ニムロドの矢
la Flèche de Nimrod




(上) 南イタリア、モンテ・ガルガノにあるサン・ミケーレ(聖ミカエル)のバシリカ Il Santuario di San Michele Arcangelo sul Gargano


 ニムロドはノアの孫クシュの子で、「創世記」十章に登場します。新共同訳により該当箇所を引用します。

      クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった。彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト・イル、カラ、レセンを建てた。レセンはニネベとカラとの間にある、非常に大きな町であった。
     「創世記」十章七節から十二節 新共同訳

 旧約聖書に書かれたニムロド伝はこれだけですが、聖書とは別のカナンの神話には、ニムロドが天に向けて放った矢が神によって投げ返され、これによってニムロドが胸を射られる物語が見られます。この神話に因み、聖なる存在に向かって発射された矢が神威によって向きを変える説話には、「ニムロドの矢」という類型名が付けられています。「ニムロドの矢」型の説話は世界に広く分布しています。


【インドにおけるニムロドの矢】

 インドに分布する「ニムロドの矢」としては、「賢愚経」巻一に、阿闍世王が恒伽達(ごうがだつ)を射殺しようと試みる話が見られます。恒伽達は阿闍世(あじゃせ)王の宰相が恒河天神に祈って得た子で、王妃と侍女たちが脱いだ衣を盗もうとして見つかり、王の前に引き立てられました。阿闍世はこれを射ようとしますが、三度試みても矢は反転して王自身に向かい、恒伽達を射ることができません。これに恐れを抱いた王は、神通力の由来を恒伽達に尋ねました。

 「法句譬喩経」巻四には、優填王が第一王妃を射殺しようと試みる話が見られます。第一王妃は敬虔な仏教徒でしたが、第二王妃に讒訴されて王の怒りを買いました。優填はこれを射ようとしますが、何度試みても矢は反転して王自身に向かい、妃を射ることができません。仏の力を目の当たりにした王は恐れを抱き、自ら妃の縛めを解きました。


【日本におけるニムロドの矢】

 「古事記」によると、國譲りを勧告する使者として高天原から地上(葦原中國)に遣わされた天若日子(あめのわかひこ)は、大國主神の女(むすめ)である下照比賣(したてるひめ)を娶り、大國主から葦原中國を継ごうと考えて、八年経っても高天原に復奏しませんでした。それのみか、任務を思い出させるために高天原から遣わされた雉(きぎし)、鳴女(なきめ)を射殺しました。鳴女を貫いた矢は高天原に到り、そこから投げ返されました。天若日子には「邪(きたな)き心」があったので、このニムロドの矢により射殺されました。この説話の該当箇所を以下に引用します。

      是(ここ)を以ちて高御產巢日神、天照大御神、亦諸(もろもろ)の神等(たち)に問ひたまひけらく、「葦原中國に遣はせる天菩比(あめのほひの)神、久しく復奏(かへりごとまを)さず。亦何(いづ)れの神を使はさば吉(よ)けむ。」ととひたまひき。爾に思金(おもひかねの)神、答へ白ししく、「天津國玉(あまつくにたまの)神の子、天若日子(あめのわかひこ)を遣はすべし。」とまをしき。故(かれ)、爾(ここ)に天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)、天之波波矢(あめのははや)を天若日子に賜ひて遣はしき。是に天若日子、其の國に降り到る卽ち大國主神の女(むすめ)、下照比賣(したてるひめ)を娶(めと)し、亦其の國を獲(え)むと慮(おもひはか)りて、八年(やとせ)に至るまで復奏さざりき。
      故、爾に天照大御神、高御產巢日神、亦諸の神等(たち)に問ひたまひしく、「天若日子久しく復奏さず。亦曷(いづ)れの神を遣はしてか、天若日子が淹(ひさしく)留まる所由(ゆゑ)を問はむ。」ととひたまひき。是に諸の神及思金神、「雉(きざし)、名は鳴女(なきめ)を遣はすべし。」と答へ白しし時に、詔(の)りたまひしく、「汝(なれ)行きて天若日子に問はむ狀(さま)は、『汝(いまし)を葦原中國に使はせる所以は、其の國の荒振る神等(ども)を、言趣(ことむ)け和(やは)せとなり。何(いか)にか八年に至るまで復奏さざる。』ととへ。」とのりたまひき。
      故、爾に鳴女、天(あめ)より降り到りて、天若日子の門(かど)なる湯津楓(ゆつかつら)の上に居(ゐ)て、委曲(まつぶさ)に天つ神の詔りたまひし命(みこと)の如(ごと)言ひき。爾に天佐具賣(あめのさぐめ)、此の鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて言ひしく、「此の鳥は、其の鳴く音(こゑ)甚惡(いとあ)し。故、射殺すべし。」と云ひ進むる卽ち、天若日子、天つ神の賜へりし天之波士弓(あめのはじゆみ)、天之加久矢(あめのかくや)を持ちて、其の雉を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸より通りて、逆(さかしま)に射上(いあ)げらえて、天安河の河原に坐(ま)す天照大御神、高木神の御所(みもと)に逮(いた)りき。是の高木神は、高御產巢日神の別(また)の名ぞ。
     故、高木神、其の矢を取りて見たまへば、血、其の矢の羽に著(つ)けり。是に高木神、「此の矢は、天若日子に賜へりし矢ぞ。」と告(の)りたまひて、卽ち諸の神等に示(み)せて詔りたまひしく、「或(も)し天若日子、命(みこと)を誤(あやま)たず、惡しき神を射つる矢の至(きた)りしならば、天若日子に中(あた)らざれ。或し邪(きたな)き心有らば、天若日子此の矢に麻賀礼(まがれ)。」と云ひて、其の矢を取りて、其の矢の穴より衝(つ)き返し下(くだ)したまへば、天若日子が朝床(あさとこ)に寢(いね)し高胸坂(たかむなさか)に中りて死にき。また其の雉還らざりき。故、今に諺に、「雉の頓使(ひたづかひ)」と曰(い)ふ本是なり。


【ヨーロッパにおけるニムロドの矢】

・モンテ・ガルガノにある大天使聖ミカエルのバシリカの縁起



(上) La Basilica Minore di Santa Maria Maggiore di Siponto


 ナポリからイタリア半島を横断したちょうど反対側、アドリア海に面するマンフレドニア(Manfredonia プッリャ州フォッジャ県)の町から三キロメートルほど南下したところに、シポント (Siponto) の遺跡があります。シポントはローマ時代以来の古い都市です。古代には司教座が置かれていましたが、その後衰退し、688年にベネヴェント (Benevento) 司教区に編入されました。しかし1034年にはふたたび司教座が、1066年には大司教座が置かれて繁栄しました。

 しかしながら1223年、この地域に大きな地震が起こり、シポントは壊滅してしまいます。ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の弟であるシチリア王マンフレディ (Manfredi, 1232 - 1258 - 1266 註1) は、シポントに替わる町として、シポントの北3キロメートルの場所に、1256年から7年の歳月をかけて新しい町マンフレドニアを建設しました。


 伝承によると、シポントの司教であり、現在ではマンフレドニアの守護聖人とされる聖ラウレンティウス・マイオラーヌス (San Lorenzo Maiorano, + c. 545) は、シポントからほど近いガルガノ山(Monte Gargano 現在のサンタンジェロ山 Monte Sant'Angelo)において、所有する家畜を放牧させていました。492年5月8日、牧童たちが目を離した隙に一頭の雄牛がいなくなりました(註1)。牧童たちが探したところ、険しい崖を登りきったところに洞窟の入り口があり、牛はそこで丈夫な蔦に角を絡めているのが見つかりました。牛は蔦が角から外れずにいら立っており、危険で近づくことができなかったので、牧童たちはやむを得ず牛を目がけて矢を放ちましたが、矢は何と途中で向きを変えて、射手の方へと飛んで来るではありませんか。これを見た牧童たちは怖れを為して、すぐにその場から逃げ出しました。

 この出来事はすぐにシポントに伝わり、司教は市民に三日間の断食と祈りを命じました。三日後、大天使ミカエルが司教に現れて、ガルガノ山の洞窟はミカエルの保護のもとにあること、神と天使たちの名のもとに洞窟を聖別するよう神が望んでおられることを明かしました。この啓示を受けた司教が聖職者たち、市民たちとともにガルガノ山の洞窟に行ってみると、洞窟内部は聖堂にふさわしい構造となっていました。その後この場所には複雑な地下構造を有する聖所、モンテ・ガルガノのバシリカ (Il Santuario di San Michele Arcangelo sul Gargano) が建てられて、大勢の巡礼者を集めています。


・修道女が幻視したニムロドの矢



(上) パリ、ラマルシュによるアール・ヌーヴォーのカニヴェ 「聖フィロメナ」 (図版番号 212) 日本風の切り紙細工に黒色インクのインタリオ 114 x 74 ミリメートル フランス 1890年代 当店の商品


 聖フィロメナは四世紀初頭に殉教したとされる少女です。1802年、ローマにあるプリスキッラのカタコンベで、この聖女のものとされる墓所が見つかりました。1805年8月10日、少女の遺体は南イタリア、ナポリ近郊のムニャーノ・デル・カルディナーレ(Mugnano del Cardinale カンパニア州アヴェリーノ県)に移され、聖堂の祭壇下に安置されました。カタコンベの墓所を塞いでいた三枚の板は、1827年8月4日、教皇レオ十二世から当地の聖堂に贈られました。

 1833年、ナポリに住むイエスのマリア・ルイザ修道女(Maria Luisa di Gesù)がフィロメナの殉教を幻視しました。その幻視したところによると、聖フィルメナ(フィロメナ)はギリシアにある小国の王女として生まれました。フィルメナという名前には、フィリア・ルーミニス(羅 FILIA LUMINIS 光の娘)の意味が籠められています。フィロメナは極めて美しい少女であったゆえにディオクレティアヌス帝から妃に望まれました。しかしながら純潔の誓いを立てていたフィロメナは、皇帝の望みを断固として拒みました。怒った皇帝は四十日のあいだ、フィロメナを鎖に繋ぎ、城塞中の牢に閉じ込めました。その後フィロメナは高位の人たちの前に引き出され、裸にされて鞭打たれた後、牢に戻されました。しかしながら瀕死のフィロメナのもとにふたりの天使が訪れ、膏薬を塗って傷をいやし、フィロメナに生気を吹き込みました。次にフィロメナは錨に括られ、ティベル河に投げ捨てられましたが、ふたりの天使が縄を解き、錨だけが川底に沈んで、フィロメナは濡れることさえなく岸辺に運ばれました。それを見た大勢がキリスト教徒になりました。皇帝は街路でフィロメナを引きずらせた上、数多くの矢で射らせました。フィロメナは瀕死の傷を負って牢に戻されましたが、安らかな眠りに落ちると、一夜のうちに癒されました。怒り狂った皇帝は射手たちに命じてさらに矢を射させましたが、矢はすべて脇に逸れました。射撃をさらに続行したところ、矢は空中で反転し、六人の射手を射殺しました。このとき数名の射手が回心してキリスト教徒になり、少女は神の力に守られているとの考えが人々の間に広がりました。救い主イエスが十字架に架かり給うたのと同じ金曜日の午後三時、少女フィロメナは斬首により、ついに殉教しました。殉教の日付は、ローマからムニャーノ・デル・カルディナーレへの移葬が行われたのと同じ8月10日でした。

 カタコンベのフィロメナの墓所を塞ぐテラコッタの板には、方向を違えた二本の矢が描かれていました。イエスのマリア・ルイザ修道女はこの図像を、矢が空中で反転したさまを表すものと解釈しています。イエスのマリア・ルイザ修道女の幻視は伝統的ハギオグラフィアの類型を完全になぞっており、ヤコブス・デ・ウォラギネが聖フィロメナの存在を知っていれば、「レゲンダ・アウレア」にこのような話を書いたであろうとも思えます。「極めて美しい聖女がローマ皇帝に見初められるが、棄教を拒み、貞節を守って結婚を断る。皇帝は激怒し、聖女を残虐な方法で処刑しようとするが、超自然的な力で刑の執行が妨害され、それを見た大勢の異教徒がキリスト教に改宗する。聖女は最後に斬首されて殉教の栄冠を手に入れる」という筋書きは、「レゲンダ・アウレア」が語るアレクサンドリアの聖カタリナ殉教伝と軌を一にしています。



註1 動物に導かれて山中に聖地を見出す説話は、洋の東西を問わず広く分布する。ヨーロッパの事例としては、スペイン中部グアダルペにおいて、いなくなった牛を探す牧童が聖母マリアの聖地を見出している。わが国の霊山の開山伝承においても、伯耆大山では金色の狼、立山では熊、高野山では二頭の黒犬、英彦山では白鹿と鷹、羽黒山では三本足の烏が、それぞれ重要な役割を果たす。



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