真珠 その八 あこや養殖真珠
les perles ― 8. Les perles akoya de culture



(上) 英虞湾に浮かぶ真珠養殖の筏


 真珠の養殖について、いつ誰が初めて成功したのかは不明です。小規模あるいは実験的規模の真珠養殖は、スウェーデン、フィンランド、スリランカ、中国、オーストラリア、タヒチ、アメリカ合衆国において、日本人以前の成功例が知られています。しかしながらそれらの事例において真珠養殖の手法は確立されず、商業的規模の生産にもつながりませんでした。またそれらの実験で得られたのは半円真珠、すなわち貝殻内側の真珠層に張り付いた半球形の真珠のみであり、真円真珠(球形の真珠)を得ることはできませんでした。

 現在、あこや真珠は日本(三重県、愛媛県、佐賀県、大分県、熊本県、長崎県)の他、韓国、中国、ヴェトナムでも養殖されています。


【日本におけるあこや養殖真珠の歴史 その1 草創期から第二次世界大戦前まで】



(上) 御木本氏が最初に養殖に成功したのは、半円真珠でした。ミキモト真珠博物館の展示より。


 当然のことながら、わが国における真珠養殖も、初期は試行錯誤の連続でした。真珠養殖草創期の人物として最も知名度が高いのは御木本幸吉(1858 - 1954)ですが、農商務省では御木本氏以前に真珠養殖に取り組んでいました。しかしながら先の見通せない事業に身命を賭けた事業家として、御木本氏の功績はまことに大きいといえます。

 御木本氏が自身の養殖場で初めて半円真珠を得たのは、1893年のことでした。御木本氏は 1896年に半円真珠の特許を取得しました(特許第 2670号)。真円真珠については、半円真珠の十五年後に当たる 1908年に、明治式あるいは三八式と呼ばれる方法で、ようやくこれを得ることが出来ました。ただしアコヤガイの生殖巣に核を入れる現在の方法と異なり、明治式(三八式)は外套膜に核を挿入する方法で、成功率が低いため、あまり発展しませんでした。

 真円真珠の作り方を発見したのが誰であるかははっきりしませんが、第二次世界大戦後に日本に進駐した連合軍総司令部天然資源部のアルヴィン・カーン博士(Dr. Alvin R. Cahn)は、1949年10月1日付の文書で、西川藤吉博士(1874 - 1909)と見瀬辰平氏(みせ たつへい 1880 - 1924)が真円真珠養殖技術の発明者であると報告しています。西川藤吉博士は農商務省の技官で、1903年に御木本幸吉の次女と結婚し、真円真珠の養殖法に関する特許を 1907年に出願しました。見瀬辰平氏は真円真珠の養殖法を独自に研究して 1904年に真円真珠採取に成功し、西川博士と同じ 1907年に特許を出願しています。両者の養殖法はほぼ同じだったので特許争いとなりましたが、結局西川氏が特許を取得しました(註1)。

 日本の養殖真珠は 1919年から 1923年にかけてヨーロッパとアメリカで展覧され、欧米から注文が入るようになりました。その一方で養殖真珠は果たして真正の真珠なのか、天然真珠と同等の価値を認めるべきなのかについて、激しい論争が繰り広げられました。この問題を巡っては、1924年になって養殖真珠には必ず養殖という言葉を付して天然真珠と区別すべきことが定められました。さらに翌 1925年には、ロンドン商工会議所ダイヤモンド真珠貴金属貿易課が真珠鑑別所を設置することが決まりました。同研究所は二人の高名な宝石学者バジル・W・アンダスン博士(Basil William Anderson, 1901 - 1984)とロバート・ウェブスター博士(Robert Webster, 1899 - 1976)が所属し、従来の顕微鏡や屈折計、分光器だけでなく、エックス線検査装置を活用して天然真珠と養殖真珠の鑑別を行いました。このような過程を経て、日本の養殖真珠はようやく欧米に受け入れられました。

 日本ではあこや真珠の養殖が目覚ましい発展を遂げ、戦前のピークである 1938年には、289か所の養殖場で 1,088万3512個の養殖真珠が生産されました。この年に出荷された養殖真珠の総額は 1,376,325円で、64.9パーセントが三重県産でした。戦前の日本人は貧しかったので、自国で生産される真珠を買うことはできず(註2)、養殖真珠はほぼ全量が神戸から輸出されました。

 現代のあこや養殖真珠は直径八ミリメートル以上が主流です。しかしながら戦前から終戦直後の時代、養殖真珠はほとんどが直径三ないし四ミリメートルで、五ミリメートルの珠は稀でした。ましてや直径六ミリメートル、七ミリメートルの珠はたいへん珍しく高価でした。この時代のネックレスは現代のようなユニフォーム・タイプではなく、大きさの順に珠を並べたグラデュエーション・タイプでした。グラデュエーション(英 graduation)は英語で等級分けのことですが、ネックレスの名称として使われる場合は、大きさの順に珠を並べる連組みを指しています。


【日本におけるあこや養殖真珠の歴史 その2 第二次世界大戦期から戦後】

 第二次世界大戦中は戦争遂行に無関係のあらゆる産業が弾圧されましたが、真珠養殖も例外ではありませんでした。真珠養殖場は 1940年から 1945年まで政府に管理され、壊滅的な打撃を受けました。戦前には 350箇所の真珠養殖場がありましたが、終戦時にはこれが 105箇所に減っており、この 105箇所も機能を停止する寸前に追い込まれていました。

 1946年4月13日、マッカーサーは日本政府に対し、毎週一定量の真珠をアメリカ軍のデポ(購買所)に納入することを命じました。同年5月17日には日本国内での真珠取引と流通が禁じられ、この禁令は 1948年まで続きました。この時期、日本の真珠は進駐軍に納入されるかアメリカに輸出されるかのいずれかとなりました。しかしながらこれはアメリカ人に対する最上の宣伝となりました。

 1948年から 1960年代初頭まで、日本の真珠産業は 3.5匁グラデュエーションに大きく依存していました。 3.5匁グラデュエーションは中央に直径七ミリメートルの大珠一個を置き、その両側の真珠は留め金に近づくほど小さくなって、直径三ミリメートルの珠で終わる長さ十七インチ(四十三センチメートル)、重量 3.5匁(もんめ)のネックレスです。3.5匁グラデュエーションの卸値は七ドル(2520円)で、これから考えると小売値は 3000円台後半、あるいはそれ以上であったはずです。一方 1953年の初任給は、大卒男性でも 4500円ほどです。比較的手ごろな 3.5匁グラデュエーションといえども、大多数の人にはほぼひと月分の給与額に相当する高価な品物でした。しかしそれでも真珠の人気は高く、このネックレスはよく売れました。

 1952年、政府は輸出用養殖真珠に品質検査を義務付け、神戸と東京に真珠輸出検査所が設けられました。輸出される真珠の八十五パーセントは、神戸で検査を受けました。わが国の養殖真珠生産量は 1966年に最大となり、おそらく六万貫(225トン)以上と推定されています。しかし大量生産は過剰在庫を産み、養殖真珠の価格は 1967年から 1968年にかけて暴落しました。このとき多数の真珠会社が倒産し、政府は大規模な財政支援を行うとともに、厳しい生産調整を主導しました。この時の過剰在庫は 1976年秋にようやく解消しました。真珠業界は立ち直り、バブル景気の頃は国内で流通する真珠が輸出量とほぼ同じになりました。当時、あこや養殖真珠と淡水養殖真珠はすべて日本産でした。シロチョウ養殖真珠とクロチョウ養殖真珠はわずかな量が外国で生産されていましたが、日本はその半分を買っていました。当時の日本は世界最大の真珠消費国でした。

 しかしながら日本の養殖真珠会社は利潤を追求するあまり養殖期間を短縮し、真珠の巻き(真珠層の厚さ)は薄くなっていました。真珠層が薄いと、真珠はやがて輝きを失い、変色することもあります。真珠の色や形は人それぞれの好みですが、真珠層が厚いことは良い真珠の絶対的な条件です。真珠層が薄い 1990年代の真珠は、1970年代以前に比べて明らかに質が落ちていました。片や真珠養殖は日本以外の国々でも盛んになりつつありました。琵琶湖で淡水真珠が採れなくなる一方、中国では圧倒的規模で淡水真珠の養殖が行われ、母貝をカラスガイからヒレイケチョウガイに変更することで、以前の皺珠は見違えるように滑らかな珠になっていました。中国ではあこや真珠の大規模養殖も始まりました。フィリピン、オーストラリア、インドネシアにおけるシロチョウ真珠養殖も勢いを増していました。長年にわたる独占状態に安心していた日本の養殖真珠業界は、この事態に気付くのが遅れました。

 あこや真珠の養殖期間は一年以下であることが多いですが、現在では一年半にわたって養殖した「越しもの」(越年もの)の比率が増えてきています。養殖期間が長いとバロック真珠になる可能性が高まりますが、真珠層が厚い珠も出来やすくなります。越しものの比率を増やした結果、商品価値がある真珠のうち十数パーセントが、花珠(はなだま)と呼ばれる高品質の真珠となっています。


【あこや真珠養殖の工程】



(上) アコヤガイの解剖図。養殖真珠の核を二個移植した状態。


 アコヤガイの卵は受精後二十時間でトロコフォラ幼生(trochophore トロコフォア幼生ともいう)となり、およそ五日目までをベリジャー幼生(veliger 別名 D型幼生)として過ごしたあと、受精後五日ないし十八日頃に殻頂膨出期を迎えます。ここまでの幼生は海中を浮遊しており、受精後二十日目頃から付着期に入ります。真珠養殖の草創期には、海中を漂う幼生を採苗器で捕えていましたが、やがて優秀な雄貝と雌貝を選んで精子と卵を取り出し、人工授精が行われるようになりました。水槽中を漂うアコヤガイの幼生は農業用の遮光網に付着させられ、沖出し籠に入れて二年目の春まで海で育てられます。母貝として成熟したアコヤガイの体は、上図のような仕組みになっています。





 母貝への核入れは、春に行われます。核入れの前には通水性の悪い籠にたくさんの貝を詰め込み、いったん海に戻します。過密状態の貝は籠の中で代謝が落ち、半死半生の仮死状態になります。アコヤガイをこのような状態にする作業を、抑制と呼んでいます。養殖真珠を作るには、アコヤガイの生殖巣をメスで切開して核と外套膜片を挿入しますが、その際生殖巣に卵や精子があってはなりません。この外科手術の前に貝の代謝を落とすのは、ひとつには卵や精子を作らせないためです。さらに貝の代謝を落とすことで、移植への拒絶反応を抑えるという目的もあります。







 上に示した二枚の写真は、核と外套膜片をアコヤガイに挿入しているところです。シロチョウガイ、クロチョウガイには一度に一個しか核入れされませんが、アコヤガイへは貝の大きさによって二個ないし三個、最大四個の核が移植されます。

 シロチョウガイ、クロチョウガイの場合はセカンド・オペレーションといって、真珠採取後の貝に、二度目の核入れを行う場合が多くあります。一度目の真珠を作って大きくなった真珠袋に、さらに一回り大きな核を入れることにより、二度目の養殖で大きな球を作らせます。シロチョウガイとクロチョウガイには二回、稀に三回の核入れが行われますが、アコヤガイの体は小さくこのような酷使に耐えられないので、核入れは一度きりです。

 手術後のアコヤガイは、波の穏やかな場所で一か月のあいだ養生されます。この間にアコヤガイの体内では外套膜片が細胞分裂を起こして増殖し、核を取り巻く真珠袋ができます。





 養生が終わると、アコヤガイは袋に入れ替えられ、適切な栄養分を摂取できる沖合に出されます。沖合にいる間、アコヤガイの殻や網には海藻、イガイ、フジツボをはじめとする様々な生物が取り付きます。これを放置するとアコヤガイが窒息しますので、およそ十日から二週間に一度は掃除をする必要があります。貝掃除は手作業または自動化された機械で行います。下の写真は貝掃除の機械です。





 真珠層の成長は木の年輪に似て、成長が遅い冬に緻密になります。冬に成長した緻密な真珠層を、化粧巻きと呼んでいます。化粧巻きの季節である冬は、真珠の照りを仕上げる季節です。この理由により、養殖真珠の浜揚げは冬に行われます。既に述べたように、核入れは春に行われます。次の冬に浜揚げされる場合、養殖期間は七か月です。ひと冬をまたいでその次の冬に浜揚げされる場合、養殖期間は一年半です。一年半に亙って養殖された真珠は、越しもの(越年もの)と呼ばれます。浜揚げの時期に合わせて、真珠の入札会は冬に行われます。

 浜揚げされたあこや真珠は、入札会に向けて品質ごとに分けられ、商品となるものにはしみ抜き(漂白)と調色(染色)が行われます。アコヤガイのコンキオリンは黄色の色素を含むので、あこや真珠は必ず黄色味がかっています。しかしながら一般の消費者は真珠を白いものだと思っていて、黄色い真珠は高い値段で売れません。それゆえ 1950年代に神戸の真珠業者が過酸化水素水による漂白を始めました。この作業を真珠業界ではしみ抜きと呼んでいます。しみ抜きに際して過酸化水素水に添加する薬剤の配合は、業者がそれぞれに工夫しています。松井佳一氏の大著「真珠の事典」(北隆館 1965年)には、各種漂白剤を使った実験結果が詳しく記述されています。


 ホワイト・ピンクの真珠は人気があります。真珠業界でホワイト・ピンクと言う場合のホワイトとは文字通りの白(純白)ではなく、薄い緑色、あるいは緑がかった白のことです。あこや真珠の薄緑はクロチョウ真珠のピーコック・グリーンほど目立ちませんが、この薄緑が加わることにより、あこや真珠のピンクに深みが出ます。

 染色しなくてもピンクがかっている真珠は、真珠層の巻き方が均等で、ピンクがかった干渉色を呈します。これは化学物質(染料)の色ではなく、光の干渉によって人間の目が感じる色ですので、真珠層が破壊されない限り、歳月の経過によってピンク色が失われることは決してありません。

 しかるに染料によってピンク色を導入する場合もあります。染料で着色することを、真珠業界では調色と呼んでいます。調色(染色)によるピンク色は年月が経てば薄くなりますし、染料が変質すれば色が変わることもあり得ます。色目を揃えるための軽度の調色は女性の化粧のようなものであって、真珠をより美しくするために普通に行われています。しかるに過度の調色には、年月の経過による色褪せや変色の問題があります。何よりも大きな問題として、過度の調色は光の干渉によって生まれる真珠本来の美を損ないます。



【養殖アコヤガイの生存率、及び養殖真珠の歩留まりについて】

 あこや真珠の核入れは、アコヤガイの生殖巣に核と外套膜片を移植します。このとき生殖巣は卵も精子も無い状態でなければならないので、上で説明したように、核入れ前のアコヤガイは生理的活動水準を低く抑えられます。手際よく核入れ手術を施されたアコヤガイは籠に入れて海中に吊るされますが、半数の貝は養殖中に死亡します。生き残った半数の貝は浜揚げされ、真珠が取り出されますが、このうち良品は六割ほどであり、半数近くは廃棄されます(註3)。すなわち多くの貝に核入れしても、売り物として得られる真珠はその四分の一ほどであることがわかります。下の写真で良質真珠と表示されているのが、売り物となる真珠です。





 このことからわかるように、養殖真珠といえども、核さえ入れれば簡単に量産できるわけではありません。しかしながら極めて稀な天然真珠に比べれば、養殖真珠は格段に手に入りやすくなりました。王侯貴族でなくともある程度の対価さえ払えば、本物の真珠を連ねたネックレスが手に入るようになったのです。

 真円真珠の養殖技術を最初に開発したのは、見瀬辰平と西川藤吉の両氏と考えられています。また大規模な真珠養殖に成功したのが御木本幸吉氏であることは周知の事実です。これら日本人の活躍が無ければ、ほとんどの人は生涯に一度も真珠を見たことがないという時代が、その後も長く続いたであろうと思われます。



註1 西川藤吉博士は農商務省の技官で、1903年に御木本幸吉の次女と結婚し、真円真珠の養殖法に関する特許を 1907年に出願した。見瀬辰平氏は真円真珠の養殖法を独自に研究して 1904年に真円真珠採取に成功し、西川博士と同じ 1907年に特許を出願している。両者の養殖法はほぼ同じだったので特許争いとなり、翌1908年に調停が行われた結果、西川氏の名前で取得した特許を両者が共有することになった。先に真円真珠を完成した見瀬氏が、病気で余命の短い西川氏に、発明者の名声を譲ったのである。

註2 1920年の日本人の平均給与は 54円であった。これに対して直径三ミリメートルの一級品養殖真珠の価格は、一個 65円であった。

註3 不良品は概ね次の三種に分けられる。核が真珠層に被われず、挿核されたままの状態で取り出されるシラ。真珠層ではなく稜柱層に被われたブンド。貝の血液などの有機物を巻き込み、薄い真珠層が破れて悪臭を放つドクズ。ブンドという呼び名は文豆(ぶんどう 緑豆あるいは豌豆のこと)のような外見に由来する。これら三種に加え、広い範囲に亙って真珠層が薄い真珠も不良品である。



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