パート=シュル=パート
pâte-sur-pâte




(上) 「初聖体の少女」 35 x 45ミリメートル 1920 - 30年頃 フランス 当店の商品です。


 「パート=シュル=パート」(pâte-sur-pâte) とはフランス語で「生地重ね」という意味で、陶土の重ね塗りによって、浅浮き彫りのような三次元の像を制作する技法です。有色の下地(素地)の上に、水で溶いた陶土を筆で塗って乾かす作業を多数回に亙って繰り返し、最後に刃物で細部を仕上げます。これを焼成すると、上塗りした陶土層の薄い部分が透き通り、非常に美しい作品となります。

 パート=シュル=パートは一見したところジャスパーウェアに似ていますが、筆で塗った陶土の層が薄いために下地の色が透けて見え、仕上がりの透明感は格段に優れています。また型で作った部品を素地に貼り付けて量産されるジャスパーウェアと違い、パート=シュル=パートはすべて一点ものであり、その制作には非常な労力が費やされています。


 パート=シュル=パートはフランスのセーヴル国立磁器工場、及びイギリスのミントン社において、特に優れた作品が制作されています。以下の解説では、パート=シュル=パートの前史としてセーヴルの窯について概観したあと、パート=シュル=パートの歴史を簡略に述べます。


【セーヴル窯略史】

 大航海時代以来、ヨーロッパ人は日本や中国の硬質磁器(ポルスレーヌ・デュール porcelaine dure)に憧れましたが、ヨーロッパではカオリン鉱床がなかなか見つからず、硬質磁器を生産することができませんでした。しかるに 1709年、ドイツ東部のマイセン(Meißen ザクセン州マイセン郡)でカオリン鉱床が見つかり、翌1710年、ヨーロッパで初めて硬質磁器の生産に成功しました。

 フランスではこの時点でカオリン鉱床が見つかっていませんでしたが、マイセンの硬質磁器に対抗すべく、カオリンを含まない素地による軟質磁器(ポルスレーヌ・タンドル porcelaine tendre)の生産が、1730年からシャンティイで、1740年からヴァンセンヌで始まりました。ルイ15世の愛妾であったポンパドゥール夫人は、1756年、パリから10キロメートルあまり西方にあるセーヴル(Sèvres イール=ド=フランス地域圏オ=ド=セーヌ県)にヴァンセンヌの磁器工場を移し、1759年からは王立窯となりました。

 1768年、セーヴルの王立窯から派遣されたふたりの技師が、フランスで最初のカオリン鉱床をリモージュ近郊において遂に発見し、1770年からはセーヴルで硬質磁器の生産が始まりました。


【セーヴル窯とミントンにおけるパート=シュル=パート】

 1840年代末、セーヴルの国立磁器工場 (la manufacture nationale de Sèvres) では中国磁器の複製を作る試みが行われていました。この試みは成功しませんでしたが、その過程において偶然に「パート=シュル=パート」の技法が編み出されました。

 セーヴルにおいてパート=シュル=パートの発展に寄与した職人、作家としてよく知られているのは、レオポルド・ジュール・ジェリー (Léopold Jules Gely, fl. 1851 – 1888) と、マルク=ルイ=エマニュエル・ソロン (Marc-Louis-Emmanuel Solon, 1835 - 1913) です。特にソロンはパート=シュル=パートの技法を完成させた人物と見做されています。


 マルク=ルイ=エマニュエル・ソロンは 1835年、フランス南西部のモントーバン(Montauban ミディ=ピレネー地域圏タルヌ=エ=ガロンヌ県)に生まれ、パリの国立高等美術学校 (l'École nationale supérieure des beaux-arts, ENSBA) でオラス・ルコク・ド・ボワボドラン (Horace Lecoq de Boisbaudran, 1802 - 1897) に師事しました。オラス・ルコク・ド・ボワボドランは優れた美術教育家で、オーギュスト・ロダン (François-Auguste-René Rodin, 1840 - 1917) の師としても知られる人物です。

 オラス・ルコク・ド・ボワボドランのアトリエに在籍していた時代に制作した数点のエッチングが、セーヴル国立磁器工場の幹部の目に留まったことがきっかけで、ソロンは 1862年から1870年までセーヴル国立磁器工場でデザイナーとして働き、パート=シュル=パートの達人となりました。ソロンがセーヴルで制作したパート=シュル=パートの花瓶は、1867年のパリ万博に出品されています。

 1870年、普仏戦争が起こると、ソロンはパリがプロシアに包囲される直前にフランスを脱出し、イギリスへ渡ってミントン社に入ります。ソロンがミントンで制作するパート=シュル=パートは人気を呼び、やがて制作が注文に追い付かなくなったため、ソロンは弟子の育成にも力を入れました。ソロンを継いだパート=シュル=パート作家のなかでは、フレデリック・アルフレッド・リード (Frederick Alfred Rhead, 1856 – 1933) が特に有名です。


 パート=シュル=パートは20世紀初頭頃に黄金時代を迎え、その後は衰退してしまいます。その原因としては、ひとつひとつのパート=シュル=パート作品が一点ものであって、制作に要する手間とコストがあまりにも大きいことが挙げられます。

 セーヴル国立磁器工場におけるパート=シュル=パートの制作数は徐々に減り、1930年代には完全に終了します。イギリスのミントン社は第二次世界大戦前まで比較的多くのパート=シュル=パートを制作しましたが、それ以降の制作数は激減しています。


関連商品

 美麗・極稀少品 パート=シュル=パートによる「初聖体の少女」 最後期のセーヴル製 1910 - 20年代頃




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