ポール・ヴィクトル・グランドム
Paul Victor Grandhomme (le père), 1851 - 1944


 ポール・ヴィクトル・グランドム ラファエル・コランが 1890年以前に描いたデッサン


 ポール・ヴィクトル・グランドム(Paul Victor Grandhomme, 1851 - 1944)はフランスのメダイユ彫刻家です。若い頃に宝飾品職人としての訓練を受けており、リモージュ様式による優れたエマイユ工芸家としても知られています。同名の息子ポール・グランドムもメダイユ彫刻家でエマイユ工芸家でもあるので、ふたりの作品はよく混同されます。


【ポール・ヴィクトル・グランドムの生涯】

 ポール・ヴィクトル・グランドムは 1851年7月23日、パリで生まれました。若者時代に金銀細工職人を志しましたが、普仏戦争に続く社会的混乱のために宝飾品関係の職を得られず司書になりましたが、司書時代にクロディユス・ポプラン(Claudius Popelin, 1825 - 1892 註1)の著作を読んだことをきっかけに、エマイユ(仏 émail 七宝焼)に関心を抱きます。オーギュスト・モラール(Auguste Mollard, 1836 - 1916 註2)とジュール=クレマン・シャプラン(Jules-Clement Chaplain, 1839 - 1909)に師事した後、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Cécile Puvis de Chavannes, 1824 - 1898)及びジュール=エリ・ドロネ(Jules-Élie Delaunay, 1828 - 1891 註3)の絵画作品をエマイユ・パン(仏 émail peint エマイユ画)にしています。ポール・ヴィクトル・グランドムのエマイユ・パンには、友人の画家ラファエル・コラン(Raphaël Collin, 1850 - 1916 註4)の強い影響が見られます。ポール・ヴィクトル・グランドムは 1874年、フランス美術アカデミー(L'Académie des beaux-arts)のサロン展に、エマイユ・パンによる肖像「ヴィットーリア・コロンナ」(Vittoria Colonna, 1492 - 1547)を出品しています。

 1877年、ポール・ヴィクトル・グランドムはアルフレッド・ジャン・ガルニエ(Alfred Jean Garnier, 1848 - 1908)と共同で作品を制作するようになり、1890年のサロン展にはエマイユ・パンによるカルロ・クリヴェッリ(Carlo Crivelli, c. 1430 - 1495)の聖母像やエドワード七世像を出品しています。またギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826 - 1898 註5)に基づく次のエマイユ・パン作品も、サロン展に単独あるいは共同で出品しています。

 「オルフェウス」("Orphée", 1892) ※ アルフレッド・ジャン・ガルニエと共同出品
 「ヘレナ」("Hélène", 1893)
 「レダ」("Léda" 1895)、「サッフォー」("Sapho", 1895)、「オイディプス」("Œdipe", 1895) ※ いずれもアルフレッド・ジャン・ガルニエと共同出品

 次の作品はギュスターヴ・モローに基づく作品群とともに、オルセー美術館に収蔵されています。

 「愛と貞操」("L'Amour et la Chasteté", 1890) (註6)
 「ミネルヴァ」("Minerve", 1895) ※ マンテーニャの原画による。


 ポール・ヴィクトル・グランドムとアルフレッド・ジャン・ガルニエは、1889年のパリ万博で金メダルを共同受賞しています。また彫刻家であり工芸家、ジョワイエ(仏 joaillier 宝飾品職人)でもあるジュール・ブラトー(Jules Paul Brateau, 1844 - 1923)とも親交があり、数多くの作品を共同制作しています。さらにリュシアン・ファリーズ(Lucien Falize, 1839 - 1897)のためにも仕事をしています。

 ポール・ヴィクトル・グランドムはブルターニュ半島の付け根の北側、サン=マロから七キロメートルあまり西にある村サン=ブリアク=シュル=メール(Saint-Briac-sur-Mer ブルターニュ地域圏イール=エ=ヴィレーヌ県)で、1944年に亡くなりました。ポール・ヴィクトル・グランドムの墓碑は、彫刻家エミール・アルメル=ボーフィス(Émile Armel-Beaufils,1882 - 1952)とその妻ザニク(Zannic Armel-Beaufils, née Suzanne Duvivier, 1892-1978)が制作したブロンズ像で飾られています。



註1  クロディユス・ポプラン(Claudius Popelin, 1825 - 1892)は歴史画と肖像画の画家、エマイユ工芸家であり、詩人としても活躍した人物です。エマイユ工芸に関して、次の著作があります。
「画家のエマイユ」("L'Émail des peintres", 1866)
「エマイユの技法 ― 中央美術連合における 1868年3月6日の講義」("L'Art de l'émail, leçon faite à l'Union centrale des beaux-arts, le 6 mars 1868"
「古(いにしえ)のエマイユ技法」("Les Vieux arts du feu", 1869)
註2  オーギュスト・モラール(Auguste Mollard, 1836 - 1916)はフランスの金銀細工師であり、エマイユ工芸家でもあった人物です。グルノーブル(Grenoble オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏イゼール県)の時計・金銀細工職人の家系に生まれ、パリで活躍しました。トランスリュシード(仏 translucides 半透明エマイユ)と呼ばれる技法を始めたことで知られています。
註3  ジュール=エリ・ドロネ(Jules-Élie Delaunay, 1828 - 1891)はフランスの画家です。1856年にローマ賞プルミエ・グラン・プリを獲得して四年間をローマに学び、帰国後にはパリ、オペラ座やパレ・ロワヤルの装飾等、重要な仕事を任されました。1879年に美術アカデミー会員となり、1889年にはパリ高等美術学校の校長に就任しています。
註4  ルイ=ジョゼフ=ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphaël Collin, 1850 - 1916)はパリに生まれ育った画家です。ウィリアム・ブグロー(William-Adolphe Bouguereau, 1825 - 1905)アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823 - 1889)に師事し、人物画、肖像画、風俗画を得意としました。東京美術学校(東京芸術大学の前身)に教鞭を執った黒田清輝(1866 - 1924)、久米桂一郎(1866 – 1934)、岡田三郎助(1869 - 1939)は、いずれもラファエル・コランの弟子です。
註5  ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826 - 1898)は 1866年のサロン展にデッサンと水彩画を初出品しましたが、これはモローが初めて東洋に主題を求めた作品でした。続いてモローは水彩画「狩人」("le Chasseur")と「インドの詩人」("le Poète indien")を制作しますが、前者は 18867年、フレデリック・ド・クルシー(Alexandre Frédéric de Courcy)のエマイユ・パンになってサロン展に出品されました。後者もエマイユ・パンの下描きであると考えられています。エマイユに魅せられたモローの水彩画は、何人もの工芸家の手でエマイユ・パンになっています。ポール・ヴィクトル・グランドムとアルフレッド・ジャン・ガルニエは、モローのためにエアイユ・パンを制作した最後の作家となりました。
註6  ゲラルド・ディ・ジョヴァンニ・デル・フローラ(Gherardo di Giovanni del Fora, 1444/5 - 1497)の「愛と貞操の闘い」("The Combat of Love and Chastity", 1475 - 1500, Tempera on wood, 42.5 x 34.9 cm The National Gallery, London)に基づきます。



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