愛の象徴「薔薇」を差し出す手を模(かたど)ったブローチ。19世紀のヨーロッパでは、愛や絆をモティーフにした「センチメンタル・ジュエリー」が愛用されました。本品もそのような品物のひとつです。いまから百数十年前、アール・ヌーヴォー期以前のフランスで作られたアンティーク品ですが、たいへん珍しいことに未販売のまま台紙ごと残っています。
台紙にはフランス語で「ボワ・デュルシ ガランチ」(Bois Durci GARANTI 「保証付ボワ・デュルシ」の意)の文字があり、ブローチの素材が真正のボワ・デュルシであることがわかります。念のために検査しましたが、本品は実際にボワ・デュルシ製です。
「ボワ・デュルシ」(bois durci) とはフランス語で「硬化させた木」という意味で、フランソワ・ルパージュ (François Charles Lepage) という人が 1856年にパリで特許を取得しました。ヴィクトリア女王のモーニング・ジュエリーをきっかけにヨーロッパで流行した黒いジュエリー素材のひとつです。「ボワ・デュルシ」は卵白などの蛋白質と木の粉から作られるプラスティック素材です。ボワ・デュルシは主に19世紀の素材です。最後のボワ・デュルシ製品が作られたのは
1926年です。
ボワ・デュルシはジェットの模造石として発明されました。ジェット製ジュエリーが彫刻で造形されるのに対し、ボワ・デュルシ製ジュエリーは型を用いて製作されます。それゆえジェット製ジュエリーに比べると安価です。しかしながらジェット製ジュエリーは制作に手間がかかる一方で、大量の需要に応えるために極力効率的に生産されたため、複雑な意匠の作品は多くありません。本品の意匠は立体的で、きわめて複雑に入り組んでいますが、これは可塑性のある素材ならではの長所です。本品のようにジェットで作るのが困難な意匠の作例において、ボワ・デュルシは単なる模造石を超えて、優れた工芸材料としての価値を獲得しています。
本品は未販売の新品ですが、長い歳月のうちに金具に錆が出ています。針の表面が滑らかではなくなっているため、目が詰まった生地の洋服に着けると布が傷みます。目が粗いニットの洋服に付けたり、リボンに着けて帽子に巻いたりする使い方がお薦めです。酸化鉄(錆)の色移りが心配な場合は、透明マニキュアでカバーしてください。
上の写真は店主(男性)の手に載せて撮影しています。女性が本品の実物をご覧になると、もう一回り大きなサイズに感じられます。
本品は19世紀後半、アール・ヌーヴォー期より前のフランスで制作された真正のアンティーク品ですが、未販売・未使用のまま残っていた珍しい品物です。針が錆びているのでブラウスには着けられませんが、TPOを選ばない意匠ですので、工夫次第で日々ご愛用いただけます。