アレクサンドル・シャルパンティエ
Alexandre Louis Marie Charpentier, 1856 - 1909


 アレクサンドル・シャルパンティエ 1907年頃に撮影


 フランスのアール・ヌーヴォーにおける最も重要な芸術家のひとり、アレクサンドル・シャルパンティエ (Alexandre Louis Marie Charpentier, 1856.6.10 - 1909.3.4) は、労働者階級の家庭に生まれました。少年期にジュエリー職人に弟子入りしましたが、美術家になりたいという思いは消し難く、15歳のときにジュエリーの仕事を辞めてしまいました。アレクサンドルはパリのエコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts, Ecole nationale superieure des Beaux-Arts 国立装飾美術学校)への入学を望みましたが、彫刻科は学費が非常に高かったので、1871年、同校のメダイユ彫刻科に入学しました。

 若きアレクサンドルにとって幸運なことに、当時メダイユ彫刻科ではユベール・ポンカルム (Francois Joseph Hubert Ponscarme, 1827 - 1903) の下、たいへん優れた教育と訓練が行われていました。アレクサンドルは学費を稼ぐために、学外で装飾彫刻のモデルをしたり広告のモデルを務めたりしていたので、学校に規則正しく出席することはなかなかできませんでしたが、5年間に亙ってポンカルムに浮き彫り彫刻を学び、その才能を見事に開花させました。

 ハンブルク美術館の館長アルフレート・リヒトヴァルク (Alfred Lichtwark, 1852 - 1914) が 1893年にポンカルムを訪問した際、ポンカルムはエコール・デ・ボザールに在学中のアレクサンドル・シャルパンティエについて、セーヌ川に浮かべた小舟の上でペットの猿と一緒に暮らしていたと回想し、他の弟子全員を合わせたよりも優れた才能の持ち主だったと語りました。


 シャルパンティエはエコール・デ・ボザール在学中の 1875年、ローマ賞獲得を目指しましたが、最終選考まで残ることはできませんでした。1878年、1881年、1884年にはローマ賞最終選考まで残りましたが、惜しくも受賞を逃しました。

 サロン展 (le Salon de la Societe des Artistes Francais) には 1874年に初出品しています。1879年に出品した浮き彫り作品「射手」("le Tireur d'Arc") は高い評価を受けて、アレクサンドル・デュマ (Alexandre Dumas pere, 1802 - 1870) に買い取られました。また1883年に出品した浮き彫り「子供に授乳する若き母」("Jeune Mere allaitant un enfant") は非常に高く評価されて審査員賞を受賞し、フランス共和国に買い上げられています。フランス共和国は同じ作品の大理石像もシャルパンティエに注文しています。


(下) "Jeune Mere allaitant un enfant", entre 1892 et 1897, modele de 1882, bas-relief gres emaile, 107.5 x 78.8 cm; musee d'Orsay, Paris




 シャルパンティエは寡作で、ひとつの作品を製作するのに数年の歳月を費やしていました。次に発表した浮き彫り作品は1889年の「パン職人たち」("Les Boulangers") で、この作品は受賞を逃しましたが、オーギュスト・ロダン (Francois-Auguste-Rene Rodin, 1840 - 1917) によって非常に高く評価されました。


 この頃のシャルパンティエは、ダヴィッド・ダンジェジュール=クレマン・シャプランと同様に、肖像メダイユの連作に取り組んでいます。「ポルトレ=エスキス」(portraits-esquisses) と名付けられたこれら一群の作品は、その名の通り、メダイユの形を取った素描ともいうべきのびのびとした自然さが特徴です。1887年から1896年まで、モンマルトルを拠点に「テアトル・リーブル」(Theatre Libre) と呼ばれる前衛的な劇団が活動していましたが、シャルパンティエはこの劇団で演技する役者たちの姿を、あたかも素描を描くようにテラコッタに写し取り、メダイユを製作しました。シャルパンティエが製作したメダイユに見られる素描風の表現様式は、このようにして培われたものです。


 シャルパンティエはアール・ヌーヴォーの芸術家として知られる一方で、オーギュスト・ロダンや画家コンスタンタン・ムーニエ (Constantin Meunier, 1831 - 1905) と親交があり、リアリスムにも深い理解を示していました。下の写真はシャルパンティエが持つリアリストとしての側面がよく現れた作品で、若き労働者の肉体美と機械のメカニカルな美が、ひとつのメダイユに調和的に共存しています。




 1891年と92年に浮き彫り作品を発表した後、シャルパンティエは以前から関心があった装飾美術の分野に取り組み、ブロンズや銀のメダイユや銘盤を新たに室内装飾用に作成するのみならず、木や磁器、錫(すず)、ピューターなど様々な素材を使って、家具、花瓶、リトグラフ、型押しした紙製品など、さまざまな実用品を作り始めました。日本美術商サミュエル・ビング (Siegfried/Samuel Bing, 1838 - 1905) が1895年にパリでギャラリー「ラール・ヌーヴォー」(l'Art Nouveau) を開くと、シャルパンティエは同年12月にこの店で実用品の展示を行っています。

 翌1896年には、室内装飾・家具デザイナーのトニ・セルメルシェム (Tony Selmersheim, 1871 - 1971)、画家フェリクス・オベール (Joseph-Jean-Felix Aubert, 1849 - 1924)、彫刻家ジャン・ダンプ (Jean Dampt, 1854 - 1845)、画家にして陶芸家のエチエンヌ・モロー=ネラトン (Adolphe-Etienne-Auguste Moreau-Nelaton, 1859 - 1927) とともに「五人会」(Societe de Cinq) を結成し、「芸術的実用品」("objets destines a servir, des objets usuels, d'utilite courante qui soient des oeuvres d'art") のショールームをパリ、コーマルタン通に設けました。シャルパンティエとフェルクス・オベールは、1898年、ナイアス(水の精、人魚)と植物文による浴室用壁面装飾パネルを製作し、コーマルタン通のショールームで展示するとともに、サロン展にも出品しています。(註1)




(上) シャルパンティエが製作した黒檀の飾り棚。パリ、ウジェーヌ・ドラクロワ美術館蔵


 シャルパンティエは高級家具を専門に製作するアトリエ数か所を所有し、商業的にも成功を収めました。1900年のパリ万博ではグランプリを獲得し、レジオン・ドーヌール・シュヴァリエ賞を受賞しています。下の写真は、銀行家アドリアン・ベナール (Adrien Benard, 1846 - 1912) の注文により、1900年から1901年にかけてシャルパンティエが内装を手掛けたダイニング・ルームで、現在はオルセー美術館に移築・保存されています。




 シャルパンティエは 1904年に最初の妻と離婚し、1908年に女流彫刻家エリサ・ベーツ (Elisa Beetz-Charpentier, 1875 - 1949) と再婚しています。この結婚の証人として署名したのは、オーギュスト・ロダン、画家アルフレッド・ロール (Alfred Philippe Roll, 1846 - 1919)、画家アルベール・バルトロメ (Paul-Albert Bartholome, 1848 - 1928)、作曲家クロード・ドビュッシー (Achille-Claude Debussy, 1862 - 1918) でした。

 この結婚の翌年3月4日、シャルパンティエはパリ西郊ヌイイ=シュル=セーヌで没します。52歳の若さでした。


 1900年のパリ万博が開かれた頃、人々は新世紀に無限の可能性を夢見ていました。19世紀に再興したフランスのメダイユ芸術にも、素晴らしい未来が待っていると思われました。しかし20世紀に入っておよそ10年が経った頃、1909年にアレクサンドル・シャルパンティエとジュール=クレマン・シャプラン、1911年にルイ=オスカル・ロティが相次いで亡くなります。そして彼らに続くべきメダイユ彫刻家たちは、1914年に勃発した未曾有の世界大戦によって、若い才能とともに戦場に散ってゆきます。

 優れたメダイユ彫刻家はいつの時代にも現れますが、フランス美術界の大きな流れをいま振り返ってみれば、シャルパンティエ、シャプラン、ロティの死は、フランスのメダイユ彫刻にとって黄金時代の終わりを意味していたと思われてなりません。




註1 なお「五人会」は、翌1896年、建築家シャルル・プリュメ (Charles Plumet, 1861 - 1928) を迎えて「六人会」(Societe des Six) となり、1897年以降にはメダイユ彫刻家アンリ・ノック (Henry Nocq, 1868 - 1944)、建築装飾家アンリ・ソヴァージュ (Frederic-Henri Sauvage, 1873 - 1932)、彫刻家ジュール・デボワ (Jules Desbois, 1851 - 1935)、建築家ルイ・ソレル (Louis Sorel, 1867 - 1933) らが加わって、アール・ヌーヴォー期のフランスを代表する装飾芸術家集団「ラール・ダン・トゥ」("l'Art dans Tout" フランス語で「あらゆる分野に芸術を」の意味)として、1901年まで活動を続けました。



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