アボット・ハンダスン・セイヤー Abbott Handerson Thayer, 1849 - 1921



(上) Abbott Handerson Thayer, "Winged Figure", 1889, Oil on canvas, 131 x 96 cm, Art Institute of Chicago


 アボット・ハンダスン・セイヤー(Abbott Handerson Thayer, 1849 - 1921)は清らかな女性と子供、天使、及び動物の絵で知られるアメリカ合衆国の画家です。


【アボット・ハンダスン・セイヤーの生涯】

 アボット・ハンダスン・セイヤーは 1849年8月12日、マサチューセッツ州ボストンに生まれました。幼い頃から鳥や動物に強い関心を持ち、オーデュボン(John James Audubon, 1785 - 1851)の「アメリカ産鳥類図鑑」("The Birds of America", 1827 & 1838)が最大の愛読書でした。アボット少年は地面に落ちている羽根を見ただけで種名を同定できました。

 青年時代のセイヤーはボストンとブルックリンで美術教育を受けた後、1875年6月15日に最初の妻ケイト(Catherine Bloede, 1846 - 1891)と結婚し、同年にパリ高等美術学校(L'École nationale supérieure des beaux-arts de Paris, ENSBA)に留学しました。パリ高等美術学校ではジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824 - 1904)とアンリ・レーマン(Henri Lehmann, 1814 - 1882)から教えを受け、やはりジェロームに師事していたアメリカ人画家ジョージ・ド・フォレスト・ブラシュ(George de Forest Brush, 1855 - 1941)と親交を結びました。ブラシュとは後に保護色の共同研究を行うことになります。




(上) Abbott Handerson Thayer, "Mary and Gerald Thayer", 1889, Oil on canvas, Smithonian American Art Museum, Washington, DC


 パリから帰国したセイヤーはニューヨークにアトリエを構えましたが、夫妻は五人の子供のうち二人が相次いで亡くなる不幸に見舞われました。パリから帰国して数年後、夫妻は子供たちとともにニューハンプシャーに落ち着きました。生き残った子供はメアリ(Mary Bloede Thayer, 1878 - ?)、ジェラルド(Gerald Handerson Thayer, 1883 - 1935)、グラディス(Gladys Thayer, 1886 - 1945)の三人で、セイヤーは三人の子供たちをモデルに多数の作品を描きました。

 セイヤーの妻ケイトは1870年に母親を亡くし、1880年と 1881年に二人の子供を亡くしましたが、これに続いて父親も亡くしたことで重度の鬱病に罹って精神病院に入院し、回復しないまま 1891年5月3日に死去しました。妻を愛するセイヤーはケイトの死に大きな痛手を受けましたが、先妻が元気であった時からセイヤー家と親交があった女流画家エマ・ビーチ(Emeline Buckingham “Emma” Beach Thayer, 1849 - 1924)とやがて再婚しました。




(上) 「動物界の保護色」に収録された図版のひとつ。枯葉の上にいるアメリカマムシを描いたセイヤーの水彩画。 Abbott Handerson Thayer, "Copperhead Snake on Dead Leaves", c. 1905 - 1909, Watercolour, Smithsonian American Art Museum, Washington, DC


 アボット・ハンダスン・セイヤーは相当に奇矯な人物で、子供たちを学校に通わせませんでした。三人の子供のうち、年下の二人は父の指導を受けて画家になっています。また外気が健康に良いと信じて、家族全員が季節を問わず野外で寝ていました。

 動物の観察に生涯変わらない情熱を傾けたセイヤーは、息子ジェラルドを著者とした「動物界の保護色」("Concealing-Coloration in the Animal Kingdom", Macmillan, 1909)で、「全ての動物の体色と体表の模様、構造は保護色のためである」との考えを主張しました。自然界において保護色は確かによく見られる現象ですが、自然界には保護色とは正反対の警戒色もありますから、動物の色を常に保護色と解釈する主張には無理があります。実際セイヤーの主張は、狩猟愛好家であり、同年までアメリカ合衆国大統領でもあったセオドア・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt, 1858 - 1919)や動物学者など、高名な論者たちから厳しい批判を受けました。セイヤーは批判されればされるほど頑(かたく)なになり、極端な自説を主張し続けましたが、その一方で精神的重圧に曝されました。晩年のセイヤーは双極性障害を患いましたが、保護色を巡る激しい論争はその一因になったと考えられています。




(上) Abbott Handerson Thayer, "Angel", c. 1889, Oil on canvas, 92.3 x 71.5 cm, Smithonian American Art Museum, Washington, DC


 セイヤーの創作活動には独特の様式がありました。まず第一に、セイヤーはひとつの作品を描くのに三日間を費やし、四日目には休むように心がけていました。セイヤーには実子ジェラルドとグラディスをはじめ何人もの弟子がいましたが、セイヤーは弟子たちに命じて、自身が休んでいる間に、描きかけの作品をそれぞれに模写させました。セイヤーは休息を取り終えるとアトリエに戻り、用意された数点の模写のうち一点を選ぶと、再び三日間を費やして続きを描きます。この方法により、セイヤーは同一の図柄でありながら仕上げが異なる数点の作品を描くことができました。

 絵画制作を四日目に必ず休んだのはセイヤー独自の習慣ですが、弟子の模写を仕上げるという遣り方は、高名な画家たちが普通に行っていたことです。美術史上高名な画家はそれぞれの工房に多数の弟子を抱えて作品を模写させ、仕上げと署名のみを自分の手で行っていました。弟子に模写させた下絵を仕上げるのは、セイヤー自身にとっては時間を短縮できる合理的制作法ですし、セイヤーを敬愛する弟子たちにとっては、師の制作の過程をつぶさに追体験できる良い教育法であったといえます。

 第二に、セイヤーは完璧主義者で、自作の完成度に決して満足できませんでした。顧客から注文された作品が完成し、梱包されて鉄道駅に運ばれた後でも、駅に出向いて梱包を解き、筆を加えることさえありました。芸術家としてのこのような良心は作品の完成度を高めますが、その一方で芸術家自身から見れば、常に不満の残る作品しか描けていないことになります。いい加減なところで筆を措くことができなかったセイヤーは、自分の無力さに常に打ちひしがれていたことでしょう。


 アボット・ハンダスン・セイヤーは、1921年5月29日、ニュー・ハンプシャー州ダブリン(Dublin)で死去しました。遺体は火葬され、遺灰は同州のモナドロック山(Mount Monadnock)に撒かれました。


【1893年シカゴ万博と「玉座のおとめ」】



(上) a photogravure of Chicago Expo 1893 by D. Appleton & Company, Library of Congress, Control Number 97508432


 十九世紀後半のヨーロッパでは、ロンドンやパリをはじめとする多数の都市で、数多くの勧業博覧会や万国博覧会が開かれました。この波は新大陸にも及んで、1876年にフィラデルフィアでアメリカ初の万国博覧会が開かれ、1893年にはシカゴ万博が盛大に開催されました。シカゴ万博はアメリカで二番目に開かれた博覧会で、正式名称を「コロンブス記念世界博覧会」(The World's Columbian Exposition)といいます。シカゴ万博はコロンブスの新大陸発見四百周年を記念する博覧会と位置づけられ、また建築、鉄道をはじめとする産業各分野、並びに経済においてアメリカが成し遂げた飛躍的発展を見せつけて、当時の人々にきわめて大きな影響を及ぼしました。

 上に示したのは D. アップルトン社のフォトグラヴュールで、アメリカ議会図書館に収蔵されています。万博会場の隣はイリノイ工科大学(Illinois Institute of Technology, IIT)の敷地で、このフォトグラヴュールは IITの建物から撮られた写真に基づきます。写真に写っている建物は、向かって左から右に、日本館、木立のある島、自由学芸館、農業館、電気館、本部棟、鉱業館、園芸館です。




(上) Abbott Handerson Thayer, "Virgin Enthroned", 1891, Oil on canvas, 184.3 x 133.2 cm, Smithonian American Art Museum, Washington, DC


 シカゴ万博が開かれた当時、アボット・ハンダスン・セイヤーの油彩「玉座のおとめ」("Virgn Enthroned", 1891)とジョージ・ド・フォレスト・ブラシュが家族を描いた肖像画が、アメリカ絵画の最高傑作としてとりわけ高く評価されていました。アボット・ハンダスン・セイヤーとジョージ・ド・フォレスト・ブラシュは、パリでともにジェロームに師事した友人同士です。1891年に描かれた「玉座のおとめ」は、1893年の時点でボストンの収集家 J. M. シアーズ氏(J. M. Sears)の所有となっていましたが、シカゴ万博に貸し出されて会場に展示されました。

 シカゴ万博を記念して 1893年に出版された美術書「美術と建築」("Art and Architecture",G. Barrie, 1893)において、著者のウィリアム・ウォルトン(William Walton)はセイヤーの「玉座のおとめ」を非常に高く評価し、次のように書いています(註1)。日本語訳は筆者(広川)によります。なお英語と日本語は系統が全く異なる言語であるために、直訳できない場合が多くあります。筆者の訳は原文の意味を正確に移していますが、文意を通じやすくするために言葉を補い、こなれた日本語となるようにも心掛けたので、逐語訳ではありません。


      Two easel paintings by resident artists in the year preceding the opening of the Columbian Exposition were generally accepted as marking one of the very highest levels which American Art had attained. One of these was the large "VIRGIN ENTHRONED," by Mr. Thayer, and the other the small portrait group of his family by Mr. Brush. Both were shown at the exhibition of the Society of American Artists in New York in 1892, and the "Virgin" is at Chicago. This picture has been declared to be "reminiscent of the best qualities of the fourteenth century," and Mr. Brush's, of those of the best of the Dutch masters, but these reminiscences are not very important.     シカゴ万博が開幕する前年に、二名の招聘芸術家が描いたイーゼル画(註2)は、アメリカ美術が達成した最高水準の作品のひとつとして広く認められている。イーゼル画の一点は、セイヤー氏による大作「玉座のおとめ」("Virgin Enthroned")であり、もう一点はブラシュ氏が氏自身の家族を描いた一連の小品肖像画である。両氏の作品は 1892年のアメリカ芸術家協会展で展示され、「玉座のおとめ」のほうはシカゴでも展示されている。「玉座のおとめ」は「最高の十四世紀絵画」を、ブラシュ氏の作品はオランダ肖像画の巨匠による最高傑作を、それぞれ髣髴させると評されている。しかしながら過去の絵画を思い起こさせるかどうかは、それほど重要ではない。
     Mr. Thayer's Virgin sits serene and sweet, looking at the spectator with pure eyes that see him not, and on either side of her kneel little maids in attitudes of adoration, but who are evidently posing to be painted and nothing more. Nevertheless, so quiet, so spiritual, is this work of art that the spectator feels an impulse to uncover before it, - which is much more than can be said of most paintings of the Virgin.    セイヤー氏が描く聖母はしとやかで優しく、美しい。鑑賞者に顔を向けながらも、混じりけの無いその視線は鑑賞者の姿を捉えていない。聖母の両側には幼い子供たちが跪き、聖母を崇める姿勢を取っている。この子供たちが単に絵のモデルとしてポーズを取っていることは明らかであるが、そうであってもこの作品は静謐さと霊性に満ちており、鑑賞者が絵の前に立てば、帽子を脱ぐべきだという衝動を感じずにはいられない。聖母を描く作品の数は多いが、このように評することができる作品は僅かである。
     The color is rich, but sombre rather than brilliant, evidently painted with great care and thoughtfulness, with many experiments and erasures and paintings over, the serene result attained arrived at through much tribulation. But the tribulation was the painter's, and not the spectator's. Mr. Thayer's quality as one of the most spiritual-minded of modern artists had been demonstrated before this, notably by his beautiful white winged figure sent to the Paris Exposition of 1889.    色彩は濃いが華美ではなく、細心の注意と思慮のもとに試し塗りと塗りつぶし、描き直しを幾度も繰り返して描かれていることが分かる。この作品に表れた静謐な雰囲気は、非常な試練ののちに手に入った果実なのだ。しかし試練を潜り抜けるのは画家の仕事であって、鑑賞者の仕事ではない。セイヤー氏は高い精神性を備えた現代の芸術家の一人である。セイヤー氏の芸術のこのような特性は、「玉座の聖母」よりも以前から、特に 1889年のパリ万博に送られた白い翼の人物像によって、既に示されていた。
     Like Mr. Brush, he finds the models, or at least the suggestions, for his beautiful, dispassionate figures among the members of his own family.    セイヤー氏の絵に描かれる人物は美しく、表情と仕草は常に落ち着いている。セイヤー氏の絵のモデルは、ブラシュ氏の場合と同様に、少なくともおおよそのイメージにおいて、氏自身の家族に拠っている。
     Like Mr. Brush, also, alack! He has the faculty of returning to his chef-d'oeuvre, pulling it down and arranging the materials in a new combination, - a fatal quality, common to the practitioners of all the arts, and which, if it frequently result in the production of another masterpiece still more frequently eventuates only in the cheapening of the one already perfected.     しかしまたセイヤー氏はブラシュ氏との間に極めて遺憾な共通点があって、それは一度描いた傑作に何度も立ち返り、作品を再生する能力を備えていることである。すなわちセイヤー氏はかつて描いた作品を分解し、素材を新たに組み合わせて配列する。これはあらゆる分野の職業芸術家に見られる、芸術家生命を奪いかねない資質である。この方法で別の名作を生み続ければ、新たに生まれる作品群では、最初に制作された完璧な作品の価値が低下する可能性のほうがはるかに高い。
     This of course is done, chiefly, because of the limitations of the human imagination; but also, sometimes, from a laudable ambition to do better, from the strong necessity felt of doing something, - and from the never-sufficiently-to-be-lamented desire for gain.    芸術家がこのような方法を執るのには二つの理由がある。第一の理由は、当然のことながら、人間の想像力には限界があるということだ。第二の理由は、より良い作品を生み出したいという気持ちである。しかしながら後者の動機には三つの場合がある。その第一は、より良い作品を生み出したいという芸術的動機による場合。これは賞賛すべき動機である。第二は、芸術的霊感が涸渇している時期にあっても、新しい作品をどうしても制作しなければならない場合。第三は、金銭的利得の追求が動機である場合。最後の場合はこの上なく嘆かわしい動機である。
         
      It is not too much to say that the visitors to the exhibition of the Society of American Artists in 1893 experienced a real shock at seeing again in a large canvas on the walls Mr. Thayer's beautiful Virgin and her two attendants, but this time unthroned, and scurrying in flight, hand in hand, over a windy hill-top among the brambles of which drapery and the tender limbs of the children seemed to suffer.     1893年のアメリカ芸術家協会展では、美しい聖母とその脇に控える二人の子供を描いたセイヤー氏の大作が壁に掛けられているのに再会して、非常に驚かされた。1893年の新作の聖母は玉座に座るのではなく、子供たちの手を取って、風吹く丘を駆けている。三人の周囲には、子供たちの衣や柔らかい手足を引っ掻きそうな茨がところどころに生えている。
     As a painting, this canvas was scarcely, if any, inferior to the first; as a work of art it was inferior only because the stillness, the serene, spiritual influence had been replaced by something also quite admirable but not so high. This hill-top, these hurrying figures, the great blue and white sky behind them, were also illumined by that light that never was; but to paint another masterpiece Mr. Thayer has injured his first.    この新作を一点の絵画として見れば、「玉座の聖母」に比べて劣る点はほとんど無いと言って良い。しかるに芸術作品として見れば、新作は次の点においてのみ、「玉座の聖母」よりも劣っている。すなわち「玉座の聖母」の静謐さ、あるいは静穏かつ霊性の高い影響がこの作品には見られず、極めて美しいが前作ほど高尚ではない雰囲気が、前作の静謐さ、静穏さ、高い霊性に取って代わっている。新作に描かれた丘と、そこを駆ける三人の姿、背景となっている青と白の美しい空は、「玉座の聖母」に決して劣らない光に照らされている。しかしながら別の名作を描くことで、セイヤー氏は「玉座の聖母」を傷つけたのである。




(上) Abbott Handerson Thayer, "A Virgin", 1893, Oil on canvas, 229.7 x 182.5 cm, Smithonian American Art Museum, Washington, DC


 上の写真は、アボット・ハンダスン・セイヤーが 1893年に描いた油彩「おとめ」("Virgin", 1893)で、同年のアメリカ芸術家協会展に出品されました。引用個所で評者ウィリアム・ウォルトンが言及しているセイヤーの新作とは、この作品のことです。1891年の「玉座のおとめ」と 1893年の「おとめ」を比べると、二点の構図は確かに似ており、モデルも明らかに同じですから、ウィリアム・ウォルトンの指摘も全くの的外れとは言えません。1893年の「おとめ」が 1891年の「玉座のおとめ」を傷つけた、というウィリアム・ウォルトンの言葉は、アボット・ハンダスン・セイヤーに対する極めて高い評価と、セイヤーの手による多様な作品を見たいという気持ちの裏返しであり、著者がセイヤーに懸ける期待の大きさが分かります。

 一方、セイヤーの立場に立って考えるならば、似たような作品を描く理由は霊感の涸渇や怠慢の故ではなく、ましてや作品を量産して効率的に稼ごうという意図ではなく、作品の完成度を高めたいからに他なりません。一旦発送した作品を駅まで追いかけて、さらに筆を入れるセイヤーの気質からも、そのことは明らかでしょう。

 セイヤーは弟子たちによる模写の助けを借りて複数の同じような作品を描きましたが、全く同じ作品を描くことはなく、仕上げのタッチを変えていました。これを敷衍して比喩的に評するならば、1893年の「おとめ」は「玉座のおとめ」の模写であるとも言えます。

 セイヤーはひとつの作品につき多様なヴァージョンを制作するのが常でした。またセイヤーは正統的美術教育を受けた画家であるにもかかわらず、仕上げのタッチをヴァージョンごとに変えるために、ときには筆の代わりに箒を使うというような実験まで試みています。セイヤーの形振り(なりふり)構わない制作態度には、作品の完成度を可能な限り高めることのみを望む芸術家の誠意が現れています。1893年の「おとめ」が「玉座のおとめ」の模写のように見えるとしても、前者は後者の切り貼りでは決してなく、いわば芸術家セイヤーが産んだ二人目の子供、すなわちきょうだいに似つつも独自の個性を持ち、きょうだいと同様に尊重されるべき弟または妹に喩えることができましょう。



註1 "Art and Architecture" by William Walton. [Columbus Edition]. Philadelphia : G. Barrie, 1893. 10 v. : ill., map, fronts. ; 49 cm. At head of title: World's Columbian Exposition MDCCCXCIII. Official illustrated publication. "Printed only for subscribers."

註2 イーゼル画(英 an easel painting)とは、イーゼル(画架)にカンヴァス(画布)を立てかけて描いた絵。壁画や天井画に対して言う。



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