オルフェウスとエウリュディケー ― オウィディウス 「メタモルフォーセース」(変身) 第十巻 1 - 85行
Orpheus et Eurydice (Ὀρφεύς καὶ Εὐρυδίκη) - Ovidius, "Metamorphoses" Liber X, 1 - 85





(上) Charles Jalabert, "Nymphes écoutant les chants d'Orphée", photogravure, 231 x 190 mm, George Barrie, 1883 当店の商品です。


 オウィディウス (Publius Ovidius Naso, 43 B.C. – c. 17 A.D.) は「メタモルフォーセース」(Metamorphoses 「変身」)第十巻において、オルフェウスとその妻エウリュディケーの物語を謳っています。

 オルフェウスの物語は紀元前八世紀末から七世紀初め頃に成立したホメーロス(Ὅμηρος)の詩や、紀元前八世紀後半から七世紀前半に生きたヘーシオドス(Ἡσίοδος)の著作には語られていませんが、イビュコス(Ἴβυκος 紀元前六世紀後半)やピンダロス(Πίνδαρος, c. 522 - c. 443 BC)には言及があります。オウィディウスとほぼ同時代の著作家では、偽アポロドーロスが「ビブリオテーケー」("Βιβλιοθήκη")においてオルフェウスに言及しています。オルフェウスの物語は、話者によって細部が異なります。

 オウィディウスによる「オルフェウスとエウリュディケー」(「メタモルフォーセース」第十巻、第 1行から 第85行)を全訳し、以下に示します。オウィディウスの作品は韻文ですが、筆者(広川)の和訳はラテン語の意味を正確に伝えることを主眼としたため、韻文になっていません。文意が伝わり易くするために補った語句は、ブラケット [ ] で示しました。


 1  Inde per inmensum croceo velatus amictu
aethera digreditur Ciconumque Hymenaeus ad oras
tendit et Orphea nequiquam voce vocatur.
Adfuit ille quidem, sed nec sollemnia verba
    そして黄色い衣で身を包んだヒュメナイオスは
限りなく広い測天空を飛び去り、キコネース人たちの地を
目指す。オルフェウスの声には全く耳を傾けない(註1)。
ヒュメナイオスは、結婚式には確かに出席したが、威厳のある言葉も、
 5  nec laetos vultus nec felix attulit omen.
Fax quoque, quam tenuit, lacrimoso stridula fumo
usque fuit nullosque invenit motibus ignes.
Exitus auspicio gravior: nam nupta per herbas
dum nova naiadum turba comitata vagatur,
  愛想の良い眼差しも、幸福な前兆も齎(もたら)さなかった(註2)。
彼が手に持っていた松明はぷすぷすと燻(くすぶ)り、目に沁みる煙を
絶えず出すだけで、揺さぶっても全く燃え上がらなかった(註3)。
[この結婚に]起こった事は、予兆よりも重大であった。というのも、新妻は草の間を
水の精たちとともに歩いているとき、
 10  occidit in talum serpentis dente recepto.   蛇の牙に踵を咬まれて死んだのだ(註4)。
       
   Quam satis ad superas postquam Rhodopeius auras
deflevit vates, ne non temptaret et umbras,
ad Styga Taenaria est ausus descendere porta;
perque leves populos simulacraque functa sepulcro
    ロドペーの詩人オルフェウスは天に向かってどれほどにか
思う存分に泣いた後 ― 黄泉をも惑わすほどに ―、
タエナルスの門からスティクスに向けて降りる決心を固めた(註5)。
そして消え去りそうな人々と、既に墓に入った[人々の]幽霊たちの間を通り、
 15  Persephonen adiit inamoenaque regna tenentem
umbrarum dominum. Pulsisque ad carmina nervis
sic ait: "O positi sub terra numina mundi,
in quem reccidimus, quidquid mortale creamur,
si licet et falsi positis ambagibus oris
  ペルセフォネーと、不快な王権を持つ
黄泉の支配者のところまで行った(註6)。そして[オルフェウスは]幾つかの歌に合わせてキタラ(琴)を弾き、
次のように言う(註7)。「おぉ、世の大地の下に置かれた神々よ。
大地は死すべき者として造られた我らの誰もが退く場所です。
もしも[そうして]構わなければ、また遠回しな偽りの言葉を抜きにして、
 20  vera loqui sinitis, non huc, ut opaca viderem
Tartara, descendi, nec uti villosa colubris
terna Medusaei vincirem guttura monstri:
causa viae est coniunx, in quam calcata venenum
vipera diffudit crescentesque abstulit annos.
  本当の事どもを語るのをお許しいただけるならば、私はここに、暗いタルタラを見ようと
降りてきたのではありません。ふさふさした毛のような、
[あの]怪物の、[つまり]メドゥーサの小蛇の、三つ一組になっている咽喉を絞めに来たのでもありません(註8)。
[私は]妻のために来たのです。蛇が踏みつけられて、妻[の体]に毒を
注ぎ込み、将来を奪ったのです(註9)。
 25  Posse pati volui nec me temptasse negabo:
vicit Amor. Supera deus hic bene notus in ora est,
an sit et hic, dubito. Sed et hic tamen auguror esse;
famaque si veteris non est mentita rapinae,
vos quoque iunxit Amor. Per ego haec loca plena timoris,
  耐え得るのなら、私は耐えたいと思いました。しかし[実際に耐えられるかどうか]自分を試したとは言いません。
アモル様が勝ち給うた ― 私は妻への愛に負けた ― のです(註10)。私が住む地上界では、アモル様はよく知られた神様で、人々の口にもよく上ります。
この黄泉でも同じでしょうか(註11)。しかしながらアモル様は黄泉でもよく知られておいででしょう。
古い言い伝えに聞く略奪の噂が嘘でないならば、
お二人を結び付けたのもまたアモル様ですから(註12)。私が[ここに居りますのも]、恐れに満ちたこの地を通り、
 30  per chaos hoc ingens vastique silentia regni,
Eurydices, oro, properata retexite fata.
Omnia debemur vobis, paulumque morati
serius aut citius sedem properamus ad unam.
Tendimus huc omnes, haec est domus ultima, vosque
  途轍もなく大きなこのカオスと、広大な王国の静寂を通って[来たからです]。
お願いです。若くして死んだエウリュディケーの運命を、どうか織り直してください(註13)。
我々はお二人の支配を逃れられません。しばらくのあいだ地上に留められ、
遅かれ早かれ、或るひとつの住居へと ― 黄泉へと ― 急ぐことになります(註14)。
我々は皆、ここへ急ぎます。この[家]が最後の家です。そしてあなたがたは
 35  humani generis longissima regna tenetis.
Haec quoque, cum iustos matura peregerit annos,
iuris erit vestri: pro munere poscimus usum.
Quod si fata negant veniam pro coniuge, certum est
nolle redire mihi: leto gaudete duorum."
  最も長い間、人類を支配しておられます(註15)。
この女も大人になって、本来割り当てられていた年月を、最後まで生きたことでしょう。
あながたがたのお許しを得られるならば、こうして捧げる歌と引き換えに、妻を貸していただきたいのです(註16)。
運命がこれを拒むなら、私は妻の許(もと)に参ります。
戻りたくない気持ちは揺るぎませんから。その場合は妻と私、ふたつの死ゆえに、喜んでください(註17)。」
       
 40  Talia dicentem nervosque ad verba moventem
exsangues flebant animae: nec Tantalus undam
captavit refugam, stupuitque Ixionis orbis,
nec carpsere iecur volucres, urnisque vacarunt
Belides, inque tuo sedisti, Sisyphe, saxo.
   オルフェウスがこのように語りつつ、言葉に合わせてキタラを弾くのを聞いて、
蒼白な魂たちも泣いていた(註18)。タンタルスの水は
逃げることを忘れ(註19)、イクシーオーンの輪は止まった(註20)。
鳥どもは[プロメーテウスの]肝臓をつつかず(註21)、ベールスの孫娘たちは甕を運ぶのを
止め(註22)、シーシュフォスよ、汝までが岩に座ったではないか(註23)。
 45  Tunc primum lacrimis victarum carmine fama est
Eumenidum maduisse genas. Nec regia coniunx
sustinet oranti nec qui regit ima negare,
Eurydicenque vocant. Umbras erat illa recentes
inter et incessit passu de vulnere tardo.
  歌に打ち負かされたエウメニデス(復讐の女神たち)の頬が、
そのとき初めて涙で濡れたと言われている(註24)。王の妻も、
黄泉を治める王も、祈るオルフェウスに対し頑なに拒むことはせず、
エウリュディケーを呼ぶ(註25)。彼女は新しい影たちの
間にいた。そして[踵の]傷のせいでゆっくりと歩いて来た(註26)。
 50  Hanc simul et legem Rhodopeius accipit Orpheus,
ne flectat retro sua lumina, donec Avernas
exierit valles: aut inrita dona futura.
  ロドペーの人オルフェウスは、この女とともに掟を受け取る。
アウェルヌスの谷から出るまで、後を見てはならない。
さもなくば、エウリュディケーは黄泉に戻らねばならなくなるというのだ(註27)。
       
   Carpitur acclivis per muta silentia trames,
arduus, obscurus, caligine densus opaca.
    口を開かず押し黙り、オルフェウスとエウリュディケーは上り坂の小道をゆっくりと進む。
険しく、暗く、濃い闇に包まれた道である(註28)。
 55  Nec procul afuerunt telluris margine summae:
hic, ne deficeret, metuens avidusque videndi
flexit amans oculos; et protinus illa relapsa est,
bracchiaque intendens prendique et prendere certans
nil nisi cedentes infelix arripit auras.
   そして地表は彼らの目前であった(註29)。
ここで、オルフェウスは[掟に]背くべきではなかったのだが、[エウリュディケーが付いてきていないのではないかと]恐れ、また[エウリュディケーの姿を]どうしても見たくなって、
オルフェウスは背後を見た。その途端、彼女は黄泉に落ちてしまった(註30)。
両腕を伸ばし、エウリュディケーがその腕を掴んでも、自分がその腕でエウリュディケーを掴んでもよかったのだが、
不幸な[オルフェウス]が捕らえるのは、消え去りゆく風のみである(註31)。
 60  Iamque iterum moriens non est de coniuge quicquam
questa suo: quid enim nisi se quereretur amatam?
Supremumque "vale," quod iam vix auribus ille
acciperet, dixit revolutaque rursus eodem est.
   そして今、再び死ぬことになったエウリュディケーは、夫[のしくじり]について
一切不平を言わなかった(註32)。なぜなら、[夫に]愛されて不平を言うことがあり得ない以上、[エウリュディケーは]何を嘆くだろうか(註33)。
それで[エウリュディケーは]最後に「元気でね」と ― いま辛うじてオルフェウスに
聞こえただろうか ― 言い、まさに元の場所に向けて落ちて行った(註34)。
       
   Non aliter stupuit gemina nece coniugis Orpheus,    オルフェウスは妻の二重の死によって呆然としていた。その様子は、
 65  quam tria qui timidus, medio portante catenas,
colla canis vidit, quem non pavor ante reliquit,
quam natura prior, saxo per corpus oborto;
quique in se crimen traxit voluitque videri
Olenos esse nocens, tuque, o confisa figurae,
   ケルベロスの三つの頸に鎖が掛けられているのを
見た臆病な人と、違いが無かった(註35)。何時まで経っても恐怖が去らず、
オルフェウスの体は本来の在り方を忘れて、岩のように動かなくなった(註36)。
[その様子は、]自分へと罪を引きつけて、妻と同罪と
見做されることを望んだオーレノスにも[似ている](註37)。そして、おお、汝、自身の容姿に自信を持っていた
 70  infelix Lethaea, tuae, iunctissima quondam
pectora, nunc lapides, quos umida sustinet Ide.
   不幸なるレータイアよ。かつては最も親しかった
ふたりは、いまや石になった。水の豊富なイーデーの山が、二人を支えている(註38)。
       
   Orantem frustraque iterum transire volentem
portitor arcuerat. Septem tamen ille diebus
squalidus in ripa Cereris sine munere sedit:
   オルフェウスはカローンに願って、再び黄泉に渡ろうと望んだが、
カローンは許さなかった(註39)。しかし七日のあいだ、オルフェウスは
[黄泉の対岸の]岸辺で悲しみに身をこわばらせ、食事もせずに座っていた。
 75  cura dolorque animi lacrimaeque alimenta fuere.
Esse deos Erebi crudeles questus, in altam
se recipit Rhodopen pulsumque aquilonibus Haemum.
   心配と心の苦しみと涙が食物であった(註40)。
オルフェウスは闇(黄泉)の神々が無情であると嘆き、高き
ロドペーと、北風が吹きすさぶハイモス山に退く(註41)。
       
   Tertius aequoreis inclusum piscibus annum
finierat Titan, omnemque refugerat Orpheus
    太陽神が巡って、すでに三年が経過し、うお座の季節に
なっていた(註42)。オルフェウスは自ら女を愛することも、
 80  femineam venerem, seu quod male cesserat illi,
sive fidem dederat. Multas tamen ardor habebat
iungere se vati, multae doluere repulsae.
Ille etiam Thracum populis fuit auctor amorem
in teneros transferre mares citraque iuventam
   好意を示す女に愛を返すことも、全く避け続けていた。女との愛には心を開かず、
独身の誓いを[既に]立てていた(註43)。それでも多く大勢の女たちが詩人を愛し、
詩人に近付こうとした。そしてこれまでに大勢の女たちが拒まれ、悲しんだ(註44)。
さらに彼がトラーキアの人々の範となったのは、若い男性を
愛することにおいて、また青年期のうちに
 85  aetatis breve ver et primos carpere flores.    人生の短い春と最初の花々を刈り取ることにおいてであった(註45)。



【オルフェウスはなぜエウリュディケーを連れ戻せなかったか ― コスモスとカオスの対立に基づく解釈】



(上) Jean-François Legendre-Héral, "Eurydice", marbre, hauteur 105 cm, largeur 55 cm, profondeur 50 cm, le musée des Beaux-Arts de Lyon


 オルフェウスの物語では、詩人は妻を地上に連れ戻す許可をハーデースから得たにもかかわらず、結局エウリュディケーを生き返らせることはできませんでした。これはなぜでしょうか。地表近くまで戻ったエウリュディケーが再び黄泉に落ちたのは、夫がたまたま些細な失敗をしたことによる偶発的な結果なのでしょうか。それとも起こるべくして起こった必然なのでしょうか。筆者(広川)の見解によると、エウリュディケーが再び黄泉に落ちたのは必然の成り行きでした。その理由を理解する鍵は、カオスとコスモスの対立にあります。


 ハーデース(ᾍδης 黄泉の王)とペルセフォネー(Περσεφόνη)の前で吟唱した詩の中で、オルフェウスは黄泉を「カオス」(chaos, χάος)と呼んでいます(第三十行 註13)。「カオス」は「コスモス」(κόσμος)の対立概念です。「コスモス」の原意は「秩序」ですが、筆者がここで言うコスモスは「秩序が支配する宇宙」のことであって、完全な数理的秩序が支配する天上界、及びその強い影響下にある月下界を意味します。黄泉は天上界及び月下界に匹敵するひとつの大きな世界ですが、数理的秩序が及びません。それゆえオルフェウスは黄泉を指して、「この途轍もなく大きなカオス」(chaos hoc ingens)と言っています。

 数理的秩序が及ばない黄泉(カオス界)は、夢に似ています。夢には時間の秩序が存在せず、死んだはずの人間がまったく違和感無く登場するのは、我々が経験上よく知る通りです。コスモス界に生きる人間にとって、夢はカオス界との接点に他なりません。

 コスモス界では時間が不可逆的に流れているので、コスモス界の人間から見れば、死もまた不可逆的です。しかるにカオス界には不可逆的な時間の流れは存在しません。それゆえ夢の世界と同様に、一度死んだエウリュディケーが復活を許されることも、黄泉においては十分に起こり得ます。ハーデース(ᾍδης 黄泉の王)がオルフェウスに対して、エウリュディケーを連れ帰ることを許したのも、カオス界でこそ起こり得たことです。


 第三十一行では、 「急き立てられた運命・天寿を解(ほど)いて織り直す」(retexo properata fata)という表現で、早世した人間の寿命・運命が、短く織られた布、あるいは短く断たれた布に喩えられています。この表現から思い起こされるのは、古代ギリシア人が人間の寿命を、モイライ(Μοῖραι)が紡ぎ、割り当て、切断する糸として表象したことです。

 布は糸の秩序立った組み合わせによって織りなされます。したがって布は、それ自体の本性に内在するコスモス性ゆえに、カオスが支配する黄泉ではなく、コスモスが支配する地上の生命を端的に象徴します。「急き立てられた運命・天寿を解(ほど)いて織り直す」というオルフェウスの言葉は、肉体の寿命を布に譬えることにより、地上の生命の復活がコスモス界への復帰に他ならないことを示しています。


 第五十五行において、オルフェウスとエウリュディケーは地表近くに到達します。地表はカオス界とコスモス界の境界面ですから、黄泉を出て地表に近づくとは、カオス界の終端に近づくことに他なりません。黄泉の王ハーデースはオルフェウスがエウリュディケーを連れ帰ることを許しましたが、オルフェウスがこれに失敗するのは蓋(けだ)し当然でした。なぜならば黄泉の王の威令はカオス界に留まるからです。地表を超えたところにある地上界は、時間が不可逆的に流れるコスモス界に他なりません。そしてコスモス界における死者の復活は、コスモス界を支配する法則の一つである「時間の不可逆性」に抵触するゆえに、生起することが許されない出来事なのです。

 オルフェウスはハーデースとペルセフォネーに対して「お願いです。エウリュディケーの急き立てられた運命・天寿を解(ほど)いて、織り直してください」(Eurydices, oro, properata retexite fata. 第三十一行)と願っています。しかるに秩序に従って織られる布にコスモス性が内在するのとちょうど同じように、人間の寿命・運命は、そのナートゥーラ(ピュシス、自然本性)において、宇宙の秩序(コスモス)と分かちがたく結びついています。それゆえ黄泉の王が地上の命を織り直すことはできません。なぜならば黄泉の王ハーデースはカオス界の全権を握っていますが、コスモス界に力を及ぼすことはできません。これに対して地上における生命の秩序はコスモスの支配に服しており、ハーデースの権能が届かないところにあるのです。


 コスモス、カオスは古代ギリシアの観念ですが、オルフェウスとエウリュディケーに類似した黄泉降りの物語は他の文化圏にも存在します。「古事記」には伊邪那岐(いざなぎ)が伊邪那美(いざなみ)を連れ戻そうと黄泉国に降り、しかるに腐爛した妻の醜怪な姿を見て地上に逃れ出る話があります。死者を冥界から連れ戻せないことが古代人にとって全くの自明事であったならば、このような物語は生まれなかったでしょう。死者の復活が起こりうると感じられたからこそ、伊邪那岐が伊邪那美を連れ戻そうと試みる物語が生まれる余地もあったのだと筆者(広川)は考えます(註46)。

 古代のわが国において、死は瞬間的に成し遂げられるものではありませんでした。生から不可逆的な死へと至るのは緩やかなプロセスであり、その間に死者が復活することを期待して殯(ヒン、もがり)の期間が設けられていました。「古事記」によると伊邪那岐は伊邪那美を「出雲國と伯伎國との堺の比婆の山に葬(はふ)りき」とあります。また伊邪那岐は黄泉比良坂(よもつひらさか 黄泉の切り立った崖)という場所から地上に戻りましたが、黄泉比良坂の所在地については「故、その謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲國の伊賦夜坂(いふやさか)と謂ふ」と書かれています。しかしながら比婆の山も黄泉国も黄泉比良坂も、更には出雲國も、この文脈においては地図で示せる場所ではなくて、殯の期間に進行する決定的死への移行を、神話的空間として表現したものに他ならないと考えられます(註47)。すなわち日本神話における黄泉国は、時間が可逆的でありうる殯の期間を空間として表象したものであり、ギリシア思想の用語で言えばまさにカオスに他ならないといえます。


【古代ギリシアにおける記憶と永生 ― オルフェウスの物語とオーレノスの物語の対比】

 「メタモルフォーセース」第十巻第六十八行から第七十一行において、オウィディウスはオーレノス(Olenos, Olenus, Ὤλενος)とレータイア(Lethaea, Ληθαία)に言及しています。筆者(広川)が知る限り、オーレノスとレータイアに関して直接的に言及した古典の文献は、「メタモルフォーセース」のこの箇所のみです。ローマの詩人ヴァレリウス・フラックス(Gaius Valerius Flaccus, fl. A.D. 70)は、アルゴナウタイの事績を謳った「アルゴナウティカ」で、オーレニデース(Olenides, ae, m. Ὠλενίδης オーレノスの息子)に言及しています("Argonautica" 3, 204)。

 オーレノスは美女レータイアの夫です。レータイアは自らの美しさを誇ったために神罰を受け、石と化しました。夫オーレノスは愛する妻と同じ運命を分かち合うことを自ら望み、妻とともに石になりました。

 レータイアは形容詞レータイウス(Lethaeus, a, um)の女性形であり、「レーテーの」という意味です。レーテー(Λήθη 忘却)は黄泉を流れる五つの川のひとつで、その水を飲んだ死者は生前の記憶を完全に失います。

 古代ギリシア人の考えによると、死者は生者に忘れ去られたときに完全な死を迎えます。死者自身が記憶を失うことも、これと同様です。ペテリアで発見されたオルフェウス教の黄金タブレットには、オルフェウス教の信徒が生前に受けた秘儀や知識の記憶を喪わないように、レーテー(忘却)の水ではなく、ムネーモシュネー(記憶)の泉の水を飲むべきことが書かれています。幸福な来世に至るためには、ムネーモシュネー(記憶)の水を飲み、生前に受けた秘儀や知識の記憶を保持することが必要でした。

 それゆえ石と化した女の名がレータイア(Ληθαία レーテーの女、忘却の女)であることは、女が来世の幸福を得られず、その存在が永遠に消滅したことを示唆します。妻と同様の運命を意志的に選び取ったオーレノスは、永遠の死である消滅を、自らの意志で選び取ったことになります。この上なく強い愛ゆえに、オーレノスは妻に寄り添ったのです。


 「メタモルフォーセース」に謳われるオルフェウスは、妻に対する愛の強さに関しても、体が石のように動かなくなった点に関しても、オーレノスに似ています。しかしながらエウリュディケーは地上に戻ることはできなかったものの、その霊は消滅したわけではなく、自分自身と夫の記憶を保持しています。オルフェウスも実際に石になったわけではなく、エウリュディケーへの愛と記憶を保持しています(第六十行から第六十四行)。

 これはオルフェウスとエウリュディケーの物語とオーレノスの物語の決定的な違いであり、二組の夫婦が辿る運命を大きく分かちます。すなわちオーレノスとレータイアはそれぞれが心身とも消滅します。肉体のみならず霊も消滅した以上、二人の間の愛も消滅せざるを得ません。しかるにオルフェウスとエウリュディケーの場合は、エウリュディケーは死後も人格と愛を保持していますし、妻の死後、他の女に決して触れなかったオルフェウスに関しても、同じことが言えるでしょう。したがってオルフェウスとエウリュディケーは、後にオルフェウスが死んで黄泉に降った後、再び固く結ばれることが容易に予想できます。


【消滅と対比される「無からの創造」 ― 「ピグマリオーン」が予告する生と愛の永続】

 オウィディウスは、オルフェウスとエウリュディケーについて語った後、オルフェウスの死に至るまでの間に、詩人にいくつかの物語を歌わせています。そのなかのひとつがピグマリオーンの物語で、ここでは象牙の小像が生身の女になりました。

 オウィディウスはオルフェウスの愛と悲しみが、霊を消滅させたオーレノスを思い起こさせると書き、そのしばらく後でピグマリオーンの物語、すなわち霊が生じた物語を語っています。しかるに意識を持たない象牙片から生きた女が生じるのは、霊に関して言えば「無からの創造」であって、オーレノスとレータイアの霊に起こった「無への消滅」とはちょうど正反対の出来事です。

 この点に注目すると、ピグマリオーンの物語はオーレノスの物語の反定立であり、更に敷衍すればオルフェウスの悲しみの反定立であるといえます。しかしながらオルフェウスの体が悲しみのあまり「石になった」のは比喩的表現であり、肉体が実際に石に化したわけではありません。それゆえピグマリオーンと象牙の小像の女が結ばれて幸せを得る物語は、オルフェウスとエウリュディケーがそれぞれの死後にも愛と記憶を保持し続けて、黄泉で再び結ばれることを、間接的な形ながらも予告していると解釈できます。



 註1   Inde per inmensum croceo velatus amictu aethera digreditur Ciconumque Hymenaeus ad oras tendit et Orphea nequiquam voce vocatur. 
       直訳 そこから、ヒュメナイオスは黄色い衣で身を包まれ、測ることのできない[大きさの]天空を通して離れてゆく。そしてキコネース人たちの地を目指して急ぐ。オルフェウスの声によって、効果なく呼ばれる。
       
       ※ ヒュメーン(Ὑμήν)またはヒュメナイオス(Ὑμέναιος)はバッコス(ディオニューソス)とウェヌス(アフロディーテー)の間に生まれた息子で、結婚をつかさどる神。「ヒュメナイオス」はヒュメーンの形容詞形であるが、ここでは韻律の関係上、本来の神名の代わりに、形容詞を名詞化した神名(ヒュメナイオス)が用いられている。

 第十巻第一行から第十行に描写されているのは、オルフェウスとエウリュディケーの結婚式におけるヒュメナイオスの様子、及び新妻の死である。ヒュメナイオスは結婚式に姿を見せはしたが、オルフェウスとエウリュディケーの結婚を祝福していない(第四行から第七行)。ヒュメナイオスが結婚式で見せた冷淡な態度は、新婚夫婦の不幸を予告する前兆であった。
       
       amicio, ire, icui, ictum, v. a. [jacio] 包む、くるむ、着せる
       amictus, us, m. 包被;衣文;外衣;ヴェール
       ora, ae, f. [os] 縁、へり;海岸、沿岸の住人;遠国、地方
       Cicones, um, m. pl. キコネース人 ※ トラーキア(Θρᾴκη バルカン半島南東部)を流れるヘブロス川(Ἕβρος)流域の住民。
       tendo, ere, tetendi, tentum/tensum, v. a. 向ける、発射する; v. n. ある場所へと急ぐ、達しようと努める、目指す
       nequiquam, adv. 無駄に、効果無く;理由無く、目的無く;罰せられずに
       
 註2   Adfuit ille quidem, sed nec sollemnia verba nec laetos vultus nec felix attulit omen.
       直訳 彼は確かに[その場に]いたが、威厳のある言葉も、愛想の良い眼差しも、幸福な前兆も齎(もたら)さなかった。
       
 註3   Fax quoque, quam tenuit, lacrimoso stridula fumo usque fuit nullosque invenit motibus ignes.
       直訳 彼が手に持っていた松明は、涙を流させる煙を以て絶えずしゅっしゅっと音を立てていたが、動きにおいて何らの火も見出さなかった。
       
       fax facis, f. 松明;婚礼の松明;葬式の松明;流星;光
       quoque, adv. …もまた
       strideo, ere, di, v. n. しゅっしゅっと音を立てる、唸る、ひゅうひゅう鳴る
       stridulus, a, um, adj. strideo の形容詞
       usque, adv. 続けさまに、絶えず
       
 註4   Exitus auspicio gravior: nam nupta per herbas dum nova naiadum turba comitata vagatur, occidit in talum serpentis dente recepto.
       直訳 [結婚の]帰結は兆しよりも重大で[あった。]なぜなら新しい妻はナーイアスたちの群れに同伴されて草の間を行く間に、蛇の牙が踵へと受け止められて、死んだからである。
       
       ※ ナーイアス(Ναιάς, Ναιάδες)は、川や泉のニンフ。「蛇の牙が踵へと受け止められて」(in talum serpentis dente recepto)は、絶対的奪格。
       
       turba, ae, f. 騒動、混乱、雑踏;群衆、集団
       comes, mitis, comm. [con + eo] 仲間、連れ、随行員
       comitium, i, n. 会合地、集会所;(pl.)国民議会
       comito, are, v. a. …に伴う、侍る、同伴する
       comitor, ari, atus sum v. dep. …に伴う、侍る、同伴する
       
 註5   Quam satis ad superas postquam Rhodopeius auras deflevit vates, ne non temptaret et umbras, ad Styga Taenaria est ausus descendere porta;
       直訳 ロドペーの詩人(註 オルフェウスのこと)は、上方の空に向かってどれほどにか思う存分に泣いた後、― [その嘆きようは]黄泉をも惑わさなくないであろう ― タエナルスの門からスティクスに向けて降りる決心を固めた。
       
       superus, a, um, adj. 上の、天の  supera, orum, n.pl. [superus] 天体;天、天上界
       aura, ae, f.  微風;空気;(pl.) 空、天
       Rhodope, es, f. (希 Ροδόπη) 現在のブルガリア共和国南西部にある山地。
       Rhodopeius, a, um, adj. ロドペー山地の
       defleo, ere, flevi, fletum, v.a., v.n. 或る物のために泣く;泣きながら語る;思う存分に泣く
       vates, is, comm. 預言者;詩人
       umbra, ae, f. (pl.) 下界、黄泉
       Styx, ygis [ygos] アルカディアの川;黄泉の川;黄泉
       Taenarus, i, m. ペロポンネソス半島南端の岬。下界への入り口があった。;黄泉
       Taenarius, a, um, adj.
       
 註6   perque leves populos simulacraque functa sepulcro Persephonen adiit inamoenaque regna tenentem umbrarum dominum.
       直訳 そして儚い人々や、墓に到達した]幽霊たちの間を通り、ペルセフォネーと、不快な王権を持つ黄泉の支配者のところまで行った。
       
       perque leves populos = et per leves populos
       levis, e, adj. [leg + vis] 軽い;儚い
       simulacrum, i, n. 像;幻影、幽霊;描写
       fungor, gi, functus sum, v. dep. 実行する、成就する(abl. と);達する、届く、手に入れる;被る、耐え忍ぶ
       amoenus, a, um, adj. 魅惑的な;優美な、愛すべき
       inamoenus, a, um, adj. 喜ばしくない、不快な
       regnum, a, n. 王国、王権;支配、統治;財産、地所
       
 註7   Pulsisque ad carmina nervis sic ait:
       直訳 そして幾つかの歌に合わせてキタラ(琴)が弾かれ、[オルフェウスは]次のように言う。
       
       ※ 「幾つかの歌に合わせてキタラが弾かれ」(pulsis ad carmina nervis)は、絶対的奪格。
       
       pello, ere, pepuli, pulsum, v.a. 押し動かす、動揺させる;弦楽器を弾く
       
 註8   O positi sub terra numina mundi, in quem reccidimus, quidquid mortale creamur, si licet et falsi positis ambagibus oris vera loqui sinitis, non huc, ut opaca viderem Tartara, descendi, nec uti villosa colubris terna Medusaei vincirem guttura monstri:
       直訳 おぉ、世の大地の下に置かれた神々よ。大地は死すべき者として造られた我らの誰もが退く場所です。もしも[そうして]構わなければ、また偽りの口の遠回りが排除され、本当の事どもを語るのをあなたがたが許すならば、私はここに、暗いタルタラを見るために、降りてきたのではない。怪物のものである、メドゥーサの小蛇の、ふさふさした毛のような三つ一組の咽喉を縛るためでもない。
       
       ※ 「偽りの口の遠回りが排除され」(falsi oris ambiagibus positis)は、絶対的奪格。「偽りの」(falsi)は、名詞(falsum n. 偽り)の属格と考えても良いし、「口」(os oris, n.)を限定して同格に置かれた形容詞(falsus, a, um, adj.)と考えても良い。「口の遠回り」とは、遠回しな言葉のこと。
       
       ambages, um, f. pl. 回り道;冗長さ;言い逃れ、策略;曖昧さ
       sino, ere, sivi, situm, v.a. 置く;許可する、妨げない(inf., acc. c. inf., ut とともに)
       fallo, ere, fefelli, falsum, v.a. 無駄にする、無効にする;気付かれないようにする、感じられないようにする;隠す、忘れさせる、省略する
       pono, ere, posui, positum, v.a. 看做す;排除する、棄てる
       opacus, a, um, adj. 陰の、覆われた;暗い、不分明な
       Tartara, orum, n. pl. = Tartarus, i, m. (Tartara, orum, n. pl.) 黄泉;黄泉における懲罰所 ※ 註19参照。
       villus, i, m. 毛むくじゃらの髪、ふさふさした髪
       villosus, a, um, adj.
       coluber, bri, m. 小蛇
       terni ae, a, adj. num. distr. [ter] 三つずつの、三つ一組の、三重の
       Medusaeus, a, um, adj.
       guttur, uris, n. 咽頭
       
 註9   causa viae est coniunx, in quam calcata venenum vipera diffudit crescentesque abstulit annos.
       直訳 旅の理由は、妻だ。踏みつけられた毒蛇が、妻へと毒を注ぎ出し、増し加わりつつある年月を取り除いた。
       
       calco, are avi, atm, v.a. [calx] 踏みつける
       
 註10   Posse pati volui nec me temptasse negabo: vicit Amor.
       直訳 耐え得ることを、私は欲した。しかし自分を試したことを、私は否定しよう。アモル(愛神、愛)が勝ったのだ。
       
       tempto, are avi, atum, v.a. [tendo] 試験する、試そうと欲する;誘惑する
       temptasse = temptavisse
       
 註11   Supera deus hic bene notus in ora est, an sit et hic, dubito.
       直訳 [アモルは]上では、ここでは、[人々の]口へと良く覚えられている神だ。ここ(黄泉)でもそうなのだろうか。
       
 註12   Sed et hic tamen auguror esse; famaque si veteris non est mentita rapinae, vos quoque iunxit Amor.
       直訳 しかしながらここでもそうであると私は推測する。そして古い言い伝えに聞く略奪の噂が嘘でないならば、あなたがたもアモル様が結びつけたのだ。
       
       auguror, ari, atus sum, v. dep. = auguro, are, avi, v.a. 鳥占いをする;予感する、推測する
       fama, ae, f. [fari] 噂
       vetus, teris, n. [vetus adj.] 古い物事;古い伝統・歴史・伝説
       rapina, ae, f. 略奪;奪ったもの
       mentior, iri, itus sum, v. dep. [mens] 嘘を吐く;騙す、裏切る
       mentitus, a, um, adj. [mentior] 偽りの
       quoque, adv. …もまた
       
 註13   Per ego haec loca plena timoris, per chaos hoc ingens vastique silentia regni, Eurydices, oro, properata retexite fata.
       直訳 恐れに満ちたこの地を通り、途轍もなく大きなこのカオスと、広大な王国の静寂を通って、私は[あなたがたの前に居る]。お願いです。エウリュディケーの急き立てられた運命・天寿を解(ほど)いて、織り直してください。
       
       loca, n. pl. = loci, m.pl.
       ingens, gentis, adj. 異常な、巨大な、並外れて大きい
       properatus, a um p.p., p.a. 速い
       propero, are, avi, atum, v.a., v.n. [properus] 急がせる;急ぐ
       retexo, ere, xui, xtum, v.a. 解く;無効にする、取り消す;新たに織る、更新する
       
 註14   Omnia debemur vobis, paulumque morati serius aut citius sedem properamus ad unam.
       直訳 我々はあなたがたに支配されている。そしてしばらくの間[地上で]躊躇させられた我々は、遅かれ早かれ、ひとつの住居へと急ぐ。
       
       debeo, ere, bui, debitum v.a. (pass. cum dat.) 定められる、帰される、支配される
       paulum, i, n. しばらくの間  ※ ここでは副詞的用法(広がりの対格 accusative of time)
       moror, ari, atus sum, v. dep. [mora] 止まる、ためらう;躊躇させる、妨げる、制止する
       sedes is, f. 居場所、家
       
 註15   Tendimus huc omnes, haec est domus ultima, vosque humani generis longissima regna tenetis.
       直訳 我々は皆、ここへ急ぐ。この[家]は最後の家だ。そしてあなたがたは人類に対する最も長い支配を持っている。
       
       tendo, ere, tetendi, tentum/tensum, v. a. 向ける、発射する; v. n. ある場所へと急ぐ、達しようと努める、目指す
       huc, adv. ここへ;この点までは、この限りでは
       
 註16   Haec quoque, cum iustos matura peregerit annos, iuris erit vestri: pro munere poscimus usum.
       直訳 この女もまた、大人として、正当な年月を最後まで成就したことであろう。あながたがたの判断に属することではあるが、捧げ物と引き換えに、[妻の]用益権を我々は嘆願する。
       
       perago,ere, egi, actum, v.a. 穴をあける;通過する、横切る;完成する、成就する;最後まで果たす
       munus, eris, n. 義務、責任;任務、職;負担、賦課;業績、聖か;好意、親切;贈り物、捧げ物
       posco, ere, poposci, v. inch. a. 要求する、必要とする;嘆願する
       
 註17   Quod si fata negant veniam pro coniuge, certum est nolle redire mihi: leto gaudete duorum.
       直訳 このことをもしも運命が拒むなら、私は妻の許(もと)に行こう。戻ることを望まないのは、私にとって確かだ。二人の死ゆえに、あなたがたは喜べ。
       
       letum, i, n. 死
       
 註18   Talia dicentem nervosque ad verba moventem exsangues flebant animae:
       直訳 これらを語るとともに、言葉に合わせて弦を動かす人(オルフェウス)を、血の無い魂たちは泣いていた。
       
       exsanguis, e, adj. 血の気の無い、蒼白な、生命の無い
       
 註19   nec Tantalus undam captavit refugam,
       直訳 タンタルスは引く水を捕まえた。
       
       ※ フリギアの王タンタルス(Tantalus, Τάνταλος)はユピテル(ゼウス)の息子で、ニオベー(Niobe Νιόβη)と英雄ペロプス(Pelops, Πέλοψ)の父である。神々に供する料理に息子ペロプスの肉を入れたせいで、タンタルスは神々の怒りを買い、黄泉における責め苦の場所タルタロス(Tartarus, Τάρταρος)で果樹の下にある池に立ち、永遠の責め苦を受けている。タンタルスが渇きを覚えて池の水を飲もうとすると、水は口が届かないところにさっと引いてしまう。空腹になって果実を取ろうとすると、果実は手が届かないところにさっと引いてしまう。
       
       refugus, a, um, adj. 逃避の、退却の
       
 註20   stupuitque Ixionis orbis,
       直訳 また、イクシーオーンの輪が止まった。
       
       ※ イクシーオーン(Ixion, Ἰξίων)はテッサリア(アイオリア)のラピテース族(Lapithae, Λαπίθης)の王。アルゴナウタイの一人であるペイリトゥース(Pirithous, Πειρίθους)の父。イクシーオーンはヘーラー(Ἥρᾱ)を誘惑しようと試みてゼウスの怒りを買い、タルタロスで火を噴きながら回転する車輪に縛り付けられ、永遠の責め苦に遭っている。
       
       stupeo, ere, pui, v.n., v.a. 硬直している、無感覚である;動かない、滞る
       
 註21   nec carpsere iecur volucres,
       直訳 鳥どもは肝臓をつつかない。
       
       carpo, ere, psi, ptum, v.a. 刈る、抜く、摘み取る;むしり取る;食い尽くす
       jecur, jecoris, n. 肝臓
       voucer, cris cre, adj. 飛ぶ、翼のある;急ぎの、速やかな;逃げ去る、儚い、不安定な
       volucris, is, f. [m.] [volucer] 鳥  parvula volucris 蚊
       
 註22   urnisque vacarunt Belides,
       直訳 ベーリーデース(ベールスの孫娘たち)は甕から自由になった。
       
       ※ ベーリーデース(Belides 「ベールスの子孫たち」の意)はダナイデース(Danaïdes, Δαναΐδες)、すなわちダナウス(Danaus, Δαναός)の五十人の娘たちのこと。ダナウスはペロポンネソス半島東部の都市アルゴス(Ἄργος)の建設者である。ダナウスの父は、ティルス王ベールス(Belus)である。

 ダナウスとアエギュプトゥス(Aegyptus, Αἴγυπτος)は双子の兄弟であった。ダナウスには五十人の娘たち、アエギュプトゥスには五十人の息子たちがいた。アエギュプトゥスは自分の息子たちをダナウスの娘たちと結婚させることを要求したが、ダナウスはこれを断り、船を造って娘たちとともにアルゴスに逃げた。アエギュプトゥスと息子たちがアルゴスまで追いかけて来ると、ダナウスは娘たちに指示して、新婚の初夜にそれぞれの夫を殺させた。この出来事故に、ダナイデース(ベーリーデース)はタルタロスにおいて、甕で水を運んで底の抜けた大桶を満たすよう命じられ、永遠の責め苦に遭っている。

 なお神話学において、ダナイデースは本来泉のニンフであったと考えられている。
       
       vaco, are, avi, atum, v.n. 空である、自由である;(物事から)自由である、…を持たない、暇である(a re)
       
 註23   inque tuo sedisti, Sisyphe, saxo.
       直訳 シーシュフォスよ、汝は汝の岩に座った。
       
       ※ "inque" は、欠如動詞 "inquam"(言う)の命令法能動相現在二人称単数であるが、ここではあたかも眼前にシーシュフォスが居るかのような効果を出し、且つ詩句のリズムを整える目的で、冗語的に挿入されている。
       
 註24   Tunc primum lacrimis victarum carmine fama est Eumenidum maduisse genas.
       直訳 そのとき初めて、歌に打ち負かされたエウメニデス(復讐の女神たち)の頬が、涙で濡れたと言われている。
       
       ※ エリーニュエス(Erinyes, Ἐρῑνύες)、別名エウメニデス(Eumenides, Εὐμενίδες 優美なる女神たち)は恐ろしい姿をした復讐の女神たちで、黄泉のタルタロスに住んでいる。
       
       victus, a, um, p.p. vinco
       madeo, ere, madui, v.n. 湿っている、濡れて滴る;溢れる、漲る
       
 註25   Nec regia coniunx sustinet oranti nec qui regit ima negare, Eurydicenque vocant.
       直訳 王の妻も、黄泉を治める者も、祈る人に対し、思い切って拒まない。そしてエウリュディケーを呼ぶ。
       
       sustineo, ere, tinui, tentum, v.a. (cum inf.) 思い切って行う
       imus, a, um adj. superl. [inferus] 最低の、最も下の
       imum i, n. 基部、深部、黄泉;最後
       
 註26   Umbras erat illa recentes inter et incessit passu de vulnere tardo.
       直訳 彼女は新しい影たちの間にいた。そして傷ゆえに緩慢な歩みで歩いて来た。
       
 註27   Hanc simul et legem Rhodopeius accipit Orpheus, ne flectat retro sua lumina, donec Avernas exierit valles: aut inrita dona futura.
       直訳 ロドペーの人オルフェウスは、この女と、同時に掟を受け取る。[掟の内容は、]アウェルヌスの谷から出るまで、自分の眼光を後方に転じてはならない。さもなくば恩恵は無効になるであろう[ということだ]。
       
       ※ 古典古代から中世までの科学思想では、眼から投射される眼光によって視覚が成立すると考えられていた。オウィディウスはこの説に基づき、オルフェウスの視線を「眼光」(sua lumina)と表現している。

 眼光によって視覚が成立するという考えは、現代人から見ると非常に奇妙に思える。もしも眼が光を発しているならば、夜間に物を見ようとしている人や動物の眼から、光が投射される様子が観察できなければならない。しかしながらこの説を採る立場から見れば、夜行性動物のタペタム(照膜)が外からの光をよく反射する様子は、動物の眼そのものが光を発しているように見えたことであろう。
       
       Avernus, i, m. アウェルヌス;アウェルヌス湖(Avernus lacus);黄泉
       
       ※ ナポリの西方に広がるフレグレイ平野(i Campi Flegrei, the Phlegraean Fields) は非常に大きなカルデラで、多数の火口を有する。アウェルヌスはクーマエ付近にある大きな火口で、水が溜まったところはアウェルヌス湖(Avernus lacus)となっている。アウェルヌスには黄泉へ降りる入口があるとされていた。アエネーアース(Aeneas, Αἰνείας)はアウェルヌスの入り口から黄泉に下っている。
       
       ※ アウェルヌス湖畔にはクーマエの巫女の岩窟がある。アウェルヌス湖畔の岩窟は巫女の住居であり、巫女が祭祀を行う場はクーマエにある。
       
       Cumae arum, f. pl クーマエ(Κύμαι)
       
       ※ クーマエは紀元前八世紀に築かれたマグナ・グラエキア最初のギリシア都市で、ガエタ湾(Golfo di Gaeta)に面しており、ナポリからは北西に十二キロメートル離れている。当地のアポロン神殿には、「クーマエの巫女」として知られるシビュッラ(σίβυλλα 「巫女」の意)がいた。
       
       inrito = irrito, are, , avi,atum, v.a. [irritus] 無効にする
       
       ※ オルフェウスが妻を黄泉から連れ戻す際に、「見てはいけない」との禁忌に抵触して失敗した。この物語の骨格は、「古事記」にある伊弉諾(いざなぎ)の黄泉下りの神話を思い起こさせる。
       
 註28   Carpitur acclivis per muta silentia trames, arduus, obscurus, caligine densus opaca.
       直訳 押し黙った沈黙を通じて、上り坂の小道がのろのろと歩かれる。[その道は]険しく、暗く、暗い夜に関して濃い。
       
       carpo, ere, psi, ptum, v.a. 刈る;(暇を)貪る;のろのろ歩く、道草を食う、徐行して長く進む
       clivus, i, m. 傾斜、勾配;丘陵
       acclivis, e, adj. 上り坂の、険しい
       trames mitis, m. [trameo] 小道、歩道;通路、進路;生活の方法
       arduus, a, um, adj. 険しい;困難な、厄介な
       caligo, ginis, f. 暗黒、闇夜;靄、霧;愚鈍;憂い
       
 註29   Nec procul afuerunt telluris margine summae:
       直訳 そして彼らは最上部の地の縁から遠くにいなかった。
       
       procello, ere, v.a. 投げ下ろす
       procul, adv. 遠くに、隔たって
       tellus, uris, f. 大地、地母神
       
 註30   hic, ne deficeret, metuens avidusque videndi flexit amans oculos; et protinus illa relapsa est,
       直訳 ここで、オルフェウスは[掟に]背くべきではなかったのだが、[エウリュディケーが付いてきていないのではないかと]恐れ、また[エウリュディケーの姿を]どうしても見たくなって、[エウリュディケーを]愛する人(オルフェウス)は両眼を[背後に]向けた。すると彼女はすぐに元の所に落ちた。
       
       ※ ラテン語の接続法は複文の従属節で使われることが多い。しかしながら願望や祈願を表すために、接続法は単文でも使われる。
       
       ※ ラテン語の禁止文には「ne + 命令法」も存在する。しかしながらこの言い方は法令や布告に限られており、通常の言い方ではない。通常の禁止文では、二人称の場合は「ne + 接続法完了」、三人称の場合は「ne + 接続法現在」が使われる。
       
       ※ オヴィディウスはオルフェウスに関して「[掟に]背くことなかれ」(ne deficeret)と言う。"deficeret" は "deficio" の接続法未完了過去である。通常であれば、三人称に対する禁止文は「ne + 接続法現在」を使って "ne deficiat" となる。しかしながらオルフェウスが掟を守らなかったのは既知の事実であるので、ここでは接続法現在がもうひとつ前の時制、すなわち接続法未完了過去に置き換えられている。
       
       protinus adv. 前へ、さらに前方へ;繋がって、列を作って;絶えず;すぐに
       
 註31  bracchiaque intendens prendique et prendere certans nil nisi cedentes infelix arripit auras.
       直訳 両腕を伸ばし、そして[その腕をエウリュディケーに]掴まれようとも[エウリュディケーを]掴もうとも争いつつ、不幸な[オルフェウス]は消え去りゆく風以外の何物も捕えない。
       
       ※ 「掴まれようとも掴もうとも争いつつ」(prendique et prendere certans)の句について。ここで「争いつつ」(certans)とあるのは、オルフェウスとエウリュディケーの間に争いがあったという意味ではなく、オルフェウスが妻のほうへと腕を差し伸ばした意図のせめぎ合いを表している。「差し伸ばした腕にエウリュディケーが掴まってくれても、自分(オルフェウス)がエウリュディケーを掴んでも、そのどちらでも良いと[考えて]」の意。実際のところ、愛する妻があっという間に黄泉へと滑り落ちるのを目にすれば、考えるよりも先に体が動くであろう。その一瞬の危機感が、「争いつつ」(certans)の一語に集約されている。
       
       prendo = prehendo
       certo, are, avi, atum, v.n. 争う、競争する;張り合う
       cedo, ere, cessi, cessum, v.n., v.a. 退く、立ち去る;消え失せる
       aura, ae, f. 微風;空気;風;蒸気、霧、香気
       arripio, pere, ripui, reptum, v.a. 奪い取る、搔き集める;素早く捕らえる
       
 註32  Iamque iterum moriens non est de coniuge quicquam questa suo:
       直訳 そして今、再び死のうとする女は、自身の夫について何も不平を言わなかった。
       
       queror, queri, questus sum, v. dep. 嘆く(alqd, de re);不平・苦情を述べる(alqd, de re, acc. cum inf.とともに)
       quicquam = quidquam
       quisquam, quidquam, pron. indef. 或る人;(主として否定文で)何も […ない]
       
 註33  quid enim nisi se quereretur amatam?
       直訳 なぜなら、自分が愛されたことに不平を言う ― そのようなことはあり得ないが ― のでなければ、[女は]何を[嘆くことがあるだろうか]。
       
       ※ "se quereretur amatam" は、"se amatam esse quereretur" の意。"se" は "amatam" と同格で、省略された不定詞 "esse" の対格主語。妻が夫に愛されて不平を言うことはあり得ないゆえに、"querereur" は接続法未完了過去形に置かれている。
       
 註34  Supremumque "vale," quod iam vix auribus ille acciperet, dixit revolutaque rursus eodem est.
       直訳 それで[女は]最後の「元気でね」[という言葉]を ― かの男(オルフェウス)は今それを耳で辛うじて捉えたであろうか ― 言い、まさに元々居た場所に逆戻りして落ちて行った。
       
       vix, adv. 辛うじて;ほとんど…ない
       revolvo, ere, volvi, volutum, v.a. (pass.)転がり返る、元へ落ちる、再び陥る、或る物に帰る
       eodem, adv. ちょうどそこへ、ちょうどそこに
       
 註35   Non aliter stupuit gemina nece coniugis Orpheus, quam tria qui timidus, medio portante catenas, colla canis vidit,
       直訳 オルフェウスは妻の二重の死によって呆然としていた。その様子は、犬の三つの頸 ― [頸の]中ほどが鎖を着けている ― を見た臆病な人と、違いが無かった。
       
       ※ 「メタモルフォーセース」第七巻 412 - 413行によると、ヘラクレスは三つの頭を持つ黄泉の番犬ケルベロス(Cerberus, Κέρβερος)に鋼鉄の鎖を掛けて、地上に引き出した。「[頸の]中ほどが鎖を着けている」(medio portante catenas)は絶対的奪格。"medio" は "medio collorum" の意。
       
       stupeo, ere, pui, v.n., v.a. 硬直している、無感覚である;動かない、滞る. 
       geminus, a, um, adj. 二重の
       nex, necis, f. 死;殺人;破滅
       
 註36   quem non pavor ante reliquit, quam natura prior, saxo per corpus oborto;
       直訳 恐怖は、優越するナートゥーラよりも以前には、オルフェウスを後に残して去らなかった。岩が[オルフェウスの]肉体を通して生じつつ。
       
       ※ 人間の肉体を始め、すべての物の在り方は、その物に内在するナートゥーラ(ピュシス、自然本性)によって決まる。ナートゥーラこそ、物の在り方、様態を優越的に決定する原因 ― アリストテレスの用語を借りれば、形相因(causa formalis)― である。「優越するナートゥーラ」(第一のナートゥーラ natura prior)という表現は、このことを表している。

 エウリュディケーを二度目に喪ったオルフェウスは永遠に続くとも思われるほどの強い恐怖に捉えられ、その体は人間の肉体のナートゥーラ(自然本性)を放棄して、岩に化したかのように動かなかった。

 「岩が肉体を通して生じつつ」(saxo per corpus oborto)は、結果を表す絶対的奪格の句。
       
       paveo, ere, pavi, v.n., v.a. 震えている、怯えている
       pavor, oris, m. [paveo] 震えること、恐怖;緊張、危惧
       oborior, iri, ortus sum, v. dep. 起き上がる、立ち上がる;現れる、生ずる
       
        人間が悲しみのあまり石になる、あるいは石のようになるというという描写は、孟姜女(もうきょうじょ)の伝承を思い出させる。よく知られる説話において、孟姜女の夫は始皇帝による万里の長城建設に徴用されて殺され、遺骸が長城に塗り込められる。しかしながら夫のために冬着を持参した孟姜女が夫の死を知って泣くと、長城が崩れて夫の骨が現れ、孟姜女は夫の骨を拾い集めて帰る。しかるにこの話とは別に、孟姜女は夫の帰りを待ちわびて、遂には望夫石になったとも伝えられる。
       
 註37   quique in se crimen traxit voluitque videri Olenos esse nocens,
       直訳 また自分へと罪を引きつけて、そして有罪であると見られることを欲したオーレノス[のようになって]。
       
       noceo, ere, cui, citum, v.n. 有害である、妨げになる
       nocens, entis pr. p., p. a. [noceo] 有害な;罪のある  m. 犯罪人
       
 註38  tuque, o confisa figurae, infelix Lethaea, tuae, iunctissima quondam pectora, nunc lapides, quos umida sustinet Ide.
       直訳 そして、おお、汝、自身の容姿に自信を持っていた、不幸なるレータイアよ。かつては最も親しかった[二つの]胸が、いまや石になった。湿ったイーデー[の山]が、この二人を支えている。
       
       confido, ere, fisus sum, [confidi], v.n. 人・物を信用する(dat.);或る事に自信がある
       confisus, a, um, adj. b
       junctus, a, um, p.p., p.a. 結合した;親しい
       quondam, adv. かつて、以前に;時々;将来、いつか
       pectus, toris, n. 胸;心、感情、悟性、精神;人
       umor, oris, m. 湿気;各種の液体
       umeo, ere, v.n. 湿っている
       umidus, a, um adj. 湿った、湿気のある;涙に濡れた;液汁の多い
       Ide, es, f. = Ida, ae, f. トロイアに近い山脈
       
 註39  Orantem frustraque iterum transire volentem portitor arcuerat.
       直訳 願って、再び[黄泉に]渡ることをと効果なく欲する人を、渡し守は妨げた。
       
       ※ 渡し守(portior)とは、スティクス(Στύξ)の渡し守カローン(Χάρων)のこと。
       
       portitr, oris, m. [porto] 渡し守、船頭は
       arceo, ere, arcui, arctum, v.a. 囲む、せき止める;妨げる、防ぎ守る、禁ずる
       
 註40  Septem tamen ille diebus squalidus in ripa Cereris sine munere sedit: cura dolorque animi lacrimaeque alimenta fuere.
       直訳 しかし七日のあいだ、彼は[黄泉の対岸の]岸辺で悲しみに身をこわばらせ、ケレースの世話無くして座っていた。心配と心の苦しみと涙が食物であった。
       
       squaleo, ere, lui, v.n. でこぼこしている、こわばっている、硬い:悲しむ、喪服を着ている
       squalidus, a, um, adj. でこぼこの、こわばった、硬い:悲しんでいる、喪服を着た
       
 註41   Esse deos Erebi crudeles questus, in altam se recipit Rhodopen pulsumque aquilonibus Haemum.
       直訳 オルフェウスは闇(黄泉)の神々が無情であると嘆き、高きロドペーへと、また北風に揺り動かされるハイモス山へと、退く。
       
       ※ エレボス(Ἔρεβος)は闇を司る神の名である。しかしながらこの語は、黄泉を指す一種の地名として使われることもある。
       
       queror, queri, questus sum, v. dep. 嘆く(alqd, de re);不平・苦情を述べる(alqd, de re, acc. cum inf.とともに)
       recipio, ere, cepi, ceptum, v.a. [capio] 戻す、返す;(軍隊を)退却させる;(se recipio)全快する、我に返る
       pello, ere, pepuli, pulsum, v.a. 押し動かす、動揺させる;弦楽器を弾く
       aquilo, onis, m. 北風;嵐;北
       Haemus, i, m. トラーキアの山(Αἷμος 現在のバルカン山脈)
       
 註42   Tertius aequoreis inclusum piscibus annum finierat Titan,
       直訳 三番目のティーターンが、完結した年を、海の魚たちで[既に]終えていた。
       
       ※ ティーターン(Titan, Τιτάν)は巨人族のひとりのこと。三番目のティーターンとは、太陽神ヒュペリオーン(Hyperion, Ὑπερίων)のこと。ホーメロスの作品では、常に「ヒュペリオーン・ヘーリオス」(Ὑπερίων Ἠέλιος)あるいは「ヘーリオス・ヒュペリオーン」(Ἠέλιος Ὑπερίων)という形で言及されている。
       
       aequor,oris, n. [aequus] 平面、平地;海面
       aequoreus, a, um, adj. [aequor] 海の
       includo, ere, clusi, clusum, v.a. 囲む;完結する
       
 註43   omnemque refugerat Orpheus femineam venerem, seu quod male cesserat illi, sive fidem dederat.
       直訳 オルフェウスは女の愛を全く避け続けていた。あるいはそれ(女の愛)を女に対して悪く・徒らに許し与えていた。あるいはまた、[既に]誓いを立てていた。
       
       ※ 「女の愛を全く避け続けていた」(refugerat omnem femineam venerem)との句は、「女に好意を寄せなかった」という意味にも、「女から好意を寄せられても愛を返さなかった」という意味にも取れる。さらには「女に対する情欲を避けていた」(禁欲していた)という意味に解することも可能である。実際にはそれらすべての意味が込められていよう。
       
       ※ 「それを女に悪く・徒らに許し与えていた」(quod male cesserat illi)とは、たとえば逐語的に英訳すれば、"which (sc. love) little had he conceded to her (sc. any woman)"(女に対して愛を全く与えなかった)の意。

 ここで使われている代名詞 "illi" は、"illa" の単数与格形である。筆者(広川)の解釈によると、代名詞が単数形である理由は、特定の一人の女を指すからではない。むしろオルフェウスは一人の女をも相手にしなかったゆえに、いわば地上の女たちが具体性、生身の存在性を失い、抽象化された結果である。エウリュディケーただ一人に恋い焦がれるオルフェウスは、具体性を持った他の女たちを思い浮かべようとしない。詩人オウィディウスはそのような精神状態のオルフェウスと完全に一体化して、代名詞を単数形(illi)で使っている。
       
       ※ 第78行以降では、黄泉から戻って三年後のオルフェウスが描写されている。「既に誓いを立てていた」(fidem dederat)という節は、黄泉から戻って人が変わったオルフェウスの描写と考えると、ひとまず「今後は女に触れないと誓っていた」という意味に解せる。本稿の本文ではそのように訳した。「女に対して愛を全く与えなかった」(quod male cesserat illi)の節と、「既に誓いを立てていた」(fidem dederat)の節が、接続詞 "seu ..., sive ..." で並置されていることも、これらの節を同時的に訳した理由である。

 しかしながらこれらの節の動詞は直説法過去完了形であるから、時間をさらに遡ることもできる。すなわち「既に誓いを立てていた」という言葉に、「エウリュディケーだけを愛する」という結婚の誓いが含意されていると考えることも可能である。

 黄泉から戻ったオルフェウスが女に触れなかったのは、意志的な誓いの結果ではなく、エウリュディケー以外の女を求める気持ちにならなかったからである。そのことを考えれば、この「誓い」(fides)が内包する意味は、「エウリュディケーに対する結婚の誓い」に比重を置いて解釈すべきかもしれない。もしそうであれば、この節は「独身の誓いを既に立てていた」というよりも、むしろ「エウリュディケーに対する愛の誓いを既に立てていた」と訳すべきであろう。どちらが良いかは読者の判断に任せる。
       
       male adv. 悪く;ひどく;不幸に;空しく、徒らに;あまりに、過度に、不当に
       cedo, cessi, cessum, v.n., v.a. ある人の所有になる(alci, in alqm);譲る、従属する;或る人に或る物・事を許す、許し与える(alci alqd, ut, ne, inf.)
       seu = sive
       seu ... seu ... = sive... sive ... あるいは…あるいは…
       fidem do 誓いを立てる
       
 註44  Multas tamen ardor habebat iungere se vati, multae doluere repulsae.
       直訳  しかしながら情熱は、自らを詩人に結びつけることへの(sc. 自らを詩人に結びつけることを志向する)多数の女たちを有していた。[そしてこれまでに]多数の女たちが拒まれて悲しんだ。
       
       ※ 印欧基語の不定詞は格変化を有していた。サンスクリット語の不定詞は、ラテン語のスピーヌムと同様に、対格語尾を有する。ラテン語の不定詞は、元来は与格あるいは所格であった。他の動詞や形容詞の補語となる叙述補助不定詞(prolative infinitive)の用法、及び不定詞が目的を表す用法は、ラテン語不定詞がもともと有していた与格あるいは所格の性格に由来する。

 前置詞を伴わない単独の不定詞が目的を表す用法は、散文のラテン語では徐々に使われなくなっていったが、詩には長く残った。"Multas tamen" から始まるこの節では、「自らを詩人に結びつけることへの(結びつけるための、移入することにおける)」(jungere)の句が、「多数の女たちを」(multas)を限定・修飾している。
       
       ardor, oris, m. [ardeo] 火炎、熱火;輝き、光輝;熱望、情熱;情火;愛人
       vates, is, comm. 占い者、予言者;歌人、詩人
       doluere = doluerunt  直説法完了能動相三人称複数
       
 註45   Ille etiam Thracum populis fuit auctor amorem in teneros transferre mares citraque iuventam aetatis breve ver et primos carpere flores.
       直訳 さらに彼はトラーキア人たちである民にとって、若い男性に愛を使用することにおける、また青年期のうちに人生の短い春と最初の花々を刈り取ることにおける、導き手であった。
       
       ※ "Ille etiam" から始まるこの節の不定詞は、註44で説明したのと同じ用法である。すなわち「移入することにおける(移入することへの、移入するための)」(transferre)の句、及び「刈り取ることにおける(刈り取ることへの、刈り取るための)」(carpere)の句が、いずれも「導き手、指導者」(auctor)を限定・修飾している。
       
       Thrax, cis, m. トラーキア人
       tener, era, erum, adj. [teneo] 柔らかい、柔軟な;若い;多感な;情愛のある;肉欲的な、好色の
       transfero, ferre, tuli, latum, va. 或る物を或る事に使用する(alqd in alqd/alqm)
       citra, prep. cum acc. こちら側で;(時間的に)…以内に、…よりも以前に;(場所的に)…の前で;…無しに、…を除いて
       mas maris, m. 人、男
       mas, maris, adj. 男性の;力強い
       ver, veris, n 春
       juventa, ae f. = juventas, atis, f. 青年期;若々しさ;若者たち
       aetas, atis, f. 年齢;若年、若者;全盛期;丁年;老年;人生
       
 註46 「古事記」によると、國譲りを勧告する使者として高天原から地上(葦原中國)に遣わされた天若日子(あめのわかひこ)は、大國主神の女(むすめ)である下照比賣(したてるひめ)を娶り、大國主から葦原中國を継ごうと考えて、八年経っても高天原に復奏しなかった。それのみか、任務を思い出させるために高天原から遣わされた雉(きぎし)、鳴女(なきめ)を射殺した。鳴女を貫いた矢は高天原に到り、そこから投げ返された。天若日子には「邪(きたな)き心」があったので、このニムロドの矢により射殺された。天若日子の遺体は喪屋に安置され、八日八夜に亙って涕泣哀哭の儀礼が行われた。以下はそのときの様子である。
       
        故(かれ)、天若日子の妻、下照比賣の哭く聲、風の與(むた)響きて天(あめ)に到りき。ここに天なる天若日子の父、天津國玉神またその妻子(めこ)聞きて、降り來て哭き悲しみて、すなはち其處に喪屋を作りて、河鴈(かはがり)を岐佐理持(きさりもち)とし、鷺を掃持(ははきもち)とし、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(うすめ)とし、雉(きぎし)を哭女とし、かく行なひ定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき。
 この時、阿遲志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神到(き)て、天若日子の喪を弔いたまふ時に、天より降り到つる天若日子の父、またその妻、皆哭きて云ひしく、「我が子は死なずてありけり、我が君は死なずてましけり。」と云ひて、手足に取り懸りて哭き悲しみき。その過ちし所以は、この二柱の神の容姿、甚(いと)よく相似たり。故ここをもちて過ちき。
       
  殯の期間に涕泣哀哭の儀礼を行えば、それが魂呼ばいの働きをして死者が復活しうる。古代人はこれを当然あり得ることと考えていたはずである。二柱の神の容姿がいくら似ていたとはいえ、また甚だしい悲しみによって正常な判断能力が鈍っていたとはいえ、殯にある死者が涕泣儀礼によって復活し得るとの考えがそもそも存していなければ、上記引用箇所のような取り違えは起こらないであろう。
     
  なおわが国はユーラシア大陸東端のさらに東に浮かぶ島であるが、ユーラシア大陸西端近くのさらに西においても、嘗てのわが国と同様の儀礼的涕泣が行われている。アイルランド西部のゴールウェイ湾入り口には、石灰岩でできた三つの島、アラン諸島(the Aran Islands)が浮かんでいる。アイルランドの劇作家ジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge, 1871 - 1909)は 1898年から 1902年まで数次に亙ってアラン諸島に滞在し、四部構成の紀行「アラン島」("The Aran Islands". 1907)を著した。「アラン島」は姉崎正美氏による和訳が岩波文庫に収められており、この 56ページから 58ページには、イニシマーン(Inishmaan アラン三島のうち真中の島)で観察された老婆の葬儀が記録されている。葬儀において老婆たちは死者に呼びかけつつ激しく泣き叫ぶが、その泣き叫びはリズムを伴う儀礼的涕泣である。シングの記録に死者の復活を促すような文言は見当たらないが、嘗て魂呼ばいであったものが単なる悲嘆の表現として固定したのかもしれない。
       
 註47 日本神話における黄泉降りの例として「古事記」を引いたが、「日本書紀」においても杵築大社は日隅宮と呼ばれており、これは日が没する出雲にあるゆえの呼び名と考えられる。奈良盆地から見ると、伊勢は日が出ずる東方にあるが、出雲は日が没する西方にある。出雲と黄泉のイメージは、ここにおいても重なり合う。
       



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