これらは修理や整備の記録で、必要な修理、整備を繰り返しながら、大切に使われてきた時計であることを裏付けています。





 ムーヴメント(時計内部の機械)はスイス製の手巻き式で、懐中時計の時代に多用された「シリンダー式ムーヴメント」という種類です。写真に赤く写っているのは宝石のルビーで、本品の機械は10個のルビーを部品として使用した「10石(せき)ムーヴメント」です。

 「シリンダー式」というのはムーヴメントの「脱進機」(だっしんき escapement)という部分の形式で、イングランドの時計師ジョージ・グラハムが 1720年頃に発明した機構です。ジョージ・グラハムはこの「シリンダー脱進機」によって、実用に十分に耐える精度の機械式時計を制作することに初めて成功しました。

 既に述べたように、機械式時計において最も重要なのは「天符」(てんぷ)という部品です。この「天符」が外部からの影響を全く受けずに自由に振動すれば、時計は最高の精度を実現します。しかるにシリンダー脱進機においては、「ガンギ車」という部品が「天符」に直接接触するゆえに、「天符」が完全に自由な振動を行うことができません。したがって18世紀に発明されたシリンダー脱進機の時計は、17世紀までの時計に比べると格段に正確になったとはいえ、もう一世代あとの「クラブトゥース脱進機」に比べると多少の誤差が出やすい型式です。ただし誤差といっても一日当たり最大二、三分程度ですので、アンティーク品として楽しむ上で問題は無いでしょう。

 本品のムーヴメントは天符の振り角は大きく、天真の曲がり、ひげぜんまいの巻き乱れ等の問題は一切ありません。巻き上げ及び時刻合わせ機構にも問題はありません。外見上のみならず、動作・性能の点でも、古い年代にもかかわらず良好なコンディションです。





 ベゼルは、「ギョーシェ彫り」(曲線パターンによる彫金細工)の上に、金銀の箔で植物模様を模(かたど)り、「エマイユ・シュル・ロンド・ボス」(曲面上のエマイユ、七宝)を施しています。エマイユのガラスはスマルト(コバルトガラス)と思われますが、コバルトの含有量を抑えて明色の色ガラスとし、金銀の植物が明るく輝くように工夫しています。

 植物模様は写実的な日本風で、20世紀初めのヨーロッパを席捲したアール・ヌーヴォー様式によります。金箔の意匠はエーデルワイスの花のような形をしています。銀箔の植物はどんぐりの実を付けており、樫(かし)あるいはブナを模(かたど)っています。勝利や力、正義等を象徴するシェーヌの意匠は、古代ギリシア以来工芸品に多用されています。

 エマイユ(七宝、琺瑯)はごく薄いガラスの層ですので、アンティーク時計のエマイユ製品にはひび割れや部分的な剥落がよく見られます。しかしながら本品はたいへん良好な保存状態で、全くの完品です。


 本品は外見上のコンディション、機械のコンディションとも、非常に良好です。百年以上前の時計としては驚くべき保存状態です。





オーバーホール済 126,000円 現状売り 販売終了 SOLD


電話 (078-855-2502) またはメール(procyon_cum_felibus@yahoo.co.jp)にてご注文くださいませ。




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